静けさが深まる夜、大きな執務を一区切りさせ疲れた身体に鞭打ちながら一人踵を鳴らし廊下を歩く。それを労うものは廊下に灯される仄かな灯りのみで、深く溜息をつきながら落ちてくる瞼と戦っていた。途中ヴェインが夜食を運んできたのは覚えているが、それからどれだけの時間が経ったのかすら今は把握出来ないぐらいにはランスロットは疲弊していた。
「マスター」
背後から凛と響く声がし、沈みかけていた意識を浮上させる。ああ、そういえばとある調査を頼んでいたか。振り返る先に映る小柄な女の瞳には疲労で酷く燻んだ己の瞳がはっきりと映り込んでおり、己への嘲笑を滲ませつつも口許を緩めた。
「ああ、おかえり」
「依頼の潜入調査の報告書を渡しに来たのだけれど、それどころじゃないわ。部屋にもいないし、それに貴方最近ずっと遅くまで働き詰めでしょう」
酷い顔、と呆れながら目を伏せる女に、ランスロットは反論出来ない。苦し紛れに笑ってみせるも彼女の表情は険しくなるばかりだった。開口一番に飛ぶ指摘は勿論彼を思ってのためだが、疲れた脳にはただ受け入れるのが精一杯だった。
「明日になってから目を通して。今は睡眠が先。さ、部屋まで送るわ。睡眠までしっかり見届けてあげる」
「何も、言い返せないな。すまない、頼む」
「片付けも軽くやっておくから、すぐにシャワーを浴びる事。いいわね」
「わ、わかった」
有無を言わず押されるがまま了解の返事を返すと女は少し微笑んだ後、ランスロットの顔を時折伺いながら彼の部屋まで隣で静かに歩いた。隣にいてやらないとこのだらしないマスターが途中で倒れるのではないか、という疑念を交えた視線を向けられては、おちおち口も開いてられなかった。



「さ、着いたわ。今のうちにシャワーを浴びてきて」
「ナマエは?」
「何を言っているの。貴方が眠らないと私は帰らないつもりだけど」
「なら俺は後でいいよ。君も疲れているだろう?」
部屋に着くや否やてきぱきと片付けをし始めた彼女の背を眺める。そういえば先程彼女も任務を終えた筈で、真っ先に自分に報告書を届けにきたという事は彼女も休めていないわけで。いくら己がマスターであっても女性より先にシャワーを浴びるのにはやや抵抗があるし、彼女だって多少なりとも疲労はあるのだ。しかし当の彼女はそれを許すはずがなかった。
「今更何?疲労困憊の主を差し置いて先にシャワーを浴びる馬鹿な従者がいれば見てみたいわ。それに何をボーっと突っ立っているの?早くしなさい」
彼女は冷酷だ、という声もあるが、それは過去の経歴と態度だけを見ればそういう否定的な考えは出来るだろう。だがランスロットは彼女を一度もそう思った事はなかった。
確かに彼女はかつては裏の世界の住人で騎士団とは正反対の経歴を持ち、更に騎士団ではなくランスロットの私兵となれば良からぬ噂や疑念の眼差しが向けられるのは当然の事であった。その上彼女は言わなければならない事は臆せず言い、人との関わり合いを最低限に抑え、王よりもランスロットの意志を重んじ従うとなれば必然的にも''あらぬ''誤解が生まれる。自分達の事を陳腐な言葉に当て嵌めないでくれと度々頭を抱える彼に対し彼女は他人からの評価を気にする事がないあまり弁解をしないので、ランスロットは公の場で必要以上に彼女に関わる事を避ける他なかった。
しかし今はどうか。きっとヴェインが甘やかしてしまうような綻びを見抜き、フォローをしてくれている。言ってしまえばただのビジネスパートナーに近い関係だというのに、自分のために心を砕き世話をしてくれる事実がたまらなく愛しいのだ、些か強引な事は全く気にならないぐらいには。
「ホットミルクにハチミツはご入り用かしら」
「俺は子どもじゃないんだぞ」
「あら、私には大きくて可愛い子どもに見えたのだけれど」
からかいと同時に催促の眼差しを向けられればまた返す言葉もなくハチミツをオーダーし、シャワー室に向かう。ランスロットがシャワーを終えた頃には彼好みの、とびきり甘いホットミルクが彼を待っていた。
「ん、顔色がよくなってる」
疲れた身体に温かさと甘さが染み渡り小さく安堵の溜息をつく。ナマエはその様子を見て薄くとも彼女なりの、満足そうな笑みをランスロットに見せた後ソファの隣に浅く腰掛け、少しずつ消えていく湯気とミルクを静かに見つめていた。
「ふう、ごちそうさま」
「温まったかしら」
「おかげさまで」
カップを持って立ち上がろうとするとナマエにそっとカップを奪われる。そのままシンクの方へ歩いて行く彼女の背中には「早く寝なさい」と書かれているようで、ランスロットは苦笑して伸びをする。ふわりと漏れた欠伸を隠すことなくそのままベッドに入る。カタカタ、とカップとソーサーが擦れ合う音が静かな部屋に小さく響き、いよいよ身体も温まり疲れも限界に近づいてきたランスロットの心には、小さな我儘が顔を出した。



「ナマエ」
細くなった声にナマエはカップを洗う手を止めその方角を一瞥すると、いかにも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうな、ふわりと笑うランスロットが此方を見ていて。その瞳に書かれた意味を読み取ると、手を濯いで丁寧に水気を取り除いた後に声のした方へ近寄った。
「ふふ」
ああ、本当にどうしようもない人ね。無自覚が恐ろしいとはこういうものよ。
思わず出てしまいそうになった言葉を飲み干してベッドの横にある椅子に座ってやると、ランスロットはまたもふにゃりと笑った。限界になった疲労より脳が言葉を紡ぐのをやめているが、彼が今何を言わんとしているのかを当てるのは容易い。
「貴方本当に子どもね。ほら、枕に頭を落として。見ててあげるから、そんなに露骨に甘えなくても分かるわよ。もう」
否定の言葉は帰って来ず、ランスロットは綻んだ顔をそのままにナマエの言葉のままようやく枕に頭を沈める。真っ白なシーツを掛け直してやれば、彼の瞼は重みを増していく。あまりにも幼く愛らしい彼に、自然とナマエの顔は愛しさで緩んでいた。



「おやすみ、ナマエ・・・」
「ええ、おやすみなさい。良い夢を。」
ランスロットの瞼が完全に落ちたのを見届けた後、ナマエは彼の柔らかな髪をそっと撫でた。