「ん・・・」
普段よりも少し冷える空気に当てられ、少し薄いシーツをそっと蹴る。寒さに身じろげば重い瞼は落ちている余裕をなくし、眠りについていた己の脳は寒さに刺激されて覚醒を余儀なくされ、サンダルフォンは渋々身体を起こした。
「何だこの肌寒さは」
開口一番下がった温度に毒を塗るように苛立ちを吐く。どうやら覚醒は強いらしく、もう一度ベッドに身を沈めるには些か時間が必要だ、と己の体躯が囁いているのを感じ、少し重い頭をもたげてゆっくりと腰を上げた。間借りしている部屋を一瞥して改めて寝るだけの場所と化したように飾り気のない部屋だと溜息を漏らすと、特にやる事がないなら、と部屋を静かに出た。


部屋を出る前にちらりと見た時計の針は2時か3時か、夜明けには少し早い時間だった。どうせバーはうるさいのだろう。今日も酔っぱらいが集っては騒いでいるのだろう。サンダルフォンはそういった喧騒を好ましくは思わない。可能であれば静かに再び訪れるであろう眠りの時間を迎えたかったが、かといって好んでいるコーヒーなんて口にしてしまえば眠れない。しかし寒さに慣れなければ意味もないだろう。そう自棄になりながらどうせなら誰もいるはずがないであろう甲板に出るか、そう結論づけて甲板に出てみたが、先客がいたとは驚きだった。その人はひとり佇み、夜空を見上げている。それに、独りで過ごそうと思ったのが台無しではないか。
「おい、こんな時間にひとりで何をしている」
その先客をよく見ると自分より薄着だった。寝巻き、というものに薄いボレロのみを羽織っただけの軽装で、風邪でも引きたいのか、と問いかけるとその女はゆっくりとこちらを振り向く。
「びっくりした、サンダルフォンがこんな時間に起きているなんて珍しいのね」
「俺はたまたま肌寒くて起きただけだ」
「そう」
「お前は馬鹿なのか?もっと着込んでから外に出ろ、というよりとっとと寝ろ。まさか眠れないのか?」
「そうね、あなたと同じかも」
ふふ、と柔らかく笑うナマエの横顔を見ると、また視線を夜空に戻していた。その視線の先を追ってサンダルフォンも夜空を見上げるが、そんな事よりもやはり寒さが先行し、視線を戻して身震いをする。その様子が横目で見えたナマエはくすり、と笑う。そういう彼女は寒そうな素振りを見せず、口元には緩やかな弧が形を保ったままだった。
「サンダルフォンったら、私より寒そうにしてる」
「こんな季節はずれの肌寒さで寒そうにしていない方がおかしい」
「そうか、私おかしいのかも」
「ああ、こんなに薄着で、それに、」
サンダルフォンは言葉を言い終える前に言葉を詰まらせる。ナマエをよく見ると唇が僅かに紅を失っており、その瞳には暗い色を移していた。無論それは夜空の色ではない。紛れもなく心の色で、突然浮かんだその色に困惑を隠せなかった。
ナマエは常にふわりとしていてそれでいて芯が強く、皆から一歩引いて見守るような、そして必要であれば手を差し伸べて優しく包み込む女だった。それはサンダルフォンも彼女の優しさに包まれた事があるから解る事で、この団に加入してから少しの間荒れていた自分の心に寄り添ってくれた、グラン以外の唯一の存在だった。ルリアやビィも気にかけてはくれるが、どれほど辛辣な言葉を投げようとも自分に怖じず多くは語らず、それでいて自分を真っ直ぐに、ずっと見てくれているとなれば別だ。それにグランは信頼してはいるが、慕われるがゆえに自分ひとりをずっと見る事が出来るわけでもない。
別にそれを求めているわけではなかったが、ナマエはどんな時もサンダルフォンに寄り添い、傍で包み込んで彼の心の傷をゆっくりと解した。全てが和らいだわけではなく偶にその心の傷が疼いても、今では彼女の隣に立つだけで自然と心は安定を取り戻すのが不思議であったが不快ではなかった。


