「そういやさ、何でジークフリートさんは先生と婚約してないんだ?」
「おいヴェイン!」
先程まで飲み疲れて机に伏していたヴェインが、何かを思い出すように顔を上げる。突如降りかかる言葉に制止をかけるランスロットの目は一転して鋭く、しかしながら一気に青みを増してしまっていた。
食堂の片隅で声を張り上げても、今は幸いそこには彼らの姿があるのみであった。それもそうだ、窓の外を見れば散りばめられた星が寄り添い、月光が艇を温かく包み込んでいるのだ。時計の針は日付の移りを示したばかりで、しかしながらいつもはもう少し他の団員もいるはずなのだが。
「えっ?いやだってさ、二人のやり取り見ててもそうだし距離感つうか?何か、いかにも熟年夫婦!って感じがするのに婚約してないって聞いて驚いちゃっ・・・あれ、俺また聞いちゃいけない事聞いちゃったか?!」
あまりにも無垢な目をしてヴェインが言うものだから、ランスロットがふとした瞬間、あるいは何かの話の流れで喋ってしまったのだろう。彼の目が一瞬泳いだのを見て確信したジークフリートだが、この男はそれごときでは眉一つ動かさない。現に隣のパーシヴァルの眉間には皺が作られてしまっているが。 「全くお前はよりによってそういうデリケートな話を」
「構わんさ。それにランスロット、お前も全く気にならなかった訳でもなさそうだが」
「いやしかし」
またもや制止をかけようとするランスロットを窘める。師の事となると熱くなりがちなこの男の事だ、口ではそう言いつつも師であるジークフリートの事なら知れるものなら知っておきたいのだろう。その瞳は期待とざわつきで揺らいでおり、ジークフリートの目尻は自然とやや下がる。これは教えてやらねばヴェインもランスロットも納得しないだろう、隠すつもりはないが取り立てて言う必要も感じていなかった事だ、聞かれれば答えるつもりではあったのだから。
「フン、長年連れ添っている女に対して今の関係に甘んずるような男には到底思えんが、"今は言うべきではない"のだろう」
「パーシヴァルまで・・・」
伏せていた瞼を持ち上げ、パーシヴァルが鋭くジークフリートの瞳を見据える。全く、パーシヴァルの慧眼は相も変わらず大したものだ。感心するもこうも見抜かれてしまった以上、後戻りは出来ないようだ。現にそこの幼馴染は「今は言うべきではない」というパーシヴァルの含みのある言葉に完全に食いついてしまい、痛い程に催促の眼差しをこちらに向けてくるのだ。さて、腹を括るか。目を伏せ呼吸をひとつすると、ジークフリートはゆっくりと己を確かめるように言葉を置いていく。
「気にするな。それに、そうだな・・・パーシヴァルの言う通りだ。いずれはナマエを娶るつもりはある」
「そうだよなそうだよな!俺、ジークフリートさんを応援するぜ!」
「おい吠えるな駄犬」
そう言うや否や、ヴェインは表情に花を咲かせる。それにつられてランスロットも明るい顔になるが、無意識だったのだろう、すぐに顔を引き締めて咳払いをした。



彼には怖いものなどないと思われがちだが、ひとつだけ恐れている事がある。愛する者と離されてしまうという、如何にも人間らしいものだった。
大切なものは離れたり失う事で気付くのだ。そんな先人の偉大なる言葉を賛美するようになったのは国を追われたあの日から少し日が過ぎた頃だったか。
逃亡の際、イザベラの企みで貶められたのはジークフリートだけではなかった。イザベラからすれば彼と同様この聡明な女が疎ましく、あの日に纏めて始末するつもりだった、そう聞いたのはナマエと再会してすぐの事だった。ヨゼフ王崩御の場に居合わせた以上、真実を知る者はイザベラにとっては不都合であり、また彼女に罪を着せるには十分な、それでいて歪な証拠となる。イザベラの策に嵌められナマエと引き裂かれてしまった3年はジークフリートの心を蝕み、恐怖を植え付けた。
