風丸一郎太の冀望


 誰かに応援してもらえると嬉しい――それはサッカーだろうが陸上だろうが変わらないし、もっと言えばどんなスポーツでも同じこと。
 応援されると勇気が湧いてきて、もっとその先を目指していける気になれる。その声に応えるためにも今まで以上に頑張ろうと思える。そんな経験を、オレは陸上を通じて何度も重ねてきたから、他者からの声援の大事さはよくよく知っているつもりだった。
 ――けど、あの人からの“応援”は、それとはまた少し違う気がするんだ。
 嬉しくなる、勇気が湧く、頑張ろうと思える。確かにそうなんだけど、あの人の声を聴くともう一つ、他の人には抱かなかったものが、心の中に落ちてくる。それはそんなに難しいものではない。ただ、初めて抱くものだから、どうしてだろう? と不思議に思う。
 どうして、オレはこんな気持ちになるんだろう。
 解らない。
 解らないけど、これがオレにとってすごく大切なものなんだってことだけは、はっきり解っている。


 その日は確か、御影専農戦の少し前だったと思う。
 御影専農の偵察部隊のせいで河川敷や校庭のグラウンドでの練習ができなくなった代わりに、オレたちは新たな練習場所である『イナビカリ修練場』での特訓を始めていた。“修練場”なんて単語がついている通り、そこは今までとはまるで違うハイレベルな特訓を行える場所で、皆揃って毎回へとへとのくたくたになるまでしごかれた。
 そんなハードな練習を終えて帰る途中、オレはふと河川敷のサッカーコートに立ち寄ったんだ。
 別に、最初からそういう目的があったわけじゃない。元々ここは通学路だし、普通に帰ろうと思えば自ずと通りがかることになる。だからそのときも、少なくともコートを目にするまでは、ただ通り過ぎて行こうと思っていた。
 でも、結果的にオレは芝生の坂を駆け下りて、コートの中に立って、ボールを蹴っていた。気付いたらそうだった、としか言えない。薄暗がりの中でコートを見つけて、頭で考えるよりも先に身体が動いていた。“サッカーがしたい”というよりは“ボールが蹴りたい”って思ったんだ。身体はとっくに疲れ切ってたはずなのに、おかしな話だよな。
 これはいよいよ円堂のサッカーバカ魂が移ったかな。オレもサッカーバカの仲間入りなのかな。そんなことを考えながら、ひたすらボールを蹴って、たまに切り返しを試して、シュートを撃って、転がるボールを息を整えながら見つめる。はあはあと上がる呼吸をゆっくり落ち着かせて、ころころ転がってはやがて目先で止まるボールを、見つめる。

「……こんなんじゃ」

 無意識の呟きだった。自分で零したくせに、誰よりも驚いたのは自分だった。
 ボールを見ていると、じりじりと胸が焦がされるような感覚がする。ふと脳裏を過ぎるのは、イナビカリ修練場で必死になって特訓するメンバーの姿。その次には、最近の野生中戦で完成された豪炎寺と壁山の必殺シュートである《イナズマおとし》の光景。
 あんなに弱かった、というか素人同然の集団だった雷門サッカー部が、着実に強くなれている。力をつけている。
 それは単純に嬉しいはずだし、喜ばしいはず。オレだってそうだ。試合に勝てたら嬉しいし、必殺シュートが決まったら皆と一緒に喜んだ。そこには何の変哲も無いし偽りも無い。
 なのに――何だろう、この焦りは。
 呼吸は既に落ち着いたのに、胸の真ん中に燻るものがあるせいで、オレは暫くそこでぼうっと突っ立っていることしかしていなかった。
 そこに、あの人はやって来た。

「風丸くん!」

 随分久しいような、けどよく考えたらまだ一週間も間隔は空いてない、もうすっかり耳に馴染んだその声。
 オレは驚きつつもすぐに振り向いて、鼠色に染まりつつある河川敷の上を仰いだ。