そんな気丈な彼女は、サンダルフォンが知る限りでは人前で弱みや悲しみをあまり見せるような人間ではなかった。グランになら悩みを打ち明けているかもしれないが、そんな強かな彼女がこのような色を瞳に宿すのを目の当たりにしたのは初めてだった。どう考えても様子が、おかしい。
「ッおいお前、」
思わずナマエの手を握ると恐ろしいまでに冷え切っていた。恐らくそこそこの時間にここにいたのだろう、しかし原因がそれだけではないのは明白で、今にも崩れ落ちそうに見えて背筋にぞわり、と走る悪寒に言葉に詰まる。どうしてそんな顔をするのか、何がお前を蝕むのか。それを吐き出す事は不可能になっている自分に焦りを覚えた。
「サンダルフォン」
か細くなった声にサンダルフォンは我に帰るとそこには明確に哀しみを見せたナマエがこちらを見ていた。自分はこの瞳を、この色をよく知っていた。何故なら自分が世界に、あの方に、そして彼女に見せた色なのだから。
「私ね、悪夢を見たの。大切な人をなくしたときの、夢」
大切な人を亡くす。
聞き捨てならない言葉にサンダルフォンはあの時を思い出した。あの方が消えてしまった、あの日の事だった。
悪しき者に襲われ消え行こうとしても尚自分を待ち、全てを託していったあの方を、自分を傍に置いてくれた、信頼してくれていたあの方が脳裏に浮かぶ。もしかすると彼女にも、そんな経験があったのだろうか。
か細い声の糸を手繰り寄せるかのように握った手を引いてやるといつもよりナマエの身体が軽い気がして目を見張る。ああ、きっと自分の予想は当たりなのだろう。そのまま口を噤み彼女の言葉を静かに待つ。


