「ボクはね、魔法使いなんだ!」
幼い頃に出会った小さな魔法使いが忘れられないと言えば、それは御伽噺の間違いだよ、と優しく目を覆われる。私はそれを取り払う事も出来なければ、受け入れる事も未だに出来ないでいる。
今も彷徨っている心を貴方は笑うだろうか。私は貴方をずっと待ち詫びて今日も夜の空を眺めているのだから、きっと無邪気に笑ってくれると信じている。




「まあ!魔法使いなの?とってもステキだわ!」
優しい栗色の髪を揺らし自信たっぷりの笑顔を浮かべる少年に、少女は無垢なる瞳を輝かせて賞賛を贈る。世間を知らない幼い心は、御伽噺で読んだその魔法使いが目の前に現れたんだと信じてやまなかったが、そんな少女に少年はボクは御伽噺の人物じゃありませーん、と少しおどけた顔をしてみせた。
「だって貴方は魔法が使えるんでしょう?」
「そうだけど、うーん・・・じゃあボクの手を握ってみてよ」
「こう?・・・きゃっ!」
あまりに興奮しはしゃいでいると、ほんの少し考える素振りを見せた彼の手が私の目の前に差し出される。確かに彼に触れるのならば目の前の彼は本物の人間だ。そう思い言われるがままに自分の手を差し出し握ろうとすると、突然彼の手が小さな光に包まれ私は思わず小さな悲鳴を上げてしまう。まんまとイタズラに引っかかった私に彼は無邪気に笑いかける。突然の事に驚き抗議をしようと思ったが、その無邪気な顔を見ると不思議と怒りは小さなまま霧散してしまった。
「へへ、びっくりした?」
「もう!びっくりしたわ!いきなり手が光ったんだもの、普通じゃあありえない事だわ!」
「ふっふーん、ありえないでしょ?だって魔法だからね!」
ありえない事をありえる事にしてしまう。それが魔法。
きらきらとした小さな光が名残惜しく消えていくのを、きっと私は穴が開くぐらいに見ていたんじゃないかと思う。そんな私の様子を見てまた彼が無垢に笑うものだから、つられて私の顔にも笑みが零れていた。
彼が私に見せる魔法は、いつだって私に笑顔と安らぎをくれた。厳しい歌やダンス、作法のレッスン、難しい勉強があっても、彼に会えばその疲労はいつもすぐに消え、いつの間にか彼の手元から溢れる魔法に釘付けになっていた。きっと疲れた色を隠せていなかったであろう私を見てイタズラな顔をしながらも、会っては必ず沢山の魔法を披露しては私を笑わせてくれていた。



