きりしば!



 ぱち、と目を開けた。すると、なぜかアームレストとぴったりの位置に視線がある。なんだこれ。首を傾げようとして、耳がぴくっと動いた気がした。なんだこれ。


 とりあえず起き上がろう、と体を起こして、俯せに寝ていたことに気が付いた。普段仰向けなのに、とあくびをすると、妙に大きく口が開く。なんだ?


「あれ?」


 第六西の扉が開いた。きょとんとした顔でこちらを見下ろすのはアイツだ。なんだよ、と視線を向けながらソファの上に座る。アイツのきょとん顔は変わらない。


「どうしたの?」

「あ、松隆くん……」


 総もひょいと廊下から顔を覗かせた。おう、と挨拶しようとして──声が出ないことに気が付いた。あれ?


「……桜坂の仕業?」

「まさか。松隆くんじゃないなら月影くんとか……」


 おい総、やばい、声が出ない。普通に喋ろうとしても声の出し方を忘れたみたいだ。ふるふると首を振る。なんだ、一体何が起こってる──。狼狽えて、ただ喋るんじゃなくて一生懸命声を張り上げようとする。


「ワン!」

「わ! 吠えた!」

「そりゃ吠えるでしょ、俺達のことは知らないわけだし。まぁ駿哉か、遼が犬好きだから遼の仕業かなぁ。首輪してないだろ、この子」


 いやいや待て待て待て! ソファで隣に座った総が妙にでかい。ぬっと伸びてくる手がでかい! びっくりして素早く後ずさる。なんだよ! お前なんで急にそんなサイズ感違うんだよ!


「ワンワンワンワン!」

「……ね?」

「ね、じゃないですよ松隆くん。なんですかその顔は」

「俺は好きなんだけど、基本的に片想いでね」

「きっと本能的に怖いの分かっちゃうんだろうねぇ」

「どういう意味、それ」

「まぁ松隆くん、とりあえず吠えられないように離れよ。だってここ、第六西とはいえ学校だよ?」


 はぁ、とアイツが呆れた様子でカバンを下ろした。


「犬なんか連れ込んじゃだめでしょ、きっと」


 ……どこに犬がいるっていうんだよ。


「だから俺じゃないって。あぁ、やっぱり遼の仕業じゃない? 遼の荷物あるし」


 総の視線を辿ると、テーブルの脇に俺の荷物はある。おい待て勝手に俺のカバンを漁るな!


「ワン!」

「あー、ほら、遼が連れてきたんだよ、きっと。ご主人様の荷物漁られて怒ってるんじゃない」


 カバンに手を伸ばして──あれ? 視界に映った手に目が点になる。総はすぐに手を引っ込めたけど、そんなことはどうでもいい。おそるおそる、自分の手を見下ろす。俺の手……。


「ふーん、忠犬だね。ハチ公って呼ぼう」

「とか言いつつ、桜坂は近付かないね」

「犬猫どっち派か聞かれたら犬とは答えるけど、動物好きじゃない」


 と、手を見つめている途中で顔を上げれば、アイツから目を背けられた。なんだよ! どういうことだよ! 俺が何したってんだ!


「ワン!」

「ほら、嫌いとか言うから」

「だって人間以外の大きな生き物わりと無理……」

「すごいこと言うね」

「おい、犬の真似をしているのは誰だ」


 アイツがとんでもない発言をしたところで、ぬっと駿哉の迷惑そうな顔が現れた。なんかコイツも今日でかいぞ! どうなってる! あと何で俺を見て驚くの? なんでお前まできょとん顔なの?


「……なぜ犬がいる」

「やっぱり遼か」

「暫定、桐椰くんが連れてきた野良犬」


 いやいや待て待て待て。


「そうか。明日は入念に掃除したほうがいいだろう、毛が舞う」

「意外と松隆くんが気にしないのに月影くんは気にするんだね」

「どうせ遼がするから」

「松隆くん、そういうとこだよ」


 何でこいつらいつも通りに喋ってんの? ちょっと待てよ、なんで俺を見てお前らきょとん顔したの? 今なんてアイツと目も合わねぇぞ! どうなってる!?


