どうしてエルヴィンが来たのが自分の所なのか。ここ数日、名前の頭を占めるのは大体それだった。仕事中や食事の合間、入浴中、下手をしたらエルヴィンと向かい合って話しているときでさえ。それが自分だからなのか、それとも場所的な問題なのか。前者なら良いと思ってしまうのは、やはり彼が好きだからなのだろう。帰らないでほしい。そう言えたら。そう、なってくれたら。
「……うわ、」
昼休み。ふと職場の廊下から見た空があまりにも暗くてつい足を止めた。傘持ってきてないな、とぼんやり思っていると目の前の窓ガラスにポツリと雨粒がぶつかる。次々と増える水滴にため息をついてそっとガラスを撫でた。空は暗い。夜のようとまではいかないが、ここまで暗いのは珍しいと名前は思う。その暗さ故か漠然とした恐怖に駆られながら頭にあるのはやはりエルヴィンのことだった。そういえば、と思い出す。エルヴィンが来た日もたしか雨が降っていた。
「……、」
胸の辺りを何かが駆け抜けたような妙な感覚がした。ざわりと浮き立つようなその感覚に思わずそこに手を当てる。ドクドクと脈打つ心臓を押さえるように胸元の服を握り締めた。
「(大丈夫…雨が降ったことなんて何度もあったじゃない…)」
深く息を吐き出して何とか落ち着きを取り戻す。雨は降り続きやがてだんだんと強くなっていく。黒い雲の中で時折光る雷が、今にも落ちてきそうだった。
「お先に失礼します」
定時を少し過ぎた辺りで仕事を切り上げ帰り支度をする。雨はまだ止まない。家までは走って帰るしかないか、と肩を落として入り口の自動ドアを潜った。
「……名前!」
「?……えっ!エルヴィンさん?」
鞄を胸に抱えいざ走り出そうとしたところで声をかけられる。振り向けばそこにはエルヴィンがいて、傘を持ってにこやかに片手をあげていた。
「ど、どうやってここに?」
「歩いてきたよ」
「いや、そうではなくて…だって道…」
「以前この近くまで走ってきたことがあっただろう?」
「え……あぁ、確かにすぐ近くまでは来ましたけど」
名前の日課である早朝ジョギングはエルヴィンの中でもすっかり習慣になっている。マンションの周りから徐々に範囲を広げ、つい最近この近くまで走ってきたことがあった。その時確かにそこを曲がれば勤めている会社なのだとざっくり説明した気はするが、まさか覚えているとは夢にも思わなかった。
「今朝家を出るとき傘を持ってなかったと思ってね。…迷惑だったかな」
「そんな…、嬉しいです。濡れて帰らなきゃと思ってたので…ありがとうございます」
「いや、しかし…傘が1本しか見つからなくて私がかぶってきたものしかないんだが」
「もともと1本しか無いんです。一緒に入りましょう」
エルヴィンは傘を開いて少し上に持ち上げた。名前がそのスペースに身を寄せると二人はゆっくり歩き出す。エルヴィンが傘を傾けてくれていたおかげで名前はほとんど濡れなかったが、かわりに彼の肩がびしょ濡れだった。名前がそれに気づいたのはマンションに着いてからで、恥ずかしいことにそれだけエルヴィンが迎えに来てくれたことに浮かれていたのだ。
「ごめんなさい、すぐお風呂入れますから!」
「謝ることはない。君が濡れなくて良かったよ」
「、……はい、ありがとうございます」
お湯が溜まりエルヴィンが浴室に消えると名前は深く息を吐いて少し火照った頬をぱたぱたと手で扇いだ。嬉しいような、恥ずかしいような。おそらくエルヴィンの言葉に他意はないけれど、優しいそれに名前の胸は熱くなる。もしかして彼も自分の事を…、そう、錯覚してしまう。
「お風呂ありがとう」
「あ、はい!じゃ、じゃあ…私も入ってきます、ね!それとも、夕飯先に…、」
「お湯が冷めてしまうから先に風呂に入ったら良いんじゃないか」
「そう、ですね、じゃあ…行ってきますっ」
「……名前」
「、はい…」
「………いや、夕食は私が何か作っておくから、ゆっくり入ってくると良い」
「あ、…ありがとうございます」
名前は着替えを抱えて足早に風呂場へ向かう。その後ろ姿をエルヴィンがじっと見つめていたことを彼女は知らない。