いつも隣で悪態をつきながらも自分を支えていたお前がいないだけで俺はこんなにも脆くなるものだ。3年抱えた孤独と喪失感、後悔を全て吐き出した時にナマエが見せた儚げな微笑みは、二度と手を離すまいと誓うにはあまりにも充分すぎるもので。こんな愚かな己を赦してくれようとは。ああ、やはり俺にはお前しかいないのだ。いつかその生を終えるまで彼女と共に歩められるのならば何と幸福なのだろう。そう考えると今すぐにでも彼女にプロポーズしたいのだが、それを阻む大きな問題が1つあった。



「ランスロット、何故俺がナマエに未だに婚約を申し込んでいないのか、その理由が分かるか?」
「理由・・・?ただ単に気持ちの整理がついてない、という問題ではないのは分かるんですが、すみません・・・」
「"不安定"だからだ」
「不安定」だから言えないのだ。そう言うとランスロットは顔をきょとんとさせヴェインと目を合わせた。
ジークフリートは団長の旅を見届けると決めている。つまりは団長がイスタルシアに辿り着くまで自分の旅は終わる事はない。いつあの果に辿り着けるのかは誰もが予想出来ない事で、そんな終わりの見えない旅の途中で婚約をするには気が引けたのだ。一度とならず二度も誓いのせいで長くナマエを拘束してしまう事は何としてでも避けたかった。それに、もしいつ出来るかも分からない結婚の話をしても、何時でも構わない、とまたずっと待ってしまうのだろう。愛する女をそんな不安定なモノで"また"縛る程ジークフリートは馬鹿ではないのだ。だから、今はどうしても言えず、またそれを言うべき時ではない。
「俺は国を追われる前にナマエを誓いと称して長く縛りつけてしまっていてな。"何があれば俺と共に来てくれるか"と。結果はお前たちもよく知っているだろう。ナマエは、俺を逃がすために自らが捕らえられても俺を待ち続け、身も心も衰弱してしまった」
ランスロットの瞳が苦痛に歪んだ気がしてジークフリートの心に針がちくりと刺さる。同じく国を追われたとされていた女が本当は3年も囚われて憔悴していたという事実を目の当たりにした時の彼の絶望に染まった顔は、今でも憶えている。
「あいつは我慢強すぎるところがあるからだ。今婚約など申し込んでもすぐに実現するはずもないのに今言ってしまえば"また"黙って待ち続けるだろうな」
「ジークフリートさん・・・」
「己の臆病さも理解している。あいつに甘えたままである事も分かっている。この選択が最適解でないとさえ今でも思うさ」
言わないのではない、言えないのだ。
ジークフリートの見せない弱さを覗き込んでしまった気がしてランスロットとヴェインはバツが悪そうに俯いた。全てを理解出来る訳ではないが、ナマエが彼の心をここまでも揺さぶる存在であった事はなんとなく理解していた。深く思い悩む師の心が少しでも分かるから、かえって言葉が見つからないのだろう。そういった経験が浅いのだから、ただ黙って唇を噛み締めている。
あまりにも重い。ずしり、と伸し掛る重い空気にパーシヴァルは苛立ちを募らせていた。ジークフリートの迷いにいち早く気付いていたが、他人の色恋沙汰にまで首を突っ込む程馬鹿でも野暮でもない。余程酷ければ叱咤のひとつでも浴びせてやろうとは思っていたが、まさかここまで深刻だったとは。



「おいジークフリート」
「どうした」
「どうしたもこうしたもあるか。全く、他人の恋愛沙汰には興味がないが、あまりにも今のお前が弱々しいあまり見ていると腹が立つ」
「おま、え・・・!パーシヴァル!」
「フン、それがどうした。いつこの旅が終わるか分からんから有耶無耶にするつもりか?いい加減にしろ。その迷いがナマエを苦しめているとしたらどうするつもりだ。愛する女を娶りたくても娶れん?この先がどうなるか見えないから?ふざけるな!かつて英雄と言われたお前がそんな事で迷っていてどうする!」
段々と声を荒げるパーシヴァルからは怒りが溢れ出していた。騎士として皆を引っ張っていたこの男は武勲が全てではなかった。寡黙で口下手だが誰よりも騎士としてあの地に立っていたはずなのに、愛する女ひとりの幸福さえ約束出来ない程不器用で軟弱者であったのか?
