「ヴェインちゃん」
「ん〜?」
この体勢はなあに?と間延びした女の声につられるように、頭上から響く男の声も間延びする。世話好きの彼には似つかわしくない恐らくレアであろう安堵と甘えを両方含んだ声に、女は滅法弱かった。
いつだったかフェードラッヘの近隣に用があった時についでに顔を出そうと立ち寄ったはいいものの丁度その女を別の島に降ろしてしまっていたため、それを酷く悲しんだ男、ヴェインに「次は必ず連れてきてくれ」と両手を合わせてまで懇願されれば、極度のお人好しが断れるわけがなく。いつでもいい、俺はここからそう簡単に遠くには行かないから、と謎の気遣いまでもらってしまったもののかなり日が経ってしまったから、と後ろめたさを感じたグランのこれまた謎の気遣いで女をフェードラッヘに降ろそうとしたが、風のように奔放な女、ナマエがそれを快諾する事もなかった。
片やこのナマエは各地を気の向くまま旅する旅人だ。この大きな空に、島に、何があるのか、どんな人がいるのか、ただそれだけの、しかし純粋な好奇心を原動力とする。ゆえに、一箇所に留まることを知らない。
片やヴェインは一国の守護を担う騎士団の副団長だ。国を護り、民を導き、希望の光となるべき存在だ。ゆえに、騎空団の一員だとしても、それを差し置いて護るべきもののために一箇所に留まらねばならない。それゆえに2人は会える時間よりも会えない時間の方が長く、しかしそれでも2人の間にある愛は薄れる事はないのが幸いしているが。



そんな長い経緯のもと数日間フェードラッヘに滞在する事にした、とグランから聞いたヴェインは酷く歓喜していた、とランスロットは苦笑していたか。「ここ最近かなり頑張ってもらっているからな」と久しぶりにナマエに会えるだの何だの心の声がダダ漏れの幼馴染に免じて急遽休暇を数日ずらしたランスロットの計らいもあり、今ヴェインは愛しのナマエの部屋で数ヶ月ぶりの充電を満喫しているのである。
「今ナマエパワーの充電中!」
「うん、それはいいんだけどね?わたしもヴェインちゃんパワーがあって困ることはないんだけどさ?長すぎない?わたしそろそろ外に出たいなー?お茶もしたいなー?」
「やーだ。お茶は後で用意するし遊びに行くのも後がいい。今は充電に集中したいんだって」
「ダメ?」と言いながらヴェインは己の顔を愛おしそうにナマエの髪に擦り付けているあたり、どうやらあと数十分は離してくれないらしい。まあ、大きくて温かい彼の体温が心地良くないといえば嘘になるし、有り余る包容力のまま幸せそうに甘えられると今までの自分の不在への我慢を考えると許してしまうあたり、相当自分も彼に甘いのだな、と思わずにはいられない。実際彼の方がやや愛が大きいだけで自分も彼が好きなので、寂しくなかったわけでもない。



「でもねヴェインちゃん」
「んあ?言っとくけどしばらくは離さないかんな」
「あのね、違うの。そろそろヴェインちゃんの顔を見たいなーって、思うんだけど」
「!」
「ヴェインちゃんのかっこよくてかわいくて幸せそうな顔を、ね?」
ヴェインがナマエの提案にピクリと反応した、かと思えば急に黙り込んでしまった予想外の反応にナマエは戸惑う。が、それも束の間の杞憂らしく、ヴェインは俯いたままナマエを抱いた腕を解いた。すかさずヴェインから身体を離し顔を覗き込むと、泣きそうなのか嬉しいのか判らないようなくしゃくしゃの顔を上げて大きく腕を広げ再びナマエを力強く引き寄せた。
「わっ、ちょっと、ヴェインちゃ」
「おいー!スッゲエかわいい事言うじゃん!うわ〜もうかわいい、狡い、好き」
先程のくしゃくしゃの顔はどこへやら、ヴェインはまた満面の笑みを浮かべてナマエの頬に自分の頬をぴたりとくっつけた。嬉しさで上がった体温が頬越しに伝わり、それにあまりにも満開の大輪の花のような笑顔を見せるものだから、つられてナマエの頬どころか体温が上がる。
「もう、びっくりしちゃったじゃん」
「だってナマエがかわいいからだし」
「いやその、じゃなくて、急にしんとしてちょっと心配したんだよ?」
「それはナマエがかわいいおねだりをしてきて俺もびっくりしたからであって」
ああもう恥ずかしい!この男は素直であるがそれが過ぎてオブラートに包むよりも先に言葉が出てしまう!そんな事は出会った時から知っているはずなのに、自分がかわいいという賞賛をそう何度でもされると大抵のヒトは逆に照れたり恥ずかしさで背を丸めてしまうのに、こいつはそれを理解しているのか?!いや、彼に限ってあまり理解していない気がしてくるのだ。ああ、本当に恥ずかしくて暴れてしまおうか、とナマエは頭を沸騰するのを必死に抑えた。