 ……まさか。


「あ」


 そんなまさか、と思いながら第六西を飛び出した。後ろから「逃げた」「言ってないで追いかけなよ桜坂」「やだー」「君がそんなに動物に興味がないとはな」と頓珍漢な会話が聞こえてくる。そんなことはどうでもいい。シャワー室の扉に前足をひっかけた。


「なに、シャワー室入りたいの?」


 パシッパシッと音を立てていると、見上げるほどでかい総がやってくる。マジでコイツでかいなおい! 怖くて思わず扉から離れると、少し困った顔をした総が屈み込んだ。漸く視線の高さが合う。


「さすがにシャワー室は駄目だと思うんだよね。掃除しにくいし」

「ワン!」

「強請ってるの? それとも俺が嫌いで吠えてんの? どっちでもいいけど、水浴びしたいなら外だよ。この季節だからおすすめしないけどさ」


 ほら、と総の顔が窓の外を向いた。……窓。そうだ、と慌てて廊下の窓に駆け寄った。


「……外に何かあるの?」


 外に用はない、窓に用があるんだ。よいしょ、と辛うじて頭だけ覗かせることができた廊下の窓。


 そこに映っているのは、薄い茶色の毛をもふもふさせた柴犬だった。


 ちょっと、待て。


「散歩したいの? 首輪ないのに」


 なんで俺柴犬になってんだ!?


「ワン!」

「イエスじゃなさそうだよね……。まぁご主人様がどうにかしてくれるよ。大人しく第六西に戻りな」


 いやご主人様もくそもねぇよ! 俺だっての! 俺が桐椰遼なの!


「ワンワン!」

「よく吠えるね」


 お前も犬相手によく喋るな! 思わずそう内心ツッコミを入れた後で、自分の順応性にショックを受けた。窓に映った自分の顔見た瞬間に犬の自覚が出るって、適応速すぎだろ……。


 しゅんと項垂れていると、総の頬が一瞬だけ緩んだ。なんだよ、と顔を上げる。屈み込んだ総の目が輝いている。なんだってんだよ。総の手が伸びてきた。何する気だよ。


 そう悪態を吐き続けていると、頬を撫でられた。ん? なんだ?


 何されてるんだ、と首を傾げることもせずにいると、総の手は頭に乗っかった。そのままもふもふと撫でられる。なんだ、頭撫でてもらうのは結構気持ちいいな。


「……松隆くん? 捕まえた?」

「んー……」


 生返事の総の手は頭を撫で続ける。なんだ、そんなに毛並みが気に入ったのか。なんか複雑だけど悪い気はしねーぞ。少なくともアイツみたいにスゲェ興味なさそうな目を向けてくるよりマシだからな!


「……松隆くん、生まれて初めて自分から逃げない犬を可愛がるの図」

「別に可愛がってません」


 が、アイツが隣にやってきた瞬間、総は手を放してすっくと立ちあがる。なんだお前のその見栄! 別に犬可愛がってもお前の評価下がんねぇよ! 寧ろ別のところ直せよ!


「とりあえず第六西に戻しとこうよ」

「そうだね、おいで。……物分かりいいな、コイツ」


 総に手招きされたからついていくとまた嬉しそうな顔をされた。お前俺にはそういう顔しねぇよな? 犬にする顔を俺にはしねぇってどういうことだ! お前俺のことをなんだと思ってやがる!


 第六西に入ると、いつも通りに机についている駿哉は視線だけ寄越す。俺もいつも通りにソファに座ると、アイツは駿哉の隣に逃げた。代わりに総が隣に座る。なんだこれ。


「桜坂、ハチ公が見てるよ」


 ハチ公じゃねぇよ。


「なんでだろうねー。松隆くんの隣が嫌なのかなー」

「いや桜坂に無視されてるから寂しがってるんじゃないの」


 …………。犬の中身が俺って分かって言ってるんじゃないよな、総。適当に言ってるんだよな?


