「う〜ん…これはうちでは出来ないな。紹介状を書くからそっちでやって貰ってくれないか」

黒とグレーと白で表現された下顎のレントゲン写真を眺めて医者は言った。
朝起きた時から奥歯がじんじんと痛み、それは時間が経つにつれて頭痛も伴って来た。すがるような思いで行きつけの歯医者に行ってみれば、親知らずが横に生えているので普通に抜く事が出来ないと。中年の生真面目そうな医者が指差す部分は確かに大きな親知らずが横向きに生えておりしかも歯茎に陥没をして横の歯を圧迫していた。

「大きな病院ではないが、まぁ…その道のプロだ。確認して今から行けるか聞いてみよう。君も辛そうだしなぁ」

「…は、はい。お願いします。食べ物も食べれません」

「そうだろうな」

親知らずで苦しむ患者は見慣れているのか歯医者は軽く相槌を打つと診察室の奥へと引っ込んで行った。
ナマエは一先ず待合室で待っていようと診察室を出た。



・・・・



紹介された先の歯医者は一つ隣りの駅にあった。駅から歩道橋を渡って北口へ出て、そこから真っ直ぐに商店街を抜ける。一歩また一歩と足を地面に下ろす度に、口の中に振動が伝わりそれでまた奥歯の痛みが激しさを増す。病院までさほど遠くないはずなのにその道のりは地獄のように苦しかった。

(歯医者は…歯医者はどこ…!?歯が全部抜け落ちそう…)

右の頬に手を添えながら朦朧とする意識の中でナマエは目当ての看板を見つけた。

"口腔調査兵団"

やたらと画数の多い歯科医院の名前に似合わず、その病院の壁は緑の蔦で覆われ屋根は白くレンガ造りの西洋の屋敷のようだった。庭にはこの時期の花なのだろうか、薔薇が植えられ見事な大輪をつけていた。

(ここ…歯医者…?)

病院の名前からしていかがわしいが一刻でも早く親知らずをどうにかしたいナマエはもうそんな事はどうでも良く、黒い鉄で出来た両開きの門を引いて中に入った。


門を抜けるとそこは庭一面に薔薇などの色とりどりの花が咲き誇っていた。無造作に生い茂るように見えて手入れの届いた庭。自然風景の美しさを取り入れた実に見事な庭だった。

(こんな場所があるなんて…)

しばしナマエは親知らずの痛みを忘れ庭の風景に見入っていた。

「患者か?」

上から声が降って来たと思い、視線を上へと向けると三本足の脚立の上に庭木の手入れをしている男がいた。"患者"という言葉に再び親知らずが疼き、ずきずきと痛みがぶり返して来る。男は脚立からすとんと地面に降り立つとハサミなどの道具をそのまま置きっぱなしにしてナマエの先を歩き出した。ナマエも男の後ろから付いて行く。

(庭の手入れの人かな…?)

門から真っ直ぐに延びた道は病院の入り口に繋がり、その道に沿って色とりどりの花が鮮やかに咲き誇る。時折、ひらひらと蝶々が花の周りを飛んでいる様子が見られここは本当に歯の治療をする場所なのかとナマエは不思議に思っていた。
病院の入り口の扉を開け、男は誰もいない受付に無造作に着けていたガーデニング用の軍手を置いた。洋館の中は思っていたよりも病院らしく、受付、待合室、そして診察室と分かれていた。

「さっさと保険証を出せ。お前がさっき連絡のあった親知らずの患者だろう」

(この人、受付の人だったの…?)

ナマエは慌てて鞄から保険証と先の病院でもらった紹介状、そして持たされて来たレントゲン写真の入った封筒を男に渡した。男は受付に置かれているパソコンで何か作業をすると奥へと引っ込んで行った。

(何か不思議な歯医者だな…)

ナマエは辺りをキョロキョロと見渡しながら待合室の椅子に座った。患者はナマエの他に誰もおらず、歯医者独特の機械音も聞こえて来ず、静かで落ち着ける空間だった。本当に歯医者なのかと疑ってしまう。

「………!」

その時、"1"と書かれた診察室の扉が開き、中から医師と思われる男が出て来た。その証拠に上下で分かれる白衣を着ている。

「ミョウジナマエさんかな。中へ」

歯科医師の凜とした澄んだ声に導かれるようにナマエは診察室へと入った。


診察室へ入ると、背中が倒れる椅子(歯科用ユニットという)が置かれそこに座るように促される。ナマエは履いていたスリッパを脱いで歯科用ユニットに腰を掛けた。座るところが少し斜めになっているので背もたれに背中を預け自然と深く腰が掛けられるようになっている。

「これがレントゲン写真だが…」

ふいに歯科医師はレントゲン写真をユニットの前に掲げられているボードに張り、そしてナマエの近くの椅子に腰を下ろした。キャスター付きの丸椅子はギシリと音を立てた。

「右の奥歯がこのように横向きに生え、横の歯を圧迫している。ただ、歯が歯茎に埋まっているので手術をしないと親知らずは取り出せない。手術自体は簡単で日帰りで済むのだが、抜糸が必要になるのでまた後日こちらに来て貰わないといけない」

