星が落ちてくる


初めて彼に抱きしめられた日を私はきっと忘れない。

彼の厚い胸板、ジャージ越しに感じる体温、髪にかかる吐息。抱きしめ方も力の入れ方も分からなかったのだろう、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめてくれた。
そんな彼が堪らなく愛おしくて彼の背中に腕を回し、ぎゅっと力を込めるとそれに応えるかのように私を抱く腕に少しだけ力が込められた。

あれから数か月経って季節は夏から秋へと変わる。

彼の、彼らの長いようで短い高校バレーの時間が終わった。その瞬間を目の当たりにしたとき、言葉が出なかった。きっと観客席に座っていたうちの生徒は全員同じ気持ちだっただろう。少しの静寂の次に訪れたのは体育館が揺れているのではないかと錯覚するぐらいの歓声と驚嘆の声だった。白鳥沢バレー部員が観客の前に整列し「ありがとうございました」という挨拶をした時は観客全員が惜しみなく拍手を送った。私も当然その中の一人で、彼らのバレーにかけた時間を一つ一つ思い返しながら大きな拍手を送った。選手が深いお辞儀の後顔を上げる。その瞬間、彼とばちっと目が合った。称賛の声が続々と飛ぶ中、私の声なんてきっと届かない。それでも言いたかった。

「若利、お疲れ様」

彼は一度だけこくりと頷いてベンチへと戻っていった。その顔はどこかすっきりとした顔をしていて、その顔を見て思わず笑うと、隣にいた友人に不思議そうな顔をされた。


その日の夕方、珍しく彼から連絡があった。校門で待っていろ、とのことなので大人しく彼を待つ。途中で通りかかった明かりのついている体育館からはバレーボールの弾む音と部員たちの声が響いていた。来年に向けて新しいチームが始動したのだろう。彼の活躍を一目みようと、何度も通ったこの体育館に私が通うことももうないのだな、と思うと心にじわりと染みが落ちたような感覚に陥った。

「名前」

声に導かれて顔を上げるといつものジャージ姿で彼が立っていた。

「どうした、何かあったか」

私の顔を見て元気がないと判断したのだろう、優しく素直な彼は疑問があるとすぐに声にしてくれる。

「ううん、大丈夫だよ」
「そうか、ならいい」

行くぞ、といつの間にか繋がれた手を引かれて歩きだす。いつからか自然と手を繋いでくれるようになった彼のおかげでさっきまでの染みは乾き、大きく温かい手に包まれて私の頬は緩む。そして気付く。最後に彼に触れてからかなりの時間が経っていたことに。寮生活の彼と自宅から通う私。クラスも違えば、勿論部活だって違うので、廊下ですれ違うくらいしか彼との時間はなかった。それでも私は彼が変わらず好きだし、彼のバレーをやっている姿が好きだったので、文句なんか言わなかった。それに今日、あんなに凄い試合を見せてくれたのだ。ああ、もう一度言わなくては。

「若利、お疲れ様」
「む、それならさっき言ってもらった」
「聞こえてたの?」
「聞こえてはいないが、お前が何を言ったかくらい分かる」

その一言が余りにも彼らしくてふふっと笑う。

「座るか」

着いたのは私の家の近くにある公園。こんな時間に公園で遊ぶ子なんている筈もないので、ここにいるのは私と彼の二人だけだ。いつからか、何か話があるときはいつもここで話すようになった。部活のこと、友達のこと、進路のこと、二人のこれからのこと。決して口数が多い訳ではない彼だけど、どんな話題でも耳を傾けてくれて、律儀にアドバイスまで考えてくれるところが好きだ。

「今日の話題は何?」
「話題か、考えてなかったな」

うーん、と呻りながら空を見上げる若利。つられて見上げると既に空は真っ暗できらきらと星が光っていた。

「日が短くなったね」
「そうだな」
「もうすぐ本格的に冬になるね」
「お前は寒さに弱いからな」

若利が強すぎるだけだと思います、と不貞腐れながら言うと彼はとふっと小さく笑った。あぁ、その顔も好きだな。だけどそれ以上に好きなところがあるのだ。

「私、若利のバレーしてる姿が好き」
「それ以外は好きじゃないのか?」
「ううん、それ以外も全部好き」

そこまで言うと、目からぽたりと雫が落ちた。

「何故泣く」
「3年間、一番近くで若利がバレーしてるところ見れてよかったなあって」

幸せだった、とても。勉強は大変だし、辛いこともあったけれど、彼がいるだけでこの高校に入ってよかったと思えた。

「俺はこれからもバレーを続ける」
「知ってる」
「だからこれからも一番近くで見ればいい」

泣くな、と言わんばかりに私の涙を手で拭う。若利の手はいつも温かい。

「抱き締めていいか?」

彼の問いかけにこくりと頷くと、彼はゆっくり腕を回して私を抱き締めた。それは以前と違って壊れ物を扱うような力ではなく、「離さない」という意思を感じる強さだった。厚い胸板とジャージ越しの体温、そして背中に回る大きな手のひら。この手はこれからもバレーボールを追い続けるのだ。どうかこれからも真っ直ぐに。彼が彼らしくバレーボールが出来ますように、そんなことを頭上で光る星に願う。彼の背中に自分の腕を回して抱き締め返すと、彼は私の耳元で「好きだ」と言った。


(星が落ちてくる)


「私も」
「ああ、知っている」



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