「無視はしてないよー。近付いてないだけだよー」

「それが世にいう無視じゃない?」

「しかし、遼はどこにいったんだ? 首輪がないので野良ではあるだろうが……」


 お、駿哉は寄って来た。ソファの背に顔だけ出すと、頭を撫でられた。なんだよお前ら犬好きかよ。……いま犬だからスゲェ複雑だな。


「野良犬にしては綺麗じゃない? どこかの飼い犬預かってるとかじゃないの?」

「確かにな……。だが頼む相手も遼の家がマンションだというのは分かるはずじゃないか?」

「そうだよねぇ……。となるとやっぱり拾ってきたのか……。洗ったあとなのかな」


 不意に総に両足をとられた。おいおいちょっと待て、妙な浮遊感が怖ぇよ! 狼狽えていると、顔から伝わったのか、総は手を離した。


「おすわり」


 コイツに言われるのスゲェ癪だな! ただここを追い出されても困るので仕方なく座り込む。


「お手」


 ……本当にお前、中身が俺って知らないんだよな? 前足を差し出すと、総は少し覗き込むようにして前足の裏を確認する。


「足の裏は汚れてないね……。足拭いた雑巾とかも見当たらなかったけど、どうしたんだろう、本当」

「最初は吠えていたが今は大人しいしな。どこから来たんだ、一体」


 総が手を離したかと思えば、駿哉の人差し指に顎をくすぐられた。なんだこれ。意外と頭撫でられるよりいいな……。


「犬って顎のほうが好きなんだっけ。耳垂れてる」

「あぁ、らしいな」

「……野良ならうちにほしい」

「自分から逃げないだけでそれか。ハードルが低いな」


 駿哉に顎をくすぐられ、総に頭を撫でられる。なんだこれ、コイツらが俺にぎゃあぎゃあ言わないでいるって珍しいな。それどころか接待されてる。総が我儘いうこともないし、駿哉にツッコミ入れなくていいし、なんだこれ、犬のままのほうが平和だな。よっこいしょ、と寝そべる。犬のサイズだと総が座ってるソファでもスペースが十分っていいな。


 ……やばい。ガバッと急に起き上がると、総が驚いて手を放す。


「なに、耳って触っちゃだめ?」

「あまり好かれないらしいが」

「ごめんごめん、頭にしとくから」


 あ、頭撫でられてる──じゃねぇよ! やばいやばい。犬に慣れようとしてる自分がいる。そうだ、そもそもなんでこうなったのか全然考えてなかった! コイツらの俺への扱いが違い過ぎて! 犬のほうが待遇良すぎて!!


「……起き上がっちゃった」

「どうした、辺りを見回して。何か探してるのか」


 お前ら俺相手だったらそんなに優しく話しかけねぇよな!? 駿哉が用事もないのに二文以上話しかけるってわりとレアだぞ!


 まぁいい、とにかく状況把握だ。……俺が犬ってことしか分かんねぇ。犬になる前──寝る前か、俺、何してたんだっけ……。第六西の入り口を見ながら記憶を辿る。確か普通に第六西に入ってきて……ちょっと横になろうと思ったら寝ちゃったんだよな。


 てか服はどこいったんだ? ソファの上でくるくると回って確かめるが、服はない。でもさっき窓で見た俺は服なんて着てなかったし……。てか今ってどういう状況だ? 全裸? だとしたらアイツに無視されてるのも納得が──いくとかそういうレベルじゃねぇな。普通に問題あるな。


 因みにさっきから無言のアイツは何してんだ、とソファの背から顔を出すと──本当にマジでガン無視してスマホなんて見てやがる! アイツがスマホ見てるって相当暇してるだろ! アイツがスマホで暇つぶしするの見ねぇからな!


「ところで、遼に連絡はしたのか?」

「してないよ、どうせスマホここに入ってるし」

「だったら探しに行くのは」

「んー……」


 また総の手が伸びてきたかと思うと後頭部より少し後ろの辺りを撫でられた。うん、そこでもいいな。


「まぁ……そのうち来るんじゃないの」

「……松隆くんってそんなに動物好きだったの?」


 そこで漸くアイツが口を挟んだ。本当だったら顔を上げるところだけど、なんともこの頭を撫でられる感じは抗いがたい。なんか落ち着くというか……あれだ、安らぐ。


「んー、いや別に」


 だからお前なんでそこ見栄はるの?


