「お前は泳がんのか」
悪気のない顔で投げかけてくるジークフリートを思わず凝視してしまったのは、あの祭が終わって少し経った日だったか。
とんでもない。この歳で泳ぐなんて以ての外であり、そもそも日がな一日研究の為と部屋に籠るばかりのナマエに日差しが照りつける浜辺で寛ぐなどという行為は逆に酷な話である。更には堂々と水着を着ようだなんて空がひっくり返ろうとも微塵も思わないし、不必要に肌を出すのも好まない。それを分かっててこの男は発言しているはずだが、元部下、特にヴェイン辺りが話題に出したのだろうか、それとも他の団員のうちの誰かが、或いは浜辺で遊ぶ水着姿の人々を視界の端にずっと入れれば自ずとそう感じるのか。せめて浜辺で遊ばないのか、ならよかったものを。もしそう言われても否定するつもりではあったが。
「何でありもしないと分かってる事を聞くの」
「ん?まあ、薄い望みだ。気にするな」
何だ、まさか本当に水着でも着て欲しかったのか。
ナマエはそんな言葉で浮つく女ではない。故に深追いする事は避けたが、強張った表情を解く事は困難を極めてしまった。団長に聞いた事だから本当なのだろうが、当初彼が着ようとしていたものの名前を思い出すと、あんなのと並んで歩くなんてやはり空がひっくり返っても御免だ。未然に防いでいてくれたのが幸いだった。
ナマエが深追いをしないとばかりに溜息をひとつ吐くのを見て、ジークフリートはふと何かを思い出したかのように再び言葉を投げかけた。
「そういえばパーシヴァルが言っていたな。お前があまりにも暑がるものだからそれを見兼ねて薄手のワンピースを調達した、と」
「ああ、それがどうかして?」
「いや、お前も毎日ユカタヴィラを着るわけでもないし、それに確か二着程だと聞いた覚えがあってな」
「・・・変なところでその記憶力を発揮するのやめてくれる?」
ジークフリートをギロリと睨むとそれをひらりと躱すように視線を逸らされる。そういえばアウギュステで彼らと合流してすぐパーシヴァルとの仕事の為に解散をした時にそんなやり取りをしていた。ナマエも国を出る時にはそれなりの薄着であったが、予想以上の暑さに適応するのは困難だった。それを彼らと別れてすぐにパーシヴァルに見抜かれ、アウギュステに適応出来るようなワンピースを買えと半ば強引に店に連れて行かれたのだ。
それをパーシヴァルはきっと目尻を上げて何時ものようにジークフリートに話したのだろう。しかしとりあえず、と二着買ったというところまで覚えなくていいのだが、何故そこまで覚えていたのか。
「という事で、だ。替えも兼ねてだ。新しく追加でワンピースでも買いに行くか?」
本当に変なところで気が回る男だ。そして誘い方は、相変わらず上手くならないらしい。しかしそれが下心だろうが純粋な申し出だろうが今はどうでもよかった。確かに二着だけでは流石に愛想がないし、替えが少ないよりはましだろう。断る理由などどこにも見当たらなかった。
「ええ、喜んで」




「こうやってお前と二人で買い出しに出るのも久方ぶりか」
「そうね、貴方艇にいる間も地に足がつけば討伐だの何だので引く手数多だもの」
「それはどういう意味か聞いてもいいか?」
「別に、そのままの意味よ」
本当にそのままの意味だ。ナマエは艇が着陸しようとも滅多な事では外に出ず、研究用の物資の確保の為最低限の買い出しだとか街の蔵書を探すだとかで、ジークフリートと行動を別にする事が最近増えてきた。ただそれだけで、嫉妬だとか、そういった下心はない。艇が離陸すれば嫌でも毎日顔を突き合わせるというのに、一々気にしていては逆に築き上げてきた信頼に水を差すだけなのだ。
「まあ、あの頃はこうやって何も気にせず買い出しなどに行く事は考えられなかったからな」
「あの時は立場的に無理だっただけ。それに慣れすぎたせいで今でも貴方と並んで街を歩くのにまだ違和感があるわ」
「それはそれ、今は今、だな。俺は好きだがな、この時間は」
「顔を見たら分かるわ。慣れないけど、私だってたまには悪くないと思ってます」
騎士団長と補佐となれば仕事がない日などなく、休日に気軽に街に繰り出す暇もないという時間を長く過ごしたせいで、ゆっくりと時を過ごす今すら正直のところ何をするか迷うというのに。しかしながら今抱いている気持ちはお互い同じらしく、依頼も何もない中でこうやってかつては叶わなかった普通の恋人らしい外出が出来る喜びを分かち合うように、唇には弧が描かれていた。