「あーもーわかったからそんなにかわいいかわいい連呼しないで!」
「かわいいのは事実だろぉ?!」
「やめて!ドキドキしちゃう!そんなに言われたら照れるから!」
「じゃあもっとドキドキさせてやるー!むしろキュンとさせてやる!覚悟しろー!」
「はっ、どういう意ーーー?!」
急に身体が宙を浮く感覚に襲われたかと思い目をきつく瞑るが背中に伝わる感触は柔らかく、違和感を覚えて目を開けると突如視界いっぱいに真剣な眼差しのヴェインが映りナマエは思わず目を見開いてまるで魚のように口を何度も開閉させた。真っ直ぐにこちらの瞳を捉える深い翠の瞳に吸い込まれかけてはっと正気に戻ったが、確かにその瞳はナマエをキュンとさせるにはあまりにも美しく、まるで強烈な魅了にかけられた感覚に襲われた。
「ヴェ、インちゃ・・・」
「どうだキュンとしただろ?」
そうしたかと思うと突然その瞳に自信を宿してニカッと笑ったヴェインにナマエの肩がびくりと跳ねる。その反応を確と目にした彼は、大層ご満悦のようだ。
「俺にまた惚れ直しちゃった?」
「惚れ直したって、そのーーーッ?!」
ナマエが言い終わるのを待たずしてヴェインの唇がそっとそれに重ねられる。先程からの彼の大胆な行動にさっきから頭の処理が追いついていないのに、その行動が更にナマエの脳をじく、と溶かしていく。何度か角度を変えてやや啄ばむように降り注ぐキスは深くとはならずとも、今のナマエの脳が溶けるには充分だった。ヴェインの唇が離れる頃には脳がまともな思考を許さなくなっており、息が上がり心臓が早鐘を打つ。
「へへ、ごちそうさま」
すっかり逆上せてしまったナマエの唇をゆっくり解放して自身の唇をぺろりと舐めると、ヴェインはイタズラな顔でにやりと口角を上げる。ああ、ヴェインのこの顔こそが狡いのだ。不敵に笑う彼はきっと、自分の何倍も狡い。ああ、恥ずかしいがしてやられたのだ!
「・・・ばか」
「だって」
「だってじゃないよ、いきなりあ、あんなキスされてすごいびっくりしたしどうし「だって」」
先程まで不敵に笑っていたが咎められてしまったヴェインはまた甘えた、しかも今度は拗ね顔オプションつきの表情を浮かべて唇を尖らせて何かを言いかけた後、ナマエの肩に顔を埋めて黙りこくってしまった。何故今日に限って彼はこんなにも感情的なのだろうか。ここまで感情の波があったのはせいぜい彼が愛の告白をしたあの時ぐらいであって、ナマエの前では甘えたがりが普通となっているので正直どうしていいのか困惑してしまった。
以前誰かからだったか聞いたことがある。何度も繰り返すフレンチキスは、自信がない意味があると。愛情を受け取っていないのかもしれない、もしかしたら付き合っていてもどこか片想いなのではないのか、という心理があるというのも。確かにナマエはヴェインから溢れるほどの愛を受けている。しかし自分はどうか。果たして彼に十分な愛を捧げられているのか。そのつもりはあったとしても、伝わっていないのなら。
もしかして、いやきっと、自分の行動が原因なのだとしたら。彼に辛く酷な思いをさせていたのだとしたら。



「ヴェインちゃん、あのね、正直に言ってほしいの」
「うん」
「でね、聞いて欲しいの。あのね、もしわたしがあちこちを旅しているせいで、君がずっと寂しい思いをしてて、でも君は優しいから、もしかしてわたしが思う以上に我慢してたのなら本当にごめんね」
「うん」
「君の優しさにわたしは今までずっと甘えてたのかもしれない。もちろんわたしが君を好きなのは、旅をしててもちっとも変わらないんだよ。毎日元気に頑張ってる君の笑顔を思い浮かべると、どんなに辛くても前を向けるし、次に君に会った時の嬉しさが、離れてる間少しずつ膨らむの。でもそれはわたしだけで、わたしはちゃんと君のことを考えてなかったのかもしれない。寂しい思いをたくさんさせてしまったよね。ごめんね、ごめんね・・・!」
ぽろぽろと唇から言葉が零れていく。言葉がどんどん形になると、ナマエの心がちくりと痛み出した。ああ、自分は結局自分の事しか考えていなかったのだ。ああ、なんと愚かだろう。申し訳なさで胸が潰れてしまいそうだ。



