※氷炎より少し前



こんなにも近くにいるのに、貴方は何処に行ってしまったの。
そう言ってしまえたらどれだけ楽になれるのだろう。所詮は自分の為で、きっとその言葉さえ彼には届かない。こうなってしまう前に止められなかった己の弱さに嘆きただ行く末を見守る事しか最早残されていない歯痒さを感じながら、私は静かに月を見上げるアグロヴァルの背中をただ黙って眺めているしかなかった。何時もならば彼の隣に寄り添い共に同じ月を見ていたのに、最後にそうしたのはいつだっただろうか。
彼は口を開かない。私の気配を背後で感じながらも言葉を拒むように、しかし払い除ける事はせずそこに居る事を許容する。何時もならば私の名を呼び肩を引き寄せ優しい顔で語らう彼は、今はもういないのだ。




どうしてだか、少し前から彼は変わってしまったように思う。しかし知りたくて寄り添おうとしても、アグロヴァルの冷めきった手の平が私の瞼を覆ってしまう。見てはいけないとただ静かに視界を塞いで瞼に口付けをされては、弱い私はこれ以上踏み込むのを躊躇ってしまう。
ああ、きっと貴方は私にさえ言えない何かを抱えてしまっているのでしょうね。自分が情けなくなって、悔しくて、でもきっと今泣くべきではなくて、震える身体を鎮めるように少し強く唇を噛んだ。泣いてはいけないのだ。氷皇の妻としてだけではない。きっと、きっと、泣きたくなるぐらい心細いのは自分ではなく彼なのだ。その隣に立つ事が許されなくても、今の彼に自分が映らなくても、それでも支えになりたいと思うのならばここで涙を見せてはいけない。妻として支えるものとして、強くあらねばならないのだ。
何度も唱えるように強く言い聞かせなければこの心が形を保てず、己の心の器の狭さに失望してしまっている。それでも彼が壊れないように、そして壊れてしまう前に自分が壊れてしまってはならないとまた言い聞かせる。身が凍るような冷え切った剣の鋒が首元に添えられても、それで彼がまだ人の形を成せるのなら、私はそれを受け入れる。




静かに吹く夜風が彼の髪を優しく攫う。柔らかな月の光に照らされるブロンドの髪は輝き、彼そのものを美しく形取った。しかし幾ら美しけれどもその背中は、今は儚く、そして少し小さく見える。こんなに朧げな美しさなど彼には似合わないのに、月明かりは残酷にも全てをありのままに暴く。
「ナマエ」
名前を呼ばれ驚く。けれども月を見上げたままの彼はこちらを振り向かず、もう一度私の名を消え入りそうに呟いた。彼は今どんな顔をしているのだろう。何を思っているのだろう。もし知る事が出来たらその背中にそっと寄り添い抱き締める事が出来たのだろう。考えれば考える程、己の無力さを呪ってしまう。
「はい、貴方」
「ナマエ」
「ここにいるわ」
「ナマエ・・・」
彼の背中がまた小さくなった気がして息を呑む。今にも彼が壊れそうで怖くなって、私は堪らず一歩、また一歩彼の元へ歩みを進めた。何を言われたっていい。振り払われたっていい。不安を取り除けなくても、たとえ何も出来なくても、それでも今は彼の傍にいたいのだ。
「ナマエ」
「はい」
「お前だけは、お前だけは我の傍から離れるな」
心が締め付けられそうになる。こんな彼の言葉は聞いた事がなかったのだ。きっと彼は孤独の悪夢を見ているのだ。
敬愛していた母君は若くして命を散らし、弟達もこの家を離れてしまった。父君は母君の死後尚更子の元を離れ、終ぞ父君まで逝去した。気付けば彼の周りは私しかいなくなった。だんだん周りが消えて行く。愛する家族が一人、また一人彼から離れていく。独りでウェールズを背負って行かねばならない彼を支えるのは、妻である私しかいないのに、どうして彼がこうなるまで気付けまいか。本当に、自分が嫌になる。
それでも諦めたくはなかった。佇む彼の背中にそっと寄り添い手を回す。冷めきった背中が、心がまた暖かくなるのならば私の体温がなくなってしまっても構わない。彼の不安が、寂しさが、苦しさがどうにかなるのならば私は何を捧げても構わない。だからどうかそんな悲しい事を言わないでほしいのに、そう思わせてしまったのは私のせいなのだ。
「私はここよ。ずっとずっと、貴方の傍にいるわ」
彼の背中に額を埋める。私はもう、壊れそうな貴方を繋ぎ止める事しか出来ない。何て情けなくて無力で役立たずな妻なんでしょうね。





ねえパーシヴァル、私の可愛い弟。私は貴方の思う程彼を支えられなかったみたい。貴方に失望されても構わないわ。でも、私にはもうこれ以上の事は出来ないみたいなの。どうすればいいか分からない。
だからどうか、貴方が助けてあげて。きっともう、貴方しかいない。ごめんなさい。こんな情けない姉を許して頂戴ね。