「私にはね、昔好きな人がいたの。とても優しくて、頼もしくて、いつも一人で人の輪を眺めていただけの臆病な私にも気にせず声をかけてくれて、私に何かあれば傍にいて助けてくれた素敵な人だったの」
初めてナマエの過去の話を聞いた気がする。今でこそ人に寄り添える彼女がかつては臆病なせいで皆から一歩引いていたなどにわかに信じ難いが、語らぬ彼女が今ここでサンダルフォンに語りかけている以上、サンダルフォンにはこれ以上疑う余地はない。
「その人はね、私を庇って死んでしまったの。とても勇敢だったけど、私は遺されてしまった。その人は最期に腕の中で笑っていて、君を守れてよかった、って、それで、」
震えるナマエの唇が痛々しく、サンダルフォンは己の唇を少しだけ噛む。それは同情なのか気の利く言葉が出ないのか、そもそもこの動作が何処からきたかは彼には分からない。しかし胸の奥だけが詰まるのだけは理解出来、他人事ではないと感じた事に疑問は浮かばなかった。
「私、怖くなったの。悲しかったわ、もちろん。愛している人を突然失うのが怖くなって、これから私はどうすればいいのか、ってずっと迷ってた。だけど臆病な私は立ち直れなくて、もう二度と大切な人を作りたくない、って思ってしまった」
きっとこれはサンダルフォンの痛みからすれば小さなものでしょうけれど、そう呟く彼女を憐れだとは思わない。しかし自らの哀しみを他人と比べて自分を謙遜し卑下する彼女に、彼は苛立ちと怒りを覚えた。この女は俺に比べたら耐えねばならない痛みと哀しみを背負っているのか?大切な、愛する者を亡くす哀しみと恐怖に天秤は必要なのか?規模や経緯がどうあれ抱くものは同じであり、比べる、という問題でもない。それは愚かな行為だ。
そこまで怒りを覚えた自分にサンダルフォンはふと何故自分がこう思ったのかまたも不思議に感じた。そもそも自分は世界もルシフェルも何もかもを恨み、彼女のような痛みからすれば自分の傷は更に深くあったはずだ。過去の自分ならば彼女の痛みなど気にも留めなかったし煩わしかったはずだ。
そうか、ナマエはいつの間にか「ただの興味のない人間」ではなくなっているのか。何故こうも明確にそう結論が出たのかは不明だが、先程から自分の中で知らなかった感情や考えが湧き上がっても不思議だと思うが不快に感じなかったのは、彼女が苦しんでいる事に心を痛めるのは、きっとサンダルフォンが彼女に心を許してしまっているのから、なのだろう。恩返しだとか借りを返すだとかそういう理屈めいた理由ではなく、彼自ら彼女の心の傷に触れようとしている。
「でもどうしてなのかしらね。団長さんと、皆と出会ってからも一歩引いて見ていたのは変わりないのに、一線を引くことはできなかった。それに、貴方を見ていたら他人事とは思えるわけがなくて、貴方を放っておけなかった。私の痛みと貴方の痛みの大きさは違うと分かっていても、嫌われてもいい、それでも少しでもその痛みを和らげる事が出来るのならと思ったの。同情だと嗤っても構わない。貴方の一番になるつもりもない。言い訳と言われてもいい。それでも貴方は、私を拒絶しなかったわ」
「・・・しろ」
「えっ?」
「いい加減にしろ!」
耐え切れず声を荒げると、ナマエの肩がびくりと跳ねる。サンダルフォンは睨みつけるように痛みを浮かべた瞳でナマエを見詰め、張り裂けそうな喉を開いた。
「お前は何故そうやって自らを卑下する?俺の痛みよりも小さいから我慢して俺に寄り添うのか?何故大切な者を失う哀しみをそうやって天秤にかける?それで量れると思うのか?大きさなんて関係あるか?俺とお前は同じ痛みを抱いているのに何故それを押し殺す!俺には理解できん、お前は本当に同情から俺の傍にいたのか?!少なくとも俺はそうは思わない!お前がいてくれたから俺は、俺は・・・!俺は俺の痛みを乗り越えようと思えるようになった!だからもう、自らを押し殺さないでくれ、もうやめろ、やめてくれ・・・」
ナマエの身体を引き寄せて心のままに叫ぶ。自らの腕がナマエの骨を軋ませようとも、今はこの腕を解きたくなかった。今解けば彼女が消えてしまいそうな気がして、恐ろしくなる。
「サンダルフォン」
震える声に引き寄せられるように視線を移すと、そこには瞳を濡らすナマエがいて。今にもくしゃりと歪んでしまいそうな彼女の頬に手を添えると、彼女のそれは一気に瓦解した。
「貴方は本当に優しいのね。私、こんな女なのに、それでも心を痛めてくれるのね、私、なんて馬鹿なのかしら、貴方にこんな事を言わせるつもりはなかったのに、でも、私、」
「お前は馬鹿なんかじゃない。もうそれ以上言うな」
頬に添えた指を目尻に這わせナマエの涙を拭う。零れていく感情を受け止めるようにそっと何度も指を濡らすと、ナマエは確かめるように口を開いた。


「ねえ、私の我が儘を聞いてくれる?」
「フン、言ってみろ」
「まだ私の傷は癒えていない。きっとこの先誰にも言うつもりもない。そんな私の冷え切ってしまった心を、貴方に預けてもいいかしら」
「俺は人間のような優しさは持ち合わせているつもりはない。気の利いた言葉なんて尚更だ。気遣いなど到底難しいだろうが、望むところだ。俺はお前を見捨てない。お前が俺を見捨てなかったように、俺の心を暖めたように、今度は俺がお前を見ていてやる。お前の心を、何としてでも暖めてやる」
覚悟しろ、そう付け加えた彼の言葉にナマエはふわりと笑みを返す。これが彼に今出来る最上級の優しい言葉だと、彼の好意を胸に刻んで再び頭を胸に預けた。



▽Irish Coffee/暖めて