魔法はきっと人を笑顔にするものだと思っていた。今でもその認識は消えることなく、しかしじんわりと溶けているかのようにも感じる。段々と年を重ねるにつれ彼以外の魔法使いを何人も見てきたが、彼が浮かべるような笑顔を見せる人なんてそう出会えるはずもなく、きっと彼だけが魔法使いとして稀有なる心を持っているのだと感じるようになったし、魔法使いである目的が自分のため、または力の誇示のため、などと言われてしまっては途端に彼らの魔法が濁って見えてしまった。魔法使いなど珍しくもないと理解してからは彼以外の魔法使いの駆使するそれを見ても心の底から感嘆する事は叶わずつまらないと思うようになっていたし、彼のそれは魔法ではなく魔術であると知ったが、魔力がないにも等しい私にとっては瑣末な事にしか見えなかった。魔法であれ魔術であれ、夢と驚きを見せてくれるのには変わりなかった。
「本当に君はボクの魔術が好きだよねぇ」
「だって初めて見た感動は今でも忘れられないんだもの。それに、貴方の魔術はとても純粋で綺麗で、昔からずっと変わらないわ」
「あはは、照れるなぁ〜、でも君も変わらずボクの魔術を純粋に好きでいてくれるから、魔術の腕を磨いてよかったって思うな」
そうだ、彼の魔術が何よりもたまらなく好きなのだ、私は。
彼の清々しい心から生まれる魔術が愛しくて、こうやって10といくつかを過ぎた年になっても、以前より会える機会が減っても、私は彼が待ち遠しくて堪らない。誰に何を言われようとも、たとえ母親に酷い事を言われても、私の心はずっと変わらない。心酔していると言われればそうかもしれないが、幼い頃から変わらない気持ちをそういった言葉で当て嵌められるのが不快で仕方ないし、第三者からどう言われようが興味なんてなかった。
正直のところ、私はこの貴族という狭い社会にうんざりしていた。かの名家ウェールズ家の次男坊と幼い頃から仲がいいとなればすぐに大人が早とちりをしたり目をぎらつかせる。ああもう勝手に不純だと思わないで欲しい。私の唯一の純粋な心を、安らぎを、大人はすぐに切り裂こうとしてくるのだから、私は貴族の大人が嫌いだったし、力があれば逃げる事だって出来るのにと今までの自分に少し嫌気がさした。
「ん?どうしたの、溜め息なんかついて珍しいなぁ。もしかしてさっきの魔術、飽きた?」
彼といる時は考えないでおこうとしていたのに、気が付ければ思考回路を蝕まれていた事にはっと我に返った。少し困った顔をする彼に誤解と気遣いをさせまいと慌てて彼の手を握ると、今度は少し驚いた顔を見せた。
「わっ、ナマエ?」
「ち、違うわ!飽きたんじゃないわ!私が貴方の魔術に飽きるわけないじゃない!違うの、貴方を困らせるつもりはなくて、そ、その、ごめんなさい、あなたといる時は考え事なんてしなかったししないつもりなのに・・・」
まくし立てるように口を早く動かすと、自然とその手に力が入ってしまい彼の戸惑う顔を見て慌てて握った手を離した。ごめんなさい、と謝罪すると彼は目を柔らかく細めながら今度は私の手を優しく取った。
「ねえ、ボクの魔術でも解決しない悩み、教えてよ」
彼は少し私の顔を覗き込み視線がかち合うと小首を傾げる。こんなに優しい顔をする彼に、私の本音なんてぶつけてもいいのだろうか。そもそも私の本音なんて彼にぶつけたところで解決するわけでもない。きっと今の私はとても暗い顔をしているのだろう、静かに私の返事を待つ彼の瞳に自分の顔がはっきり映って笑いたくなる。
しかしもしここで私が口を噤んで誤魔化せばきっと彼は寂しそうな顔をするだろう。いつだって彼が私を励ましたり慰めてくれたのだから、今彼が私を元気づける事が出来ないもどかしさがあるのではないか。もしそうならば、いやきっとそうだ。私は意を決して、しかし慎重に、少しずつ言葉を並べる。



