海に行こうか。何の前触れもなくそう言ったエルヴィンに、ナマエはただ頷いた。小さなショルダーバッグに入るだけの貴重品を持って車に乗り込み、ノイズ混じりのラジオを聞きながら流れる景色をぼんやりと見つめる。もう2時間、こうして車で走っているが依然として海の気配すら感じない。本当に海に向かっているのか、運転席のエルヴィンに視線を向けるとそれに気づいた彼はゆるく微笑んだ。


「疲れた?」

「…少し、…」

「もう少ししたらコンビニがある。そこに寄ろう」


エルヴィンが言った通り、5分も走らないうちにコンビニが見えてきた。そこで少し買い物をして、トイレを済ませ一度体を伸ばしてからまた車に乗り込む。


「この道知ってるの?」

「…あぁ。以前通ったことがあるんだ」

「そう…海までどのくらい?」

「まだかかる…寝てもいいよ。着いたら起こすから」

「うん…じゃあ、そうする」


後部座席からブランケットを引っ張って膝にかける。少し席を倒して目を閉じると不思議とすぐに睡魔が襲ってきて、そして、懐かしい夢を見た。



「ナマエ、君は海を知っているか?」

「何ですか、唐突に」

「壁の外にあるんだそうだ。塩水でできた巨大な湖…と書いてあるが」

「また禁書ですか。いったい何処から入手なさってるんですか?」

「君は知らなくていい。それより海だ。巨大とはどのくらいの大きさなんだろうな…何故塩水なんだ?その水はいったい何処から来ている?その先には何がある?なぁナマエ…知りたいと、見てみたいと思わないか?」

「まぁ…興味はありますけど」

「そうだろう?見られたらいいな…もちろん一緒に」

「…そうですね」


内心、そこまで興味はなかった。ナマエはエルヴィンのように壁の外がどうなっているかなどどうでもいい。兵士をしているのだって決して大層な理由からじゃない。ただ一緒にと、そう言ってくれたことが嬉しくてその時ナマエは微笑んだのだ。



「ナマエ!」

「っ!」

「…随分ぐっすり寝ていたな」

「すみません、私…」

「ナマエ…?」

「あ、…な、何でもないから…、大丈夫」


ナマエは慌てて体を起こし手櫛で髪を直す。頬に伸びてきたエルヴィンの手が冷たく感じて自分のそれが熱を持っていることに気がついた。早鐘を打つように激しく動く心臓を抑えるように胸のあたりに手を当てる。心配そうに覗き込んでくるエルヴィンから、咄嗟に目を反らした。


「本当に大丈夫か?」

「うん……それより、ついたの?」

「あぁ。すぐそこだ」


車から降りると塩の香りとともに波の音が聞こえた。砂浜に足をおろし独特の感覚に思わず破顔しながら波打ち際まで歩く。


「…きれい…」

「…あぁ、綺麗だ」


波がきらきらと輝いていて眩しいくらいだった。思わず溜め息が出るほどに美しくて、儚くて。何故か涙が滲む。それを誤魔化すようにナマエは一歩足を踏み出した。


「ねぇ、足入れてみたいな」

「タオルは持ってきてないんだろう?」

「そうだけど…乾くまで居たら良いじゃない」

「…そうだな」


靴を脱いで膝下まであるスカートを少し持ち上げた。足首まで浸け小さな波を蹴るときらきらと輝きながら雫が落ちていく。
ナマエ自身、海を実際に見たのも波に触れたのも今が初めてだ。昔…そう、ナマエが兵士をしていたあの頃に比べれば海はずっと身近で、珍しくもなんともない。見ようと思えばいつでも出来たのに、それでも、あの時の会話が頭から離れなくて。


「ナマエ…あまり浸かっていると冷えるぞ」

「…はーい」


ナマエはしぶしぶといった風に海からあがり案の定砂まみれになった足を鬱陶しそうに揺らす。砂浜に腰をおろすと間もなくエルヴィンもすぐ隣に座った。しばらくの間お互い黙ったまま、寄せては引いていく波を眺める。


「ナマエ…少し、変な話をしても良いかい?」

「…なに?」

「何故だかわからないが、ずっとこの時を…君と海を見るのを待っていた気がする」

「……」

「それに、実は今朝夢を見たんだが…出てきた女性が何となく君に似ていてね。二人で海を見に行こうと約束したんだ」

「…そう、」

「まるで海を知らないような話しぶりで、部屋や格好も…今とは違って、…とにかくよくわからないんだが、君と海を見たいと思ったんだ」

「……それで、今朝急に海に行こうなんて言ったの?」

「あぁ」


ナマエはくすくすと笑いながらおかしな夢だと笑った。彼女はそれが夢ではなく記憶なのだと気づいていたけれど、どうしてもエルヴィンに伝える気にはならなかった。知らなくていいこと、気づかずにいたほうが幸せなこともある。エルヴィンにとってあの頃の記憶はまさにそれなのだ。いつか全てを思い出す時が来るのだとしても、それまではただのエルヴィン・スミスであって欲しかった。


「ねぇ、エルヴィン…」

「ん?」

「私ね、エルヴィンが好きだよ」

「…どうしたんだ急に」

「…ちょっと、伝えたかっただけ。そろそろ帰ろっか」


足についた砂はすでに乾いていて手で払えば簡単に落ちていった。ナマエはわざとらしくよいしょ、と言いながら立ち上がりくるりと体の向きを変え車が停めてある方へと歩く。しかしエルヴィンは一向に立とうとしなかった。エルヴィン、何度かそう呼びかけるとようやく彼はゆっくり振り返り、小さくナマエの名前を呼んだ。


「エルヴィン…、?」


逆光の中でぎらりと輝く瞳は、確かに団長のそれだった。

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