その怒りで燃える瞳には失望を映しているのではない。パーシヴァルも、誰にだって引けを取らないぐらいにジークフリートを信じている。それがゆえに叱咤してしまうのだ。それがパーシヴァルの優しさなのだから。
「俺はいつか必ず理想の国を作ると言った。それが何程先の話になるかなど俺すら知らん。だが俺はそれでも団長を最高の右腕として国に迎えると誓った。何故言えたか?必ず成し遂げるという強い意志があるからだ。今のお前にはナマエをいつか必ず妻として迎え、幸せにするという強い意志があるか?願望ではない、意志だ。ないだろう!愛する女の笑顔ひとつさえ守れんとは情けないにも程がある。騎士とは弱き者や愛する者さえ守ってこそではないのか?それでもお前はあの女を放っておくつもりか?」
「パーシヴァル!それは何でも言いすぎだ!」
パーシヴァルの言葉がジークフリートの背中に鋭く突き刺さる。全くもってそうだ、彼には強い意志がなかった。
黙っていたランスロットがパーシヴァルに掴みかかる。ヴェインは慌ててランスロットを背後から取り押さえるが、師を侮辱されたと怒りで全身から冷気が放たれる。狂いそうになるランスロットをパーシヴァルは冷ややかに見ると、勢いよくランスロットを振り払う。衝撃でよろめくランスロットを間一髪でヴェインが支えると、ランスロットは大きく舌打ちをした。
「何が侮辱だ、まだ分からんか。俺は叱咤しているに過ぎん。そうだろう、ジークフリート」
パーシヴァルの赤い瞳がこちらを真っ直ぐに捉えると、ジークフリートは少し自嘲した後目を伏せる。全て見抜かれ叱られるとは、自分の情けなさに反吐が出そうだった。
目を逸らしていた。自分がいつか旅の途中で死んだら、誓いを破る事になる。それならば誓わなければいい、なんてのは最上級の言い訳で、逃げ道だ。それでいて尚ナマエを手放すつもりもなく、ずっと"恋人"という名の檻に閉じ込めている。閉じ込めていてはあの醜女とやっている事は何ら変わりなく、そしてまた彼女に苦痛を与えているのだと、今になってようやく"目を向けた"。
自分はあまりにも愚かだった。抑え切れない自嘲が声になって漏れ、喉を鳴らす。唖然とする弟子たちを横目にひとしきり己を嘲笑った後、ひとつ息を吐いた。
「そうだな。己のあまりにも醜い愚かさに笑いが止まらなかった。そうだ、パーシヴァルの言う通りだ。侮辱などとは全く思わんさ、これはパーシヴァルのお人好しのおかげというべきか」
「誰がお人好しだ」
「お人好しだ。昔から何ら変わっていない。おかげでずっと腹に居座っていた迷いがなくなったんだからな」
ジークフリートの顔には憑き物が落ちたように晴れやかとした表情が浮かんでいた。その顔を見て3人はほっとしたように穏やかな笑みを浮かべる。迷いのないその顔を見られるのを、まるで心の底から待っていたように。
「じゃあさ、先生に言うんだよな。結婚してくれ、って」
おずおずとヴェインが言葉を並べる。確認するような問いに、今度こそはっきりと答えてやらねばならない。むしろ、はっきり答えない理由がないのだ。
ナマエに、婚約を申し込むのだと。
「ふ、もちろんさ。やっと心を固める事が出来たんだ、お前にも感謝するぞ、ヴェイン。」
「そ、そうか?聞いちゃいけない事だと思ったけど、ジークフリートさんが前に進めるきっかけになったなら、嬉しいつーか、うん」