「あのさ」
ナマエの口から溢れる贖罪に似た言葉を聞いていたヴェインがぽつりと呟いた。その呟きはややか細く、消え入りそうなほど震えている。ああ、やはり自分が彼を苦しめていたと確信し、彼女の胸がまたちくりと痛む。
「ナマエが旅が好きなのも理由も知ってるし、俺だって一国の騎士団の副団長だから自分の責務だってちゃんと分かってる。もし俺が副団長じゃなかったらさ、ずっと一緒に旅をしてたんだと思う」
「でもそれは、」
「出来ないんだよ。ランスロットを一人置いてお前と行ってしまうのは責任の放棄だ。今までランスロットが築き上げてきた色んなものを一瞬で壊してしまう。今までランスロットが味わった苦痛、一生懸命積み上げた知識、それだけじゃない、信頼も。騎士団への階級差別を無くそうと頑張ってる努力を、踏みにじっちまう。あいつは優しいから、そうとなれば愛する人に寄り添う方がいいって一人で抱え込んじまいそうで、そうすると今度はナマエと離れて、でも俺は、お前を、縛りたく、なくて、おれ、わがままだよな、どうしたら、いいのか、わからなくて、おまえを、つかまえたくて、それで、おれ、おれ、」
ヴェインの口から感情と共に溢れる言葉を一つずつ丁寧に拾うように彼の小さくなってしまった背中に手を回し優しく叩いてやると、震えていた声が限界を超え破綻していく。絞り出すように吐き出す言葉と共に自分の肩がじわりと濡れていく。途切れ途切れでも、つたなくても、迷いが、大切なものをどちらも置いていきたくない悩みが、叫びが、ナマエの鼓膜を緩やかに震わせ脳に染み渡らせていく。
ランスロットを支えていたい。それであって、自分を傍に感じていたい。そんなヴェインの小さな願いを、叫びを、彼女は間違っているものだとは思わなかった。ランスロットがヴェインにとってかけがえのない存在だという事は、誰がどうしようと変わらず、それでいて今も強く自分を愛しているのだ。ヴェインの隣に立つ事がまだ許されるのなら。優しい君を支える事ができるのなら。わたしがすべきことは。



「わたしは、ヴェインの叫びが我が儘だなんて思わないよ。わたしのせいでランスロットと引き離されるなんて嫌だし、それならわたしは、もっと君と向き合うべきだ。でもわたしがわたしの事は気にしないで、なんて言ったら。君はまた傷ついてしまう。俺にはどっちも必要なんだって、そしてまた悩んでしまう。でもね、無理して選ばなくていいの。欲張っていいの。人間だもん」
「ナマエ、」
「だからね、顔を上げて?わたし、こんなにも君に愛されてとても幸せだよ。いつもいつもたくさんの愛をわたしにくれていたのに、わたしは、君に愛をあまりあげられなかった。とても情けなくて、でも君がわたしが隣にいるのを許してくれるから、今まで足りなかった君への愛を、これからたくさんあげたい。だから、」
ナマエの言葉に促され、ヴェインは濡れた瞳を静かに向ける。ヴェインのくしゃくしゃになってしまった顔にナマエは小さく笑い、僅かに揺れた翡翠の瞳を愛おしく見つめ、額に小さく唇を寄せる。
「わたし、やっぱり君の傍にいたい。もう、君にこんな悲しい思いはさせたくない。今までの事を赦してほしいとも思わない。でもわたしもわがままだから、どうしても外の世界でやりたい事をきちんと済ませたら、近い未来に君の隣に帰ろうと思う」
「え、でも、それって旅を終える事になっちまう、でも、旅は、ナマエの生き甲斐なんじゃ、」
「そうだよ、わたしは風の旅人だから。でもね、それよりも君の方が大切だから、旅を終えて、君の隣で生きるのも生き甲斐になれるはずだよ。だって優しくて大好きな人の隣で生きていけるんだよ?それならわたしは、君の隣を優先したい」
大きく揺れた瞳を慰めるようにもう一つ額にキスを落としふわりと笑うと、ヴェインはナマエの気持ちを真っ直ぐ受け止めたのかくすぐったそうに少し目を細めた後、柔らかく自分を包むような瞳を見つめた。



「わたしが旅を終えたら、「おかえり」って言って抱きしめてくれますか?」
「へへ、当たり前だろ?俺はずっと待ってる。「おかえり」って言って、めいいっぱい抱きしめて、それからナマエの好きなメシを作って、むしろ歓迎会でも開くか?」
「もう、それは大げさじゃない?でもみんなに報告と挨拶はしなきゃね」
安堵の色を浮かべ擦り寄るヴェインの額を自分の額と合わせ、ゆっくりとお互いの唇を重ねた。この誓いはこの先何があろうとも破られる事はないだろう。

小さな渡り鳥が大きな木に留まり寄り添うまで、あと少し先のお話。