「あ……え、コーチ?」

 バランスを取りながらこちらに向かって坂を下りてくるのは、江波コーチだった。
 遠目ではよく見えなかったけど、近くに来るとその身なりがちゃんと見てとれた。シャツに薄手の上着を羽織って七分丈の黒いパンツを履き、肩から小振りの鞄を提げているという、以前オレたちの練習をコーチングしてくれていたときとあまり変わらない恰好だ。これがデフォルトの私服なのか、それとも何か運動をしていたのか、そこまではさすがに解らないし、あまりコーチのプライベートに立ち入りすぎるのもどうかと思うから、そこは訊かないでおく。
 コーチは坂を下りきったところから緩い足取りになり、小さく片手を振りながらオレへと近寄ってきた。「こんばんは」とにこやかに笑う表情は、夕暮れの中でもやけにはっきりと見えたような気がする。オレもつられて片手を振り返した。

「こんばんは、コーチ。こんな時間にこんなとこで会うなんて珍しいですね」
「うん、用事の帰りでたまたまこっち通ったんだ。にしても偉いなぁ、自主練してるの?」
「はい。って言っても、ただボール蹴ってただけですけど」

 ジャージ姿のオレと、ちょっと離れたところに転がったままのボールを見比べて、この状況を察したらしい。コーチは依然にこにこしながらボールを回収しに行って、持ってきたそれをオレに手渡ししてくれた。

「ボール蹴ってるだけでもすごいよ、練習の後で疲れてるだろうに。ただ無理はしすぎないようにね」
「ありがとうございます、肝に銘じておきますね」

 練習のしすぎて身体を壊しては元も子もないってことは、一応オレもちゃんと解ってるつもりだ。陸上をやっていたときだってそうだったし、きちんと自身の健康や疲労の管理は忘れない。……まぁ、今日は本当に無意識だったから、ノーカンってことにしておこう。
 練習自体は、コーチが来る少し前から途切れていた。今からそれを再開するっていうそんな気分でも無いけど、せっかくコーチが来てくれたんだから少しはプレーを見てもらおうかな。じゃないとすぐに帰ってしまうだろうし。最近は毎日会えるってわけでもないから、こうしてコーチが傍にいる状況が、オレにとっては早くもレアなものに感じられている。あっさりお別れになるのが残念という、ある意味でいうとちょっと不純な動機で、オレはもう一度ボールを蹴ろうとした。
 のに、コーチはそれを止めた。
「風丸くん、そろそろ止めておいた方が良いんじゃないかな」――そう言いながらオレの足元から順に視線を上げて、オレの瞳を見つめた。あぁ、コーチにはやっぱりお見通しだったんだな、もう疲労困憊なんだってこと。さすがコーチだ。
 雷門の誰だったかが言ってた『コーチの目は審美眼』という発言を思い返せば、オレが反論できるわけもない。この人の目を誤魔化すことなんてできないと、あの練習試合前の期間でよく思い知らされたんだからな。
 オレが思わず苦笑いを浮かべてボールを持ち直すと、コーチはよしよしと言いたげに頷いた。それから、帰る前に少し休憩しようと言って、一緒にベンチに腰掛けた。もうじき夜を迎える夕暮れの中、心許無い電灯の明かりの下で、二人揃って涼しい風を浴びながら、他愛も無い雑談をする。
 雑談といっても、九割はサッカーの話だ。いろいろ教えたいことはあったし、特にイナビカリ修練場の話なんて今すぐにでも聞かせたかった。けど、どうせなら御影専農戦で強くなった姿を見て驚いてもらいたかったから、ここでは敢えて伏せておくことにした。それ以外の、アイツのプレーがどうとか最近試した連携がどうとか、あとはたまに脱線して学校の日常生活の話とか。コーチはどんな話もうんうんと頷きながら、一言たりとも聞き漏らさないよといった優しい笑顔で聞いてくれた。
 そういえば、こうしてコーチと二人きりになるのは初めてだ。いつもは他のメンバーがいて、コーチはