アイ・ラブ・ユーはうたえない


『海に行こうよ』
 既に死んだはずの麻衣から電話がかかってきたのは、深夜二時を過ぎた辺りだった。何度確認をしてみても携帯の画面に映し出されているのは死んだはずの彼女の名前で、俺が返事をしないことに焦れて「おーい、」と言うその声も麻衣のものだった。
「ああ、わかった」
 騙されているのかと思った。性質の悪い悪戯か、俺の頭がおかしくなってしまったか、そのどちらかだと。けれど、俺は返事をしていた。話を合せないと、現実に引き戻されてしまう気がしたからだ。ひと時で良いから、この幻聴に騙されていたかった。
『よし、じゃあいつもの場所で待ち合わせね!』
 その言葉を最後に切れてしまった電話に俺は呆然と立ち尽くした。いつもの場所とは、麻衣が生きていた頃に待ち合わせ場所に使っていたファミレスのことだろう。頭で考えるよりも先に車の鍵を手に取っている自分がいる。行って、どうするのだろう。彼女がいない現実を再確認して終わるだけではないのか。それでも。理屈ではない感情が俺を突き動かしていた。
 ファミレスにつくといつもの席≠ヨ行ってみる。一番奥側、窓際の席。
 そこに、本当に、麻衣はいた。夏らしい紺色のワンピースを着て、窓の外を眺めている。生前と同じ姿にしばし絶句した。通路で立ち止まる俺の横をトイレへ向かう客が邪魔そうにして通り過ぎる。
「ひぃくん、何してるの、はやくおいで」
 こちらに気付いた麻衣が柔らかな笑みと共に俺へ声をかける。とんとんとテーブルを叩いて、俺に座ることを促した。
「麻衣、なんで、」
「なんでって、海に行く前に腹ごしらえ。おなかすいたの」
 どこか擦れ違う会話をして、また「はやく」と促されるままに麻衣の向かい側に座る。麻衣は「久しぶり」も「会いたかった」も言わなかった。死んだことなどなかったように、昨日も大学で会ったかのように、ただ「何にしようかなぁ」とメニュー表を開いた。
 触れるのか、と思った。彼女は幽霊か幻覚だと思っていたから、メニュー表をひょいっと手に取るさまに驚いてしまった。それに彼女はおかしそうにくすくす笑いを漏らす。
「ひぃくん、変」
 変なのは、お前の方だろうと言ってやりたかった。俺をおいて死んだはずだろう、お前は。どうして、今さら。彼女の死から二年の年月が経とうとしていた。
「私はドリア食べようっと。ひぃくんは?」
「……コーヒー」
「おなかすいてない?」
「こんな時間に食べたら太るぞ」
「あ、ひっどい!」
 まるで彼女の死がなかったことになったようだった。
 麻衣は当たり前のように店員を呼び出すスイッチを押し、当たり前のように店員に注文をした。
 出てきたドリアをふぅふぅと慎重に冷ましながら口に入れている。猫舌なのも相変わらずらしい。これは夢なのだろうか。ファミレスのただ苦いだけのコーヒーを飲み込みながら思う。夢ならば覚めるな、と。
「ひぃくん、こんな時間まで何してたの?」
「特に何も」
「えー、健康に悪いなぁ」
「お前もだろう」
「そーだけどー」
 軽口を叩きながら、彼女は笑う。睡眠導入剤を飲んでも眠れないんだ、なんて、言えるわけがなかった。二年前より俺は大きく変わってしまっただろう。けれど、麻衣がそれに言及することはなかった。
 ドリアを食べ終わると手を合わせた麻衣が「ごちそうさまでした」と呟く。会計を済ませてファミレスを出ると、二人で車に乗り込んだ。
「なんで急に海なんだ」
 運転をしながらも、何度も隣に麻衣がいるか確認してしまう。ミラー越しに彼女がいることを確認しては安心していた。
「うーん……見たくなったから、かなぁ」
 麻衣は腕を擦りながら言った。腕を擦るのは麻衣が嘘を吐くときの癖だった。そして俺は直感する。もしかして、麻衣は俺を迎えに来たのではないかと。
「そうか」
 気付いたことに気付かれないように俺は前を向き直した。車内は静かだ。
 こんな時間に海に向かう人間は少ない。道路は空いていて、すぐに海へ着いた。
「海だ!」
 浜辺へ降り立った麻衣ははしゃいで走り出す。海辺は明かりも少なく、真っ暗だ。暗闇へまぎれてしまうそうになる麻衣にぶわりと冷や汗が吹き出した。
 行ってしまう。
「麻衣!」
 あまりにも大声を出しすぎたのだろう。ヒリヒリと喉が痛んだが、それもどうでもいい。麻衣が肩を跳ねさせて驚いたのが分かった。くるりと振り返ると足早に戻ってきて、俺の手を握る。
「……ごめんね、おいて行っちゃって」
 今のことに関しての言葉なのか、死んだことに対しての言葉なのか、俺には判断がつかなかった。
「麻衣、」
「なぁに、ひぃくん」
「連れて行ってくれないか」
 悲願の声は掠れていた。情けなく震えだす体と無意識に力が込められて行く手。彼女の細腕に痕がついてしまいそうだ。
「いいよ」
 海を背にして、彼女は泣きそうな下手くそな笑みを浮かべていた。
「いいよぉ、ひぃくん」
 ワザとふざけて、明るく言う麻衣。俺も同じような顔をしているに違いなかった。二人で、歩き出す。海の向こうへ。空には大きな月が出ていて、ああ、彼女が死んだのもこんな満月の日だったと思い出す。いつの間にか海に腰まで浸っていた。寒いのか、麻衣が震えている。二度目の死を恐れているのかも知れなかった。
「ひぃくん、私ね、」
 ぽつり、麻衣は言った。
「私、最初からひぃくんのこと、殺す為に来たの。ひぃくんのこと、誰にも渡したくなかったの。でも、でも、ごめんね」
「ああ、知ってたよ。ありがとう」
 そう答えるのと同時、麻衣が首に腕を回して、抱きつくようにして重心を前にかける。その重みに身体を任せると反転した視界の中、丸い月が見えた。

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