僕らの末路を括目せよ


 前から歩いてきた老夫婦が手を繋いで仲睦まじそうに話しているのをぼんやりと眺めてから、ちらりと自分の空っぽの手に目をやった。隣にいる男は今日一日で何十本目かになる煙草にまた火を付けている。
「身体に悪いよ」
「それ、俺に言う?」
 もっともだ。私達は不老不死なのだから。煙草ごときで死ねるならば、何十年も昔に死んでいただろう。心中に失敗したら不老不死になりました、だなんて、なんて恥晒しだろう!
 しかも、心中の相手が愛する人なんかじゃなく、ゆきずりで決めた相手なんだから笑い話にもならない。
「そうだけどさぁ」
 ジリジリと日差しが首筋を焼く。公園のベンチに座りながら、この暑い昼間からぼんやりとしている私達は他からどう見られているのだろう。
 老夫婦の歩みはゆっくりだ。この暑い中、急くでもなく、ただゆっくりと歩いている。死への歩みを止めてしまった私達よりも、よっぽど穏やかに幸せに、歩いている。
「羨ましい?」
 あまりにもその光景を見過ぎたのだろう。隣の男――夏希が小首を傾げて聞いてくる。死のうとした引き換えに死ねなくなったのに、老夫婦を羨むことすら烏滸がましい。
「ううん」
「そう」
 煙草を燻らせながら、夏希の返す言葉は淡白だ。この男は昔からこうだった。老夫婦がいなくなったあとも行く当てなどなくただぼんやりとしていた。つい先ほどまで暮らしていたアパートは、あまりに私たちが変わらず老いて行かないことに勘付き始めた住人達からのやんわりと遠回りな拒絶により出て行かざるをえなくなった。小説や漫画にあるほど激しい拒絶はない。異端を察した住人たちはあくまでも遠回しに、けれどはっきりと、拒絶を示す。長年の暮らしの中で去り際は心得ていた。
 逃げた≠ニいうことに気付かれないように私たちは突っかけたサンダルと小銭入れだけというコンビニにでも出かけるかのような格好で公園にいる。いずれにしろ、“先ほどまでの私たち”が使っていた物は全て次に使い回しはできない。それが私と夏希が数十年前に決めた取り決めのうちのひとつだった。
「後悔してるの」
 ぽつり、夏希は煙を吐き出したついでのように言った。それは、このタイミングであのアパートを出てきたことについてだろうか。
「いつものことでしょ」
 確かに私はあのこじんまりとしていたアパートを気に入っていた。共同の裏庭に住人たちが適当に植えた花々を勝手に手入れするのが好きだった。そういえば、あの萎れかけていたペチュニアは無事だろうか。明日から、あの庭は誰が手入れをするのだろう。
「そうじゃなくてさぁ、」
 そこまで言ってから夏希は気怠そうに口を閉じた。この人が言葉を区切るのはよくあることだった。そうすると夏希は相手が問いかけるまで絶対に続きを言い出さない。言葉の途中で説明するのが面倒になったのだと言うことはすぐに察せられた。
「なに、言ってよ」
「言わない」
「どうして?」
「格好悪いから」
 そんなこと、今さら気にすることだろうか。ぐずぐずになってしまった恥も、目も当てられないような醜態も、全て見せてしまった後の私たちに、格好つける余地なんてあったのか。考えが全て顔に出ていたのかも知れない、夏希は鼻から煙を深く吐き出した。
「プライドくらい、あるよ、俺にも」
「プライド」
 もごもごと口の中で繰り返した。プライドとは何だろう。私にはプライドは残っているだろうか。
 いつのまにかサンダルの中に入り込んだ砂粒が足の裏に刺さって痛いことに気付いた。不老不死なのに足の裏の砂粒がこんなにも気になるのだから不思議だ。痛みに鈍くなるということも今のところない。それに、こんなにも暑い日には汗をだらだら流して、目に入ったそれが染みたりする。
「春香にはないの、プライド」
 ゆっくりと煙草の煙を吸い込み、吐き出してから、そのついでとでもいうように夏希は言った。うるさいほどに蝉が鳴いている。私たちが心中したのはこんな日とは似ても似つかない静かな冬の海だった。
「プライド、ねぇ」
 サンダルを脱いで、砂粒を追い出しながら考える。私のプライドはどこにあるのだろうか。譲れないものとは何か。
「貴方かも知れない」
 思い浮かんだのは隣にいる男の姿だった。この気怠く、何もかもどうでも良さそうな男と共に、これからも人並みの生活をしていること。生きているということ。あの日果たせなかった心中をゆっくりと、ゆっくりと、進めて行くように、生きるということ。
「貴方と、生きてること、後悔はしてないの」
「適当に選んだ相手の癖に」
「そうだね」
 サンダルを履き直して、立ち上がる。夏希も煙草を吸い終えた頃合いのようだった。夏希は軽い調子で笑えぬ毒を吐くのが常だった。それにも慣れてしまったから、私も軽い調子で受け流す。
「そろそろ行こう?」
「うん」
 それ以上は何も言わずに、夏希は素直に頷いた。ゆっくりと歩き出す。当たり前のように夏希はゆっくりと歩くので歩調は同じ。
 相変わらず私の手の中は空っぽだ。そこが埋まることはきっとない。心中しようとしたあの日は、あんなに簡単に手を繋げたのに。
 私たちは二人で生きている。二人で、死んだように生きている。

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