砂糖の海に溺れる


※社会人設定



今年もやって参りました。百貨店がこぞってチョコレートの祭典を催すこの季節。中堅社員と呼ばれるくらい社歴を重ねた私は、流れるように会社で配るチョコレートを買う。

「こんなもんでいいかな」
「いいでしょ、貰えるだけ有難いと思え!」

同僚と悪態をつきながら後輩や上司に配るチョコを買った。去年まではここで買い物終了だったけど、今年の私は違う。

「で、渡すの?」
「悩んでる」

渡したいと思う相手がいるのだ。隣の島に座っている営業課の黒尾さん。社内でもそこそこ評判も良く、狙っている女性社員は私だけではない。いつもの私だったらとっくに諦めていると思う。この年齢になると恋愛することすら難しいのだ。いいなと思う人には相手がいたり、そもそも結婚していたり。疲れ切っていた私にもう一度恋愛してみようと思わせてくれた人だ。倍率が高いのは百も承知。だけど、多分。多分だけど、あっちも私のこと悪く思っていない筈。

「脈アリっぽいのに」
「そう思う?」
「自信持ちなよ、ちんたらしてたら横から掻っ攫われるよ」

その通り。ぐうの音も出ない。ここは腹を決めよう。

「買う」
「よし!一緒に選んであげる!」

もはや楽しんでいる同僚と一緒にチョコレートを選ぶ。好きな人にチョコを渡すなんて何年ぶりだろう。どうか上手く行きますように。


そしてバレンタイン当日。渡したいと思っていた相手はいなかった。

「外出」

ホワイトボードの「黒尾」という名前の横にはそれだけ書いてあって、戻り予定の時間は空欄。これは直帰ということだ。バレンタインに直帰なんて、彼女がいるとしか思えない。事前情報では彼女はいないって聞いていたのに。残念だなぁ。私と同じ気持ちになっている女性社員がこのフロアに何人いるのだろうか。
深いため息をついた後、上司と後輩にチョコを配る。一番あげたかった相手にはあげられないのに。油断したら涙がぽろっと零れそうだった。

午後6時。黒尾さんの席を見ると女性社員からのチョコがいくつか置いてあった。どれにも可愛らしい付箋が貼ってあって、チョコの送り主の女子力が試されているような気がした。一瞬あそこに混ぜておいておこうかと思ったが、可愛らしい付箋なんて持ち合わせていないし、みんなのチョコに埋もれてしまうのだけは嫌だった。仕方ない。そもそも失恋したんだし、これは持って帰って一人で食べよう。再度自分の鞄に黒尾さん宛だったチョコを仕舞いこんで仕事に戻る。まだまだ今日の仕事は終わらない。8時には帰りたいところだけど、難しいかも。ブラックコーヒーを飲み干して気合を入れた。


いつの間にか外は真っ暗。時計を見たら8時もとうに過ぎていた。フロアが静かだったので辺りを見渡すと私ともう一人だけだった。そのもう一人が直帰だと思っていた黒尾さんだということを理解するまで数秒かかった。

「えっ何で」

驚きすぎて思わず声を出してしまう。すると彼はこちらに気付いたようで私を見てにっこり笑った。

「よっ」
「何してるんですか?直帰の予定じゃ?」
「いや、大阪で打ち合わせだっただけ。戻り時間が見えなかったから書かなかったんだよね」

さっきまでの悲しい気持ちはとうに消え、今目の前に黒尾さんがいることと、彼女のために直帰したのではないという事実は私の頬を緩ませるには十分だった。

「お疲れ様でした」
「ドーモ。苗字さんもな。もう帰る?」
「あ、はい、そろそろ」
「じゃあ一緒に出よーぜ」

これは神様からのご褒美か?まさか一緒に帰ってくれるなんて。慌てて荷物を取りにデスクに戻る。持ち上げた鞄からひょっこりと顔を出しているのは黒尾さんに渡す予定のチョコだ。残業中に食べなくて本当に良かった。

「お待たせしました」

駆け寄った彼の両手にはさっきまで机上にあったチョコでいっぱいだった。あぁ、そうだった。私なんかがあげなくてもこの人は十分すぎる程貰っていたんだった。さっきまでの強気な自分はすっかり引っ込んでしまい、弱気な自分が顔を出す。

「流石ですね、黒尾さん」
「ん?」
「こんなにチョコ貰って。一人で食べるの大変そうですね」

こんなこと言いたくないのに。昔からの悪い癖。人に本心を曝すのが怖い。相手にどう思われるのか、どんな反応をするのかが怖くて堪らなくて、いつも私は可愛くないことを言う。彼氏と別れる理由も毎回これだ。

「そういう苗字さんは、そのチョコ誰にあげるの?」
「え?」
「鞄に入ってるそれ。こんな時間から誰かに渡しに行くの?」

最悪。私よりもずっと背が高い黒尾さんのアングルからは私の鞄の中身が丸見えだ。本当は貴方にあげたかったんです、なんて言えたらいいのに。生憎そんな可愛い性格じゃない。

「本当は今日渡すつもりだったんですけど、もう遅いので明日にします」
「へぇ。妬けるね」

あまりにもさらっと言われたその言葉。聞き間違いじゃなければ、「妬ける」と言ったと思う。ヤキモチ?黒尾さんが?誰に?もう私の頭は全然働いてない。残業中何か食べればよかった。甘いものを。どなたか大至急私の頭に糖分を送り込んでください。

「あれ?効果なし?」
「今のは、どういう意味でしょうか」
「苗字さんのチョコ貰える男が羨ましいって意味だけど」

ああ、もう無理。糖分の供給過多で倒れそう。


(砂糖の海に溺れる)


「どうぞ」

真っ赤な顔で差し出したチョコレート。

「これ本命?」

なんて悪戯な笑顔で聞かれたら頷く以外ないじゃないか。


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