「あのね」
「うん」
「私、今の生活が、今の自分の環境が嫌いなの。貴族も大嫌い、いや、貴族の大人が大嫌い。何故だか分かる?レッスンが苦しいとか、そういうのじゃないの」
自然と唇が震えていく。それは今から告げる事への恐れか、それとも今を壊したくない思いからかと言われれば、私はどちらも選ぶだろう。だって今から私が言う事は、貴方と私へ向けられている浅はかなものだから。
「私と貴方は幼い頃から仲の良い友達だったわ。そう、ただそれだけなのに、大人達が私達に向ける目を、言葉を知ってる?『ただの小娘が貴方に取り入っている』って言うの。酷い話よ。私は一度だってそんな浅ましい心で貴方と会っていたわけではないのに、貴方がウェールズ家だからって、そんなの関係あるの?身分の違いだとか貴族だとか、何だと言うの?そうね、そう、きっと貴方と軽々しく『友達』になってはいけないのでしょうね、でも、でも私、」
「ナマエ」
想いが綻んでいく。ぷつり、と切れた感情の糸が解けてしまって彼の呼び止めにも応じられず次々と言葉の糸が落ちていく。くしゃりと自分の顔が歪んでいるのが嫌でもわかるが、そんな事で止まれるものではもう既になかった。
「私、身分だとか階級だとか、もううんざりよ!自由なんてない、誰かとお近付きになる道具になるのも御免だわ!ねえ、私たちが貴族でも王族でもなかったら、こんな風に思われる事もなく友達でいられたのかしら。いえ、きっとそうよ。もう窮屈で苦しくて仕方ないの。何も気にせずに、隔たりを作らずに貴方と一緒にいられる自由は、どうしたら手に入れられる?分からない、分からないの、ごめんなさい、貴方にこんな事言うつもりはなかったのに、止まらなくて、私、」
「ナマエ」
今度は先程より少し強く名前を呼ばれる。しかし彼を見ても視界はぼやけており、それにきっと今私の顔は酷く醜くなっているだろう。ああ、言ってしまった、困らせてしまった。それなのに、強く私を呼ぶ声は、とても優しいのだ。
「ごめん、ごめんね。ボクのせいで、辛い思いをさせてた。ボクだってずっと君と一緒にいたいよ。こんなに純粋にボクの魔術を喜んでくれる人なんて君しかいないから。でも、今のボクにはどうにか出来る力がない」
「そんな、貴方のせいじゃないの」
「ねえ、約束させて欲しいんだ。もう少しボクらが大きくなったら、君を解放してあげる。君に自由を見せてあげたいんだ」
彼の顔がしっかりと捉えられないが、きっと彼はいつになく真剣な眼差しを私に向けている。聞き慣れない、いつもの陽気さを感じられない芯の通った声が、それを物語っている。その顔を見たいのにそれを阻む潤む己の瞳を恨む。
「実を言うとさ、ボクも自由が欲しいんだ。今まで行った場所は少ないけどさ、どこに行ってもボクの知らない事や人が沢山あって、沢山の面白い事があって、きっとそれはボク達がここにいる限りは経験できない事ばっかりでさ、ボクの魔術に負けないぐらいキラキラしてた。そしたらもっと外の世界を知りたい!って思うようになったんだ。ほら、ボク堅苦しいのもじっとするのも苦手でしょ?」
少し潤みが収まった瞳の先には楽しそうに語るいつもの彼がいて。
きっと彼はいつしか、本当に外の世界へ行くのだろう。気ままな風のように、一度飛び出せば何処へでも行ってしまえそうで、彼こそここにじっとしているべきではないのだろうと思う。彼も私と同じ気持ちでいたのが安心の種になったし、そして何よりも、彼が私をいつか外の世界へ連れて行ってくれるのだと約束してくれようとしているのだ。
ああ、いつだって彼は私の心を躍らせてくれる。何にも縛られず、そして後先考えずにこの箱庭を飛び出して、屈託のない笑顔でこの空域を共に駆け抜けてくれるだなんて、何て素敵で夢の溢れる約束だろう。きっと彼はいつかその約束を叶えるのだろうと確信出来るのだから、もう私に怖いものはない。我慢だなんて、今までに強いられてきたものに比べればとても可愛いじゃあないか!
「何て素敵な約束なの、ラモラック!私、貴方を信じるわ!きっときっと、貴方は私を連れ出してくれるのだわ!だって貴方はここに留まるべき人じゃないもの。貴方なら必ず外の世界に行けるわ!」
「うん、ありがとう!君の手を取るその日が待ち遠しいなあ。その日を迎えられるように、ボク頑張るからね!」





今日も夜空は美しい。雲ひとつなく瞬く星を見つめながら、いつか来る彼の事を思う。
「ねえラモラック、私はいつまで待てばいいのかしら。女の子は待たせちゃダメって言葉、ご存知?」
「いやぁ〜ゴメン、分かってたんだけどさ」
「本当よ、・・・ってうそ、」
ああ、やっと来てくれた!
突然声と共にバルコニーにひとつの小さなつむじ風が吹く。そこに現れた青年は、あの日と変わらない笑顔で私の前に舞い降りた。貴方をどれだけ待ったのか、突然の再会に心が跳ね思わず悲鳴を上げそうな私の唇にそっと彼の人差し指が添えられ、慌てて口を噤む。でも、ずっと待っていた人が現れて、黙っていられるはずがなくて。
「ラモラック、私、ずっと貴方に会いたかった」
「僕もだよ。ごめんね、待たせちゃって」
ラモラックは静かに私の前に手を差し出す。今、二人であの日約束した事が叶おうとしている。私は胸が踊るのを抑えられないまま、迷わず彼の手に自分の手を重ねた。



「さあ、これから楽しい旅の始まりさ!お手をどうぞ、可愛いお嬢さん」
「ええ、楽しいエスコートをお願いね、素敵な旅人さん!」
自由を求め、二人は箱庭から羽ばたいていく。その晴れやかな顔を、月は優しく包み込んでいた。