月明りと酔いどれ


※社会人設定


今日は会社の新年会だった。
お酒は好き。だけど、嫌な上司に絡まれながら飲むお酒は不味いだけだと再認識した。
大して面白くもない話を右から左へと聞き流していくうちにカパカパとお酒が進んでしまい、終わってみればこの有様。
電車の揺れすら気持ち悪くて、目的地に着くまでに何回か降りて吐いてしまおうか悩んだくらいだった。

フラフラする身体と時折ぐにゃりと歪む視界でようやく我が家に辿り着く。

「信介ー、帰ったぞー」

玄関を開けて暗い廊下に向かってそう叫ぶとパチリと廊下の電気がつき、部屋の奥から信介がぱたぱたと走ってきた。

「年頃の女の子やねんから、そんなおじさんみたいに帰ってくんのは辞めや」

この歳になっても私を女の子扱いしてくれるのはこの人しかいないだろう。
会社ではもう中堅社員で毎日後輩へ厳しく指導しているから、後輩たちの中ではきっと私なんて口煩いおばさんなのだと思う。

「またようさん飲んできたん?
飲み過ぎたらあかんって言うたのに」

彼氏というよりお母さんに近い信介とは、高校三年生の時から付き合っていて、もう長い付き合いになる。
周りからは結婚しないの?なんて聞かれる年齢になってしまったが、私たちには私たちのペースがある。焦っていないと言えば正直嘘になるけれど、それでも帰ってきたら信介がいるこの毎日が私は幸せなのだ。

「上司の話がつまんなくって、酒の肴にもならなかった」
「肴もないのにそんなに飲んだんや」

信介はふふっと笑いながら私の手を取りリビングまで連れて行ってくれた。
ソファに倒れこむと、目の前のローテーブルにコップに注がれた水とメイク落としが置かれていた。

「おかんみたい」

信介の準備の良さに、堪えきれずに笑ってしまう。

「誰がおかんや」

そう言いながらも信介の手には私のコートをかける為のハンガーがあって、この人はどこまで私を甘やかすのだと不安になるくらいだった。
正直今の私は信介がいないとまともな生活は出来ない気がしてならない。
大学で一人暮らしをしていたので、最低限の生活はできるだろう。
でもきっと今日のような日はもし一人だったら、水も飲まず化粧も落とさずベッドにダイブして朝を迎えるのが容易に想像できる。

「信介、いつもありがとう」

そんなことを考えていたら、自然と感謝の言葉を口にしていた。

「何やの急に」

「言いたくなっただけやから、気にしんといて」

驚いて目を丸くした信介を見たらまた笑えてきたので、それを隠すために用意された水を飲み干した。
コートを脱ぐと信介は私の手からコートを攫ってシュッシュと消臭スプレーをかけた。

「ごめん、煙草臭い?うちの会社、まだまだ喫煙者多いんよね」

すんすんとコートの匂いを確認し、信介は眉間に皺を寄せた。

「煙草の匂いはしゃあないにしても、名前の匂いも消えてしもた」

残念や、と呟いてすっかり爽やかな香りになったコートをクローゼットに仕舞い込む。

「私の匂いって何よ。同じ家に住んでんねんから、信介も同じ匂いやん」
「ちゃうよ、全然。俺はおじさんの匂いや」
「おじさんて、同い年やん。
その理論やと私もおばさんの匂いやわ」

声を出して笑うと信介も同じように声を出して笑った。
付き合い出した最初の頃の信介はいつも難しい顔をしていた。今思うと、私の考えを理解しようと努力してくれていだのだろうけど、高校三年生の私には信介の意図なんて理解せずに、いつも難しい顔をしている信介に

「北くんは私といて楽しいん?」

なんて聞いたこともあった。
それが原因で何度か喧嘩もした。
喧嘩というより、私が一方的に喚き散らしてるだけで、信介はいつだって冷静で二人の間の着地点を探してくれた。そういう人なのだ、北信介という男は。

「若い時はいっぱい喧嘩したね」
「どうしたん急に」
「なんとなく、色々思い出してん」

何やそれ、と言いながら信介はローテーブルに置かれたままだった、すでに空っぽのグラスを回収し、キッチンで洗い物を始めた。
どこまで出来る男なんだ、全く。

「でも、なんか分かるわ」

キュッと蛇口を捻るのと同時に水温が部屋から消えて、静かな部屋に信介の声が響く。
間抜けな顔で化粧を落としながら、首だけ信介の方に向けた。

「信介も思い出したりするんや」
「当たり前やろ」
「思い出なんかいらんって言うてたやん」
「アホ、あれは横断幕に書いてあっただけや。
俺はあの言葉好きちゃうしな」

あの言葉は好きじゃない、この台詞を聞くのは何度目か。
でもこの話をするたびに信介は少し優しい目をするから、それが見たくて何度もこの話をしてしまう。
きっと信介の中で高校三年間の稲荷崎バレー部での思い出はとても大切なものなんだと、あの目を見れば分かるのだ。

「で、信介は何を思い出してたん?」
「名前とのことやで。
告白した日のこととか、誕生日とか、同棲始めた日のこととか、色々や」

いつの間にか信介はソファに座る私の隣に腰を下ろし、じっと私の目を見つめる。

「何よ、化粧落としたんやからそんな見んといて」
「わかった」

そういうや否や部屋の明かりが消える。
どうやら手に照明のスイッチを持っていたらしい。
突然真っ暗になったリビングで、唯一私の眼に映るのは月明かりに照らされた信介だけだった。

「今夜は月が明るいんやね」
「ん?あぁ、そうやな」
「信介の髪、ほんまに綺麗」

白い月に照らされた学生の時より少し伸びた髪はキラキラと反射し、まるで信介自身が月のようだった。
その眩しさに思わず手を伸ばして信介の髪に触れる。

「サラサラや」

思わずふふっと笑みが零れる私を、信介はいつものように優しく見つめ、そのまま髪に触れていた私の手をそっと取った。

「名前、言いたいことがあるんや」

ふわりと微笑む信介につられて私もまた笑う。握られた手は洗い物のせいか少し冷えていたが、酒の入った私の手にはそれが酷く心地よかった。

「なに?」

私が首を傾けると信介はゴソゴソとポケットの中から何かを取り出し、そっと私の左手の薬指に通した。それが何かなんて、酔った私の頭でも分かる。

「信介、これ」
「遅なってごめんな」

思わず左手を月明かりの下に持っていくと、鉱石がキラリと光り、その光はまるで信介の髪と同じくらい綺麗だった。

「綺麗」

そう口にした瞬間、目からぽろぽろとしずくが溢れてきて止まらなくなった。
いつの間にこんなものを用意していたんだろう、いつから考えてくれていたんだろう。
聞きたいことはたくさんあるのに何一つ言葉にすることは出来なかった。

「名前」

俯いていた私の両肩に手を置いた信介は真剣に、それとどこか緊張しているような表情で一度だけ小さく息を吐いた。

「俺と結婚せえへんか」

月明かりだけでは信介の顔色まではわからないけど、きっと、いや絶対に真っ赤な顔をしている。
付き合ってくれへんか、と言われた時よりも、一緒に住まへんか、と言われた時よりも、ずっと男らしい表情でじっと私を見つめるその視線に心臓がぎゅうっとなるのを感じた。

「はい」

付き合う時や同棲を決めた時と同じように、一番シンプルで分かりやすい言葉で返事をする。
そうすればほら、

「よかった」


次の瞬間にはなかなか見られない満面の笑みと大きな愛で包んでくれるから。





月明かりと酔いどれ


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