04 幸せのスープ


子供がそれぞれの家に帰る時間は変わらないのに、もう陽は落ちている。少しずつ肌に刺激を与えてくる冷たい風に身震いを覚える日も多くなり、巻かれているマフラーで口元を覆うようにもなった。
「秋も終わり、ね」
子供達が皆家に戻ったのを見届けると足早に引き返す。灯りがついた町を見下ろしながら軽く屋根を蹴り、仄かに照らされた王城を見据えた。今まで涼しく心地よく切っていた風が今はこんなにも冷たく、そして痛く感じる。王城へと戻る道すがら、様々な家から安らぐような温かさを感じる匂いが漂っていた。
「ママ、今日のスープはなに?」
「今日はポトフよ、今日はとても寒かったからこれで温まりましょうね」
「やったあ!ポトフなら野菜はへっちゃらだよ!」
子供の歓声が上がり少し足を止めて耳を傾ける。自慢げに胸を張っているのだろう、そんなごく普通の、しかし平穏なやり取りをふと耳にして口元が緩んだ。そういえば街も少しずつ冬支度を進めているらしく、行き交う人々の装いに厚みを増しているように感じたし、色づき終わった木の葉を集めて焚き火をする光景もここ最近はよく目にしたか。
「スープ、ね」
今日も迎える事が出来た平穏を噛み締めながら、止めていた足で再び屋根を軽やかに蹴る。ヴェインがスープを作ってくれたら、と少しだけ期待を抱くようになった自身に鞭打ちながら、また襲い来る冷たい風を切り裂いた。


あんな事を考えていた矢先、帰還して直ぐに見かけた騎士に副団長が食堂にいるからと言われ素直に足を運ぶ。まさか。そこに近付くにつれて覚えのある優しくて温かな匂いが少しずつ冷えた鼻先を包みつんとした刺激を取り除いていく感覚に、やはり期待してしまう。何時もは落ち着きのあるナマエも少しばかり足取りは軽く浮き足立ってしまっていた。それに気付くも一度膨らんだ期待は萎むことを知らず、考えれば考える程口元が緩んでいく。どうしても彼が作り出す幸福の誘惑には勝てないらしい。
「ヴェイン」
「おうお帰りナマエ、待ってたぜ」
「ええ、ただいま」
食堂の入口から小さく呼びかけると、奥からひょっこりと顔を出して歯を見せる大きな男がひとり。ヴェインに手招きをされ近寄れば、期待通りのものがそこにあった。キッチンからのヴェインの呼び出しとあれば十中八九、いやほぼ確実にただ一つの目的しかないのだが。心の中で小さく喜びを感じ、少しだけその暖かな感情を咀嚼した。
「今日すっげえ寒かったろ、かなり冷えたんじゃないか?」
「ええ、鼻先が少し痛いわね」
「だろうと思ってじゃーん!茸のクリームスープを作ってみました!ランちゃんと一緒に食べてくれ!」
ヴェインの隣に並んで鍋を覗くと、乳白色のスープから黒い頭が幾つも顔を出している。ふわりと香り立つ牛乳の優しい匂いが鼻孔をくすぐり、普段は減りの遅い腹もこればかりは抗えない。スープを見つめているとほんの小さく腹が鳴ったようで、しかしその小さな音も静かな食堂では耳に入ってしまう。珍しい音の発生源に目を丸くすると、何だか微笑ましくなってヴェインはその大きな歯を見せて笑った。
「珍しい事もあるもんだなぁ。そんなに腹減ってたのか?」
「違うの。いい匂いでつい、反射神経よ」
「反射神経にしても珍しい気がするけどな」
「仕方ないでしょ。こんなもの目の前に出されて、お腹が空かないわけがないの」
食に疎くあまり食べる事がない彼女からのこの上ない褒め言葉を聞いてまたもヴェインは目を丸くする。これまでに何度もナマエに料理を作ってやったが、振る舞い始めた頃の事を思い出すとこの反応は当然といったところだろう。口に合わないかと思っていたのが単に食が細いと知ってからあまり気にする事がなかったせいか、ナマエのこの発言はヴェインにとってちょっとしたニュースだったらしい。何だかこそばゆくて、そして只々嬉しい。しかしあまり大袈裟にすると彼女が怒りかねないので、その感情をそっと胸に仕舞いながらスープを小鍋に移した。既に用意されている食器を手際よくワゴンの上に置いていくヴェインの手元を、ナマエの目が忙しなく追いかけていた。
「ホントはポルチニド茸がよかったんだけどさ、そんなすぐには無理だしな〜?って思ってたら八百屋のおっちゃんがこの秋最後の採れたてキノコだーつっていつもより多めに取り分けてくれたもんだからさ。んで今日寒かったからそうだって思い出して作ってみたわけだ」
「・・・ポルチニドって魔物でしょ」
「わはは!そうだぜ!まあなんでポルチニド茸がよかったのかって話はまた今度にして、はいお待たせしました!ほら!持ってけ!」
話している間にワゴンに敷かれたクロスの上にスープ鍋と食器、少しのスライスされたブレッド、そして水が置かれナマエの手に託された。早くしないと冷めるぞ、などと言われて背中を押され、その掌に篭ったヴェインの優しさを噛み締めながら食堂を後にした。
「ふふ、ありがとう。楽しみね」
「そりゃどーも!じゃあ今頃疲れているであろうランちゃんを宜しく!」
「ええ、任せて」
ワゴンを押して行く道中すれ違った騎士達の生暖かい目が気になったが、そんな事よりも早く彼の元へ届けなければ。彼女は自分の今の表情と騎士達の視線がどう噛み合うのか気付きはしないのだろう。それ程に無意識に、これから過ごす時間に想いを馳せては穏やかに微笑んでいた。


