死にたかった女の子の話
制服の袖口が、風にふわりと揺れた。
そのまま、名前は足を止める。くたびれたローファーがぬかるんだ地面に沈み、冷たい感触が靴底からじんわりと滲んできた。
「(……冷たい。やっぱり夜に来るべきじゃなかったかな……)」
名前は頭の中でそんな事を呟きながらも、それでよ足を進める。足の裏が滲んだ水で濡れてしまうことも構わずに、ゆっくりとそこに向かって歩を進めた。
──ここは「還らずの沼地」と呼ばれる場所だった。
地元の人間なら誰しもが知っている。むかしは美しい湖だったらしい。水面は透き通って、魚が泳ぐ姿さえ肉眼で見えたほどだと、今は亡き祖母が話していた。
だけど今は違う。黒く、深く、なにも映さない。ただそこにあるのは、吸い込むような静寂と、どこまでも濁った水の気配だけ。
──ここに足を踏み入れたら、もう戻ってこられない。
まことしやかにそう言われるようになってから、いつしかここは「還らずの沼地」と呼ばれるようになった。
──そんな場所の中心に向かって、名前は歩いていた。
沼地の周りには、「危険・立入禁止」と赤いペンキで大きく書かれた錆びた看板が、今にも倒れそうに傾いている。そこを無視して、名前はその華奢な腕で柵をよじ登った。制服のスカートが風で翻り、白い太ももが月に照らされる。
──彼女の行く先に、明かりはない。
でも、それで良かった。
人の目がない場所がいいと思った。誰もいない場所で、誰にも気づかれず、誰にも知られず、全部終わらせられる場所がいいと思った。
「(……どうして、こうなったんだろう。)」
名前はゆっくりと歩きながら、靴を脱いで草むらの上に揃えて置いた。足を水際へ近づけると、沼地の冷たい水が爪先を包む。
「(仲良くしてると、思っていたのに)」
彼女には、信じていた友人がいた。笑い合った日々があった。
でもある日、何かがぷつりと切れた。
「(どうして、 )」
いじめの標的にされたのは自分だった。
まるで、昨日までの友情が全て演技だったかのように、無視され、笑われ、靴を隠され、教科書を破られた。
なにより辛かったのは、「なんで?」と聞いたときの、あの目だ。
冷たくて、興味もなくて、まるで最初から知らない人を見るような目。
“信じてたのに”。
「(もう、疲れた……)」
涙は出なかった。もう泣きすぎて、枯れてしまったのかもしれない。
代わりに、心の奥底でずっと震えていた小さな自分が、「もうやめよう」と囁いた。
制服のまま、名前は水の中へと一歩踏み出す。
スカートの裾が濡れて、次第に布が肌に張りついていく。
「……やっぱり、冷たいな……」
ぽつりと、呟いた声だけが夜の空気に溶けて消えていった。
まるで誰かに許しを請うように、名前は空を見上げた。
けれど月も星も雲の向こう。濁った空には何にも映らない。あたりは、ひどく静かだった。
ゆっくりと、もう一歩。さらに一歩。
太ももまで水に沈んだとき、ふと、足元がずるりと滑る。
「あっ……」
バランスを崩した身体が、ゆっくりと水に沈もうとした、その時だった。
──ちゃぽん。
どこからか、確かに聞こえた。
波紋を描くような、水の音。しかもそれは、自分が立てた音じゃない。
名前は、ぴたりと動きを止めた。
月もない、星もない、光もない。
闇しかないはずのその水面の奥から──“何か”が、確かにこちらを見ている気がした。
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