ヴェインは少し照れくさそうに笑う。ヴェインが聞いてくれなかったら、ずっと迷いを振りかざしてナマエを縛り続ける事になったからだ。
ランスロットの方を見遣る。言いたげな表情に催促を投げるとランスロットは口を固く結んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「俺、さっき取り乱してしまって。貴方が悩んでいる事にすら明確に気付けず、俺、ちゃんと貴方を見れてなかった」
ランスロットが悔しがる事は何もない、そう答えれば彼は首を横に振る。今まで打ち明けられずにいた俺が悪いのだと言い聞かせると、その蒼い瞳は小さく揺れた後、ジークフリートを真っ直ぐ見つめた。
「俺!応援してますから!きっと、いや絶対大丈夫です。ジークフリートさんは先生を誰よりも深く愛しています。それは先生だってそうです。先生、時折貴方の前でとても幸せそうに笑うでしょう?あの柔らかい笑顔は、俺たちでは見る事が出来ませんから」
「あ、そういやそうだよな。俺らの前で面白すぎて笑う事はあるけどさ、基本ツーンとした顔してるし」
「それは貴様が馬鹿を晒すからだろう」
「おい今それ言うか?!つうか」
「まあまあ二人とも落ち着けって」
「俺は冷静だが?」
パーシヴァルはいつもの無愛想な表情でその言葉を突っぱねる。相変わらずな光景にジークフリートは笑みを零す。その柔らかで優しい顔を見て、3人もつられて笑みを浮かべた。
ああ、俺は本当にいい仲間を持った。しかしもう隠し事は通用せんな。
そう心に秘めて、彼はまた穏やかに笑うのだ。



「そうと決まれば言わなくちゃな!で、いつ言うんだ?」
「おいヴェインお前はまた!」
「構わん。しかしなぁ、流石に俺でも少し心の準備をだな」
「フン、ああ言っておいてまだ怯えているつもりか?」
「パーシヴァル!」
「はは、そうさなぁ。俺もまだ人間臭いという事か」
突然湧き上がる羞恥心に少し戸惑うが、不思議と心は軽かった。どんな顔を見せてくれるのだろうと考えてしまうあたり、近いうちに告げる事になるのだろう。踊る心を秘めながら、深い夜に別れを告げた。





「ナマエ、話がある」
「何かしら」
ジークフリートの真面目な顔にナマエは少し身構える。しかしすぐに彼の瞳が優しい熱を浮かべているのを見ると、緩やかに瞬きをし静かに言葉を待つ。
「俺は団長の旅を見届けたいと言った。お前はそんな俺について行くと言った。しかし団長の旅がいつ終わるなど分からん。それに、いつの話になるかはわからんのだ。そんな時に悪いが、俺の我が儘を聴いてくれるか?」
「ええ。もちろん」
暖かく柔らかな陽の光がナマエを照らす。優しく細められた彼女の瞳に目を奪われ、時を忘れそうになった。二人の髪を撫でる風は、まるでそっと見守っているようだった。
いつ実現するかなんて分からない。それでも言っておかねばならない事がある。いや、これはどうしても言っておきたいのだ。もう、この手を離さないと決めているから。



「俺と、結婚してはくれないか」
「ええ、喜んで」
ずっと待っていたのは、この言葉だったのだ。この顔だったのだ。
待ち望んだ幸福に顔を綻ばせたナマエを優しく抱き寄せ、頬に手を添える。
ああ、笑う彼女がたまらなく愛おしい。
もうこの手を離さないと、溢れ出る愛しさを共に唇に乗せて静かに口付けた。