陽が落ちてかなり時間が経ったように感じて重い頭を上げる。鎧の上からでも分かる程冷え切った空気を吸い込んで、そういえばヴェインが今日はいきなりグッと冷えるかもしれないと言っていた事を思い出した。今日も執務に励んでいたが、そのせいで部屋の空気を暖めるのをすっかり忘れていたらしい。
せっかく顔を上げたついでだと、大きく伸びをして溜め息をひとつ。故郷にいた頃、今日のように急に冷えた日には勉強に没頭していた自分に差し入れだ、とヴェインがよくココアを持ってきてくれたのを覚えている。無論今は昔ほど都合よくココアが出て来ることは無くなったが、そのせいかいつにも増してより酷く懐かしい気分になった。
「マスター、私よ。入っていいかしら」
「ああ、ナマエか。どうぞ」
さて今から部屋を暖めて残りの執務をやってしまおうかと思って腰を浮かせようとした矢先の事だった。夕方の見廻りの勤めを終えたところだろう、彼女の今日の仕事はあれで終わったはずである事を考えると、きっと俺の様子でも見に来たのだろう。そう心の中で呟いて、招き入れたナマエに向かって少し安堵を浮かべた微笑みを向けようとしたが、彼女の持ち込んだ物にランスロットの目は少し驚きを見せた。
「おかえり・・・ん?どうしたんだ?それ」
「ただいま。いい匂いでしょ」
「いい匂い・・・ああ!」
ナマエに言われるがまま鼻先に神経を少し集中させると、ここ最近堪能した匂いと酷く似た優しいそれが微かに漂ってきていた。ほんの一ヶ月程前だっただろう、その匂いはよく覚えている。まさか、と期待に満ちた瞳は力を取り戻し、喜びが抑えきれなった声は思わずつり上がる。
「ええ、貴方もよく知っているものよ。ほら、茸のクリームスープ。ヴェインが私達にと作ってくれたの。こちらにいらっしゃいな」
ワゴンに乗せた小鍋や食器をテーブルに素早く並べながら呼ばれれば、見つめた先にはナマエの柔らかい笑みがひとつ。ソファに来るよう催促を受け、そういえばと忘れかけていた暖炉に火をくべてからランスロットはソファに少し深く身を沈めた。
「今日は急に冷えたから、ってヴェインが、ね。今日も手を休められないような大切な書類と向き合ってるんでしょう?夕食だって忘れてしまうぐらいに」
「まあな。締切が近い書類もあるし、今日も切り上げるのは遅くなりそうだ」
「でしょうね。きっと彼もそれを分かっててこれを用意したのね。夕食兼夜食にもなるようにと」
「本当にヴェインはよく気がつくな」
「貴方は没頭したり集中すると周りが見えなくなる時がまだあるでしょ」
「説教は御免だぞ?」
「してほしいの?」
「遠慮しとく」
「ふふ、冗談よ」
何気ないやり取りに目を細め小さく唇に円弧を描く彼女に愛しさを覚えながら、また大きく伸びをして今度は小さく欠伸をひとつ。大きく息を吐いてテーブルを見ると乳白色のスープが皿に注がれ、傍らには数切れのブレッドと水が添えられ置かれる。ナマエの言う通り、立派な夕食でもあり夜食にもなったのだ。全く、ヴェインの気の回し方には昔から感服する。流石だと心の中で小さく礼を言い、優しく包み込まれるような匂いにランスロットの表情はまた一段と柔らかくなっていた。