「でもせっかく逃げないし」

「逃げられないから可愛がりたいんじゃーん。……私帰ろうかな」


 で、お前はびっくりするくらい犬嫌いだな!?


「待って、まだ送れない」

「ハチ公の世話なら見ておくが」


 いやだから俺はハチ公じゃねぇって。


「ううん、ハチ公の世話あるから桜坂送れない」

「えー。じゃあ早く桐椰くん探さなきゃ……」


 なんでここまで煙たがられてんだ俺! アイツは仕方なさそうに立ち上がり、第六西を出ていこうとする。あんな迷惑そうな顔のアイツ見たことねぇぞ!


「桐椰くんがいるとこ、心当たりない?」

「さぁ」

「松隆くん、ハチ公手放したくなくてしらばっくれてない?」

「まさか。本当に知らないよ」

「んー……。じゃあ適当に探してくるね」


 そして俺に視線を寄越さずにアイツはいなくなった。マジでなんなんだアイツ。普段は桐椰くん桐椰くん寄ってくるくせに。ふん、と鼻を鳴らして再び寝そべる。総の手は頭から離れない。


「……本当、コイツ野良かな」

「飼おうとするな」

「だって大人しくて従順だよ」

「素直に可愛いと言ったらどうだ」

「ていうか名前も分かんないよね。ハチ公って呼んでも反応微妙だし」


 当たり前だろ、名前がハチ公なわけねぇだろ。顎を前足に乗せ、頭を撫でる総を目だけで見上げる。


「んー……シバ」


 柴犬だからシバって安直過ぎねぇ、お前。


「ポチ? ……太郎。一郎。……五郎」


 なんで二郎から四郎は飛んだ?


「んー……クッキー。テリー。ブラウン」

「全く反応しないな」

「せめて和名なのかどうか……。でも柴犬だから和名かなぁ」


 お前、太郎とか一郎で本気で当てにきてたの? やっぱコイツ妙なところでねじ抜けてるよな。


「まさか彼方?」


 なんで兄貴の名前だよ。


「……遼じゃないよね?」


 俺だぞ! 顔を上げると、総の顔がひきつった。なんだよお前俺のこと嫌いなのかよ!


「えー……コイツ、遼なの? 飼い始めたらうちに遼がいるのか……」


 飼う前提で話すんじゃねーよ。お前の家で飼われるとかごめんだぞ。


「逆に考えたらどうだ。遼なら呼び慣れているから呼びやすいぞ」


 逆もくそもねぇよ、どういう発想だよそれ。


「だって遼は用事がないと呼ばないし。コイツなら用事がなくても来てもいい」


 お前……! 普段自分がどんだけ世話されてるか自覚ねぇのかよ! 世話しねーぞ! あと用事がないときに俺が来るのだめなのかよ! 駿哉を見ろ、呆れてんぞ!


「遼が聞いたら怒るぞ」

「んー、まぁそれは別に。……遼が来たら帰るのかな、コイツ」


 ちょっと寂しそうな顔すんじゃねーよ、気持ち悪い。


「相当気に入ったんだな。元々柴犬が好きだったか?」

「んー、まぁね。なんかほら、柴犬って、いかにも犬だろ?」


 頭を撫でていた総が徐に顔を包み込んだ。なんだよ、もふもふを堪能し足りないのかよ。


 そんな総の顔が不意に綻んだ。


「こういうね、僕わんわん、って顔してるのが可愛いんだよね」








「あぁ、起きた?」


 起き上がると、パーカーがずり落ちて、総の声がした。


「なんか疲れてたね。最近見かけないけど、生徒会の仕事多いの?」


 なんだ……。なんか変な夢見てたような……。ぼんやりして働かない頭を押さえる。なんだっけ……。なんか夢の中では妙に総が……。


「遼?」

「……ワン」

「は?」


 思わず口をついて出た単語に、総が心底ドン引きした声を出した。ハッと意識が覚醒して素早く顔を向けると、総の表情は声の通りだ。


「……え、なにそれ……。お前、鹿島に何か洗脳でもされてんの……?」

「違う! おいその顔やめろ! 寝ぼけてたんだよ!!」

「……大丈夫、さすがにこれは黙っとくから」

「だから違うっての!!」