事務的に淡々と説明をする口調が医師らしいなと思った。説明をしてくれるだけまだマシかもしれない。
ナマエはすぐ横にいる歯科医師の顔を見た。彼もナマエの表情を伺っていたのか二人は目が合った。医師はナマエが不安に感じていると思ったのか、青く澄んだ瞳を細めて微笑んだ。

「なに、その痛みも直ぐにとれる。私はその道のプロだ。大丈夫」

そこら辺の歯科医と何ら変わらないと思っていたが、患者を思って言ってくれた言葉が心強くナマエは今にも泣きそうになった。

(何この人優しい!優しい歯医者さんで良かった…カッコ良いし)

「では、さっそくやろうか」

そう言うとナマエの座る歯科医ユニットの背もたれを後ろに倒し始めた。そして口元にマスクを装着し、青いゴム手袋を両手にはめた。目元しか見えないその顔は力強い瞳と眉毛でより一層頼もしく見えた。
何の疑いも無くナマエは倒れて行く背もたれに身を預けた。

(先生…近い)

横で治療に使う器材の準備をしている担当の歯科医の顔を見上げる。髪型は几帳面に分けられ、綺麗な金色、青い瞳。確かにこの洋館に似合う風貌だと思った。診察の無い日は何をしているのだろう。受付の男性とは仲は良いのだろうか。好きな食べ物は?既婚か独身か。独身であれば嬉しい。定期検診に通いたい。
ふいにナマエの目にはタオルが掛けられ視界は何も見えなくなり、妄想は強制的に途絶えた。続いて明るいライトが口元に照らされたのがわかった。

「麻酔を打つための麻酔をする」

遠慮がちに開いた口にこれまた遠慮なく大きな指が入って来たと思ったら、奥歯の痛むところに温かい液体が注がれた。歯茎が熱を持ったように一瞬熱くなりそして硬い棒状の何かを歯に当てられる。

「麻酔が効くまでしばらくこのままで待たなければいけない」

指が口の中に入ったままそう言われた。

(どれくらい待つんだろ…)

歯科医はその間無言だった。口の中に入れられた手はしっかりと歯を押さえつけ、近くにいる為に相手の呼吸のリズムがわかる。ナマエは少しばかりドキドキとしていた。

(先生、何気にカッコいいんだよね…)

しばらくこのまま口の中に手が入っていても良いかもと思っていた時にちょうど口から手が離れて行った。

「これは痛むかい?」

奥歯の歯茎に硬い先端の何かが当たる感触があったが、痛みは感じない。

「痛くないです」

「よし、麻酔が効いてるな」

「………っ!」

間髪入れずにぶすりと針が歯茎に刺さる感触があった。痛くは無いが感触でわかる。いや、やはり歯茎に注射の圧がかかり少し痛い。歯茎の奥まで注射針が届いているのがわかる。

(ちょ…先生何か強引!)

何箇所かに麻酔を刺し、ナマエの奥歯はすっかり感覚が無くなった。少し痺れを伴っている気がする。すると歯茎に何かをあてられぐっと力を入れられた。

「あ、痛っ!ちょっと痛…」

「大丈夫、歯茎を開いただけだから」

(痛いって言ってるのに!大丈夫じゃない…!)

「おっと…」

(え…何?)

歯科医が突然、声を上げてカチャリと器具を置く音が聞こえた。

「ミケ、頼む」

歯科助手らしき人の名前を呼び、もう一人の人物がナマエの側に近寄って来た気配を感じる。

「呼んだか?」

「"ノミ"と"トンカチ"を持って来て貰えるか」

(トンカチ!?大工さんの道具じゃん!)

ナマエの側にいた人物がふっと離れたと思ったら直ぐにまたやって来た。頼まれた大工道具を持って来たのだろう。

「……ああ、すまないミケ。ナマエ、軽く衝撃があるが頑張ってくれ」

(え…?)

すかさずもう一人の人物がナマエの口を手で開き、器具が一つ入って来たと思ったら脳天が割れるかと思う程の衝撃が口内に走った。

「耐えるんだナマエ。歯を割らないと歯茎から取り出せないんだ。なるべく痛くないように努力するよ」

そう言いつつもノミを歯に打ち付けるトンカチの力を一切弱める事なく、ガンガンとノミを歯に打ち付けている。

(く…苦行…あがが…)

バリンと歯が割れた感覚があり、それと同時にノミは口から出て行った。

「さすが、埋没型奇行種…大丈夫か?後はもう簡単な作業だ」

ガンガンと口内に強い衝撃を受けていたナマエは半端放心をしていた。まさか歯をノミで砕かれるとは。

「後はこれを取り除いて縫って終わりだ」

歯科医がカチャリと別の器具に持ち替えた音が聞こえて、一気に口内に器具が入って来る。割った歯をペンチらしき物で掴むと、メリメリと歯が鈍い感覚を立てて一気に抜かれた。