「そんなに嬉しいのね。かくいう私も楽しみにしているのだけれど」
「本当か?結構腹が減ったのか?それとも寒いからか?今日は急に冷えたけど、それにしてもナマエにしては珍しいな」
「それもあるわ、でもこのいい匂いには抗えなかったの。ヴェインは料理の魔法使いかしら」
「料理の魔法使い、か。それは面白い例えだな。君の腹も刺激するぐらいなんだ、アイツの料理は全空一だな」
「そうね、本当に美味しいもの。彼の料理」
いただきます、と手を合わせて目の前に広がる幸せのスープをひとくち運ぶ。口の中で茸の深いコクは、食べ慣れている筈なのにいつもと違う山の仄かな香りを包んで柔らかく舌を浸した。クリームは茸のコクを引き立たせ、温かさを逃さずに頭から爪先まで程良く染み渡っていく。料理の魔法使いの腕は伊達ではないのは承知だが、優しい味わいはヴェインの真心が込められているのだろう、夜遅くまで励むランスロットを労わる気持ちと彼を甲斐甲斐しくも支えるナマエに感謝する心がこのクリームスープから溢れ出ているように感じる事が出来るのだ。舌鼓を打って思わず洩れた互いの溜息が重なり、少し可笑しくて温かくて、思わず笑い合った。
こうやって何にも捉われる事なく穏やかに二人の時間を過ごせるのはいつだってヴェインの気遣いがあった。出会って間も無い頃も凍りかけた空気を間に入って溶かしてくれたのもヴェインで、ナマエへの評価に悩むランスロットを励まし支えたのも親友である彼だった。必要以上に他人と関わろうとしなかったナマエに怖じる事なく話しかけ、ランスロットについて教えてくれたのも彼であり、今もこうやって二人の時間を作って癒してくれる。ヴェインは二人の事を考えてしているだけであって気遣いなど思ってもいないだろうし、どれ程彼らの支えとなっているかなんて気にもしないのだろう。純粋な彼の優しさにランスロットもナマエも生かされている、といえば大袈裟だろうか、いや、大袈裟ではない、と叫んでやりたいぐらいだ。



「今度ヴェインにお礼がしたいわね」
「俺もちょうど思ってたところなんだ。いつもアイツには支えてもらってばかりだからな」
お互い顔を見合わせて笑う。幸せの時間を作る偉大なる魔法使いにどうやって感謝しようか。二人を繋ぎ止めてくれた彼に一度は盛大にお礼がしたい、なんて言うと、ランスロットは歯を見せて目を細め、無邪気に笑った。
窓の外をちらりと見遣る。城下町を優しく照らす灯りがゆらりと揺れ、枝に掴まっていた葉が色褪せてひらりと舞い落ちた。この幸せのスープが秋の終わりを告げ、冬の訪れを温かく囁いた。


ヴェインが目を大きく丸めた後に照れくさそうに笑うのは、また別の日のお話。


(幸せを呼ぶ魔法のスープ)