激しい雨が降り、地面も空も目の前の景色もどこか暗い。夜になればこの暗さはさらに深く濃くなるだろう。

ナマエはぬかるんだ道をひたすらに走った。初めて見る場所で自分がどこにいるのかすらわからず、どこに向かっているのかもわからない。ただ追ってから逃げる為に足を動かしていた。後ろを振り返れば捕まるとそう自分に言い聞かせ足の裏から血が出ているのにも構わず走った。
足の感覚がいつしか無くなり小さな石につまづき水溜りへびしゃりと転んだ。身体の感覚は無くなっているとばかり思っていたが、転んだ衝撃だけは雷のように鋭く全身を貫いた。痛い。痛くて思わず口から声が漏れる。けれどか細い声は雨の音で簡単に消されてしまった。
ただでさえ薄汚い身体に泥水が被り口の中にも泥が入った。ざらざらとした砂の感触が口の中を不快にするが、何日も食べ物を口にしていないナマエはこれも栄養になるのだろうかと遠くなる意識の中でぼんやりと考えていた。

・・・・

自分の身体が冷たくないと気付きハッとして目を開けると薄暗い部屋の中にいるようで、ほとんどが黒い影で覆っている茶色い木目の天井が目に入った。ゆっくりと身体を起こしまだ薄暗い辺りを見渡す。部屋にはランプが火が灯った状態で置いてありぼうっと周りを照らしているが、特に変わったところのない簡素な部屋だった。

(ここはどこ…?)

水たまりに転びそのまま意識を失ったところで記憶が途絶え、気付けばどこかの部屋のベッドの上にいるようだ。追っ手に捕まってしまったのかと、心臓が早鐘を打ちナマエの身体は強張った。その時、思わず着ている服の裾を掴むと何やら違和感を感じた。

(これ…私の服じゃない)

自分の薄汚れた服ではなく、真っ白なシャツのようだった。しかも男物。自分の身体の大きさよりも大きなシャツだった。

(追っ手に捕まったんじゃない…?)

ナマエを拘束していた連中は粗暴で人を人だと思わないような凶悪な人間の集まる組織だった。わざわざ着替えをさせてベッドの上に寝かせるなんて事をするだろうか。しかも手首には拘束する為の手錠が掛かっていない。自分のやせ細った手首をしげしげと眺めていると急に部屋の扉が開いた。
突然の事に自分でも驚くくらいに身体がびくりと反応すると、入って来た男は穏やかな声で言った。

「湯の準備をしておいた。身体を洗って来なさい。外は冷たかったろう」

そう言って白いタオルを手渡され、思わず男の顔を見ると小汚い娘を軽蔑するわけでもない、にこりと笑うわけでもない、それでも冷たくあしらうわけでもない、何とも複雑な青い瞳と目が合った。


男が用意をしてくれていた湯を浴び、身体と頭の汚れを落としぽかぽかと温かくなった身体で浴室から出ると薄暗い廊下に出る。何も置かれていない廊下の先に部屋があり、開かれた扉の隙間からランプの灯りが漏れていた。男がそこにいるのだろう。男が何者かはわからないが、きっと追っ手ではなくて親切心で道端に倒れていたナマエを助けてくれたのだ。

(そうだとしたら何てお礼を言ったら良いのかな…)

ナマエは期待を込めて恐る恐る部屋の扉を開けて中に入った。

案の定、男は部屋の中にいて二人がけのテーブルの椅子に座っていた。何か書き物をしていたらしく、部屋に入って来たナマエに気付くと持っていた羽ペンをテーブルに置いた。

「さっぱりしたかい?」

すとんとナマエに掛けられた声がとても温かなものに聞こえ、ナマエはこの男がどうしても悪人には思えなかった。追っ手ではない。そう断言できる。
ナマエがどうお礼を言おうか、何から説明しようかともじもじとしていると男の方が先に口を開いた。

「こっちに来なさい」

大人しく男の言う通りにテーブルの向かいの席に座る。ランプが置いてある為かランプの灯りで男の顔には濃い陰影がつけられ、いっときは悪人ではないと思った男の認識が間違っていたのかもしれないと少し不安になった。真正面で向き合うと男は威圧感があり、顔というよりもまとう雰囲気に息苦しさを感じてしまう。

「…道端で倒れていた君を抱き起こした時に首にある刺青が目に入った。それで医師にも見せずにこうして屋敷に連れて来たのだが…約2日間目を覚まさなかった」

「…………」

ナマエは自分の右手で首にある小さな番号の彫られた刺青をとっさに隠した。

「逃げてどうするつもりだったんだ?その刺青の意味を知っている者は少なくはない」

男は軽くため息をつくと、椅子から立ち上がりナマエの側まで来た。首に置かれたナマエの右手を掴むと軽々とその手をどけた。首筋に掘られた数字がランプの灯りの下で黒く佇んでいるナマエの右手は男に捕まっている。痛くは無いが、男のごつごつとした手と感触が酷く恐ろしかった。

「既にこの時点でこちらにもリスクがある。君の安全を確保する事を条件に、君には私の身の回りの世話をしてもらいたい」

男の青い瞳はナマエの刺青に注がれ、それがヒリヒリと首筋に痛みを与えている気がした。断ったらこの場で殺される。自分の直感がそう訴えている。

「……返事は?」

「はい。よろしく…お願いします」

ナマエがそう言うと右手の手首を掴んでいた手がぱっと離され、次に男はナマエのまだ濡れている髪の毛に触れた。

「良かった…君は今から自由だ。おめでとう」

それからナマエは小さな自由を手に入れた。
外出は決して許されず、広い屋敷の中で男と二人きり。外の景色は屋敷の窓から見える薄暗い森と、それとは対照的な明るい空だけだった。それでもナマエは幸せだった。汚い小屋で何十人と暮らす事もなく、食事にもありつける。酷い仕打ちを受けることもない。男も優しかった。ただただ、男はナマエに優しかった。


手に入れた自由