「さぁ、あと一本っ!」

(歯がメリメリ言ってる…)

何故かテンションが高くなっている歯科医を他所にナマエはぐったりとしていた。
再び歯がメリメリと悲鳴を上げて迷いなく一気に抜かれた。

「よし…良く頑張ったな。縫って終わりだ」

メインの作業は終わったようで、手早く傷口を縫うとその奥歯に固く丸めた脱脂綿を詰め込んだ。

「さすがだな。エルヴィン。迷いが無い。俺はもう行くぞ」

「あぁ、施術と決断は早いに越した事は無い。ナマエ、30分はその脱脂綿を噛んだままにしておいてくれ」

ようやくナマエの顔に掛けられていたタオルが外され、視界は急に明るくなった。視線の先には歯科医の晴れ晴れとした顔が目に入った。

「これが君を苦しめていた犯人だ」

そう言って銀色のトレイに置かれていたのは血だらけで二つに割れている大きな歯だった。

診察室から出たナマエは口内をガンガンとノミで叩き割っていた事に衝撃を受け、よろよろと待合室の椅子に腰を下ろした。打ち付ける衝撃がまだ頭の中で聞こえて来るようだった。

(今は麻酔が効いてるから痛くないけど…凄まじい手術だった…)

受付にいた目付きの悪い男が奥の部屋から何か白い袋を持って出て来た。そしてどさりと受付に座るとパチパチとパソコンのキーボードを叩いている。

(また抜糸に来ないと行けないんだよね…あぁ嫌だな。あの先生、優しいようでちょっと強引で怖い…)

鞄から手帳を取り出し来週の予定を確認している時、受付から声が掛かる。

「ミョウジナマエ、会計と次の予約を入れて行け」

「はい…」

重い腰を椅子から上げて受付に行くと、男がナマエの顔を見上げてハッとした表情になった。おもむろに受付に置いてあるティッシュボックスからティッシュを数枚取り出すとナマエに差し出した。

「…それを拭け。麻酔が効いてるうちは口がだらしなく開くからな。間抜け面を晒さねぇように気を付けろ」

ナマエは口の端を指で拭ってみるとよだれが口から出ていた。

(げ…恥ずかしい)

ナマエは差し出されてティッシュを受け取り、よだれを拭いた。受付の男は特に気にも止めておらずパソコンの画面を見つめている。

「会計は7,860円だ」

思っていたよりも安かった。財布からお金を取り出し置いてあるトレイに乗せる。素早くお釣りを渡されると、白い薬の入った袋と診療明細書、渡していた保険証を返される。

「痛み止めは最適6時間は間隔を開けろ。これはうがい薬だ。あとは毎食後に1錠ずつ飲め。口に入れた脱脂綿は10分後に捨てろ。血がまだ止まらねぇ時はまたここに来い。何か質問はあるか?」

「いえ…大丈夫です」

「それと、次回の予約だが…」

受付の男は卓上カレンダーを捲り指をさした。

(この人…受付なのにこんな口調でクレーム来たりしないのかな…)

「ここかこの日なんてどうだ?空いてる日がそこしかねぇ。後はお前が予定を合わせろ」

幸いその日は都合良く仕事が休みだ。ナマエはカレンダーの日付けを指差しながら言った。

「じゃあ…この日でお願いします」

「了解だ」

新しく作って貰った診察券にすらすらと次回の予約日を記入し、受付の男が診察券をナマエに手渡した。

「気を付けて帰れよ」

「ありがとうございましー」

「リヴァ〜イッ!!!」

歯科医院の扉が勢い良く開けられ、外から人が走って来た。そのまま受付の台にぶつかるように前のめりになる。

「ねぇねぇ!インプラントの患者さんはまだぁ!?」

その人物も上下に分かれている白衣を着ている為、ここで働く歯科医なのだろうか。髪をハーフアップにし眼鏡を掛け、いかにも研究者のような風貌だ。

「騒ぐなクソ眼鏡。今日はインプラントの予約は入ってねぇ!」

「そうなの!?いやぁ残念だなぁ。人工物と歯茎の融合!噛み合わさる顎と骨!手術がしたくて堪らないよ〜」

「…………」

ナマエは盛り上がっている二人を他所にそっと歯科医院から外に出た。
外は薄暗い室内とは違い快晴で、道の両脇には花が咲き誇る。

(私、さっきの人が担当じゃなくて良かった…)

ほっと肩を撫で下ろし、ナマエは手入れのされた自然庭園を出口に向かって歩いて行った。

(来週もここに来なきゃいけないのね…)

後ろを振り返れば"口腔調査兵団"の看板がレンガ造りの洋館の壁に怪しく異彩を放っている。ナマエは血の味の滲む脱脂綿を奥歯に噛み締めながら元来た道を帰るのだった。


口腔調査兵団