ワンピースを買うだけでは愛想がないと、それまでに沢山の物を買った、いや、買ってもらった。郷に入っては郷に従え、というわけではないがせめて適応出来るように、頭から爪先までとりあえず思い立ったものを探しては気に入ったものを購入するだけのただ普通のデートは、これ程までに幸せで楽しいのか。
ストローハットに常夏を感じるが控えめなデザインのバッグ、一目惚れした意匠の凝らされたブローチにシルエットの美しいサンダル。偶には着飾るのも悪くないと背中を押され、これだと気に入ったものを指し示せばジークフリートは快くそれを買ってやった。贈り物を贈る事が多い方ではなかったが、ジークフリートはどうしてもナマエに贈り物として何かを買ってやりたかったようで、その気持ちを無下にしないよう言葉に甘える。
しかし自分ばかりでは嫌だと申し出たナマエにより、ジークフリートも夏らしく見立てられていく。あまり着飾るのは得意ではない彼に負担をかけないように見立てた服に合った簡素なウエストバッグを、ワンポイントにサングラスを。あまりこういうものは分からないというのでナマエの思うままにコーディネートをしてみたが、新鮮なようでジークフリートは気に入ったらしい。
立ち寄る店で仲睦まじい夫婦だなんて言われた時は決まって幾らかは動揺するかすっぱり否定するナマエが今に限ってはにかんで「そう見えるかしら」なんて言うものだから、それを驚きながら目に焼き付けようとするジークフリートの痛い視線を浴びて、ナマエは困ったように笑った。




それからも店を回って、気に入ったワンピースも手に入れて、休憩がてら二人で露店のドリンクを買って喉を潤して、他愛ない話をぽつりぽつりとしては屈託のない顔で笑う。ただこれだけの当たり前の事が新鮮で、歳など忘れて浮き足立った。普通のデートなんて何をすればすればいいのか、気の利いた事とは何か。それすらも全く知らなくても、ただ二人で穏やかな外出をするだけで幸せは成り立つのだ。
露店に併設されているベンチに座って足を休める。ジークフリートは勿論疲れていないが元から体力のないナマエの足が悲鳴を上げそうになっていた。きっと明日は筋肉痛だと嘆きながらも、疲れは見えても輝きは失われてはいない。
「歩き疲れてしまったわ。これじゃあ明日はのんびり過ごすしかないようね」
「俺も何もない。明日もお前に付き合うか」
「そんな事を言って、子供達に手を引かれたりしてね」
「いや、子供達には悪いがもしそうなっても俺は明日は動かん」
「嫌ね、疲れを知らない父親なのに?」
「母さんと遊び疲れたんだ、父さんは」
「いつからそんな軟弱なお父さんになったのかしら、貴方?」
まるで本当の夫婦のように言葉を交わす。何も知らない人が聞けば、彼らを本当に夫婦として見てしまうだろう。まるで妻に甘える夫のようにジークフリートが振る舞うものだから、ナマエもつられてしまった。
きっと明日は本当に出て行かないのだろう。明日は何をしようか。きっと何もないけれど、今は何もしない明日の事を考えるだけで楽しかった。




「それでだな。すぐにとは言わんが、今日買った服をまた改めて俺に見せてくれないか」
「いいけど、折角だから貴方も見せて」
「いいだろう。そうだな、それなら・・・」
ジークフリートはふと言葉を止めて少し考える素振りを見せる。ナマエが首を傾げるのを見ながら、ゆっくりと息を吐くように止めていた口を開く。
「今度は、お互いその服で出掛けないか」
「素敵ね、もちろんよ」
いつかは分からない近い未来に夏の小さな約束をした。常夏の空が笑った気がして、小さく空を仰いだ。