悪戯心のすゝめ


「トリックオアトリート」
「わっ!」
賑やかに彩られた大通りにとても見知った顔がいたものだから、と背後から小さな声で囁いたのは間違いではなかった。その見知った顔が珍しく心の底から驚いたような声を出して肩を跳ねさせたのを確認して、青年の顔はたちまち花開くように綻んだ。気配を殺して近付いた甲斐があった、とたいそう満足そうに目を細めながら殺した気配を蘇らせれば、目を丸くしながら彼を凝視するその視線がかち合った。
「驚きましたね?」
「ええ、まさか貴方だったなんて思いもしなかったけれど、ルシオサン?」
「はい、実は私でした」
そこに彼の熱烈なファンがいたのなら、きゃあ彼が笑ったわ!極上の笑みよ!微笑みじゃないわ!などとと騒ぎ立てているだろうに。今はただ目の前にいる青年、ルシオから放たれる神々しく麗しい波動を受けた人々の視線が全身を貫かんばかりにこちらに向けられているのだが、彼女にはそれでさえ居心地を悪くさせる原因となってしまうのだった。
「貴方だけですよ、驚いてくれたのは。誰もが皆私の顔を見るだけで、見惚れていたんでしょうから」
でしょうね。そう短く答えながら吐いた溜息は普段より大きい。聞かなくても理由ぐらい彼女にだって予想はつく。彼が人ならざる存在である事を証明するように、その貌は誰もが心を奪われ、たちまち賞賛する美しさを持っているのだから。
それよりも今彼女にとって大切なのは居心地の悪さであった。彼が隣にいると彼に巻き込まれるように釘付けされた視線をこちらまで向けられてしまうのだ。目立ちたがる訳ではなく、むしろ逆の性質を持つならば勿論その視線は毒になる。そこから逃げようと大きく踵を返し、早足で大通りから離れるように歩みを進めた。
「待ってくださいナマエ、急ぐ事はありませんよ」
「いや急いでるんですけど。だからいつも通りちゃんとついて来て」
「ああ、なるほど。わかりました」
大通りの流れに逆らいながら少しの沈黙が流れる。ルシオはナマエの意図を静かに汲み取りながら、小さな背中を見失わないようにただその背中を見つめていた。



「やっと抜けられましたね」
大通りを抜けて人通りのない小道に辿り着く。流石にここならば視線もないだろう。収穫祭の賑わいを遠くに追いやり、ルシオは立ち止まった小さなナマエの背中に声を掛けた。
「はあ、本当にね。ここなら安心して話ができます」
人混みからの解放の余韻を味わう事なく、大きくひと息つきながらルシオと向き合う。そして再度大きく息を吸って、ナマエはルシオの緩んだ目元を捉えながら口を開いた。
「本当にこんなところで会うなんてね。まあ、いつの間にか居なくなってたから興味が湧いて街に出たんだろうと思ってたけど」
「おや、それは私も思っていたところです。本当は貴女と街に出たかったのですが、見掛けなかったので」
「物資の補給を手伝ってたの。一度街で買い出しに出てから戻ったから、きっとその間だと思いますけど」
「ああ、それなら納得がいきました。ですが貴女もこの祭に興味があるんですね」
「半分正解、半分不正解、かな」
「ああなるほど。そうですね、そうでした」
ないといえば嘘になるが、ルシオのファンがいるかもしれない可能性からあまり街に出る気が起きなかったのは確かだ。
彼女は不可抗力ではあるが、人間ではないらしい彼の目付け役として人間と偽るにはやや頼りない彼の面倒を見ているのだが、ルシオのその人ならざる波動と美貌による魔力のような恐ろしさは無論知っている。それを一度知ってからは彼とのあるはずもない噂話をされてしまう危機感が生まれてしまい、大勢の民衆の前に彼が立つ時、ナマエは無意識に彼の陰に、人の目を避けるように隠れがちになっていた。
ルシオも彼女のその心理から来る行動の理屈は理解しきれずとも、漠然と受け入れていた。人間の真似は難しくとも、彼女に心理的に負担になるような事はしたくないと思えるぐらいには、彼の心は開拓されているらしい。そう思える理由は未だに明確ではなく、きっと彼自身がそれに気付くのにはまだ時間が要るとしても。
「ふうん?本当に分かってなさそうだけど。まあいいか、別に」
「いいえ、分かりませんが、分かる気がしますよ。ええと、貴方とは団長さんよりも付き合いがありますから」
「なあに、それ。変なの」
「人間の心は難しい。ですが、理解が難しくとも、貴女を見ていると何となくですが少しずつ貴女の行動を予測出来るようにはなりました。これも、貴女の教えを守ったから、ですかね」
「教え、って・・・ああ、あれをちゃんと守ってるだなんて、意外ね」
人の心が分からないならよく観察をする事。どうしてその行動をとるかは人間でも魔物でも星晶獣でも理由があるはずなので、"どうして"という疑問を忘れない事。彼の面倒を見始めて間もない頃、ルシオにそう言った覚えがある。その発言からルシオはナマエの行動をよく見ていたのだろうか、そうならば何気ない事を気に留めようと努力するルシオの純粋さに負けたのか、先程の奇襲に対する意見など飛んでしまった。



「ああ、それとですが。トリックですか?それとも、トリートですか?」
嗚呼、忘れていた。必需品を。
ナマエは月が浮かぶ空を仰ぎ、力なく呟いた。お菓子などない、と。
「では、トリックですね。さて、どんな悪戯がいいでしょうか」
目を僅かに輝かせながら目の前で腕を組み思案するルシオをぼんやりと眺め、ナマエは観念するように彼の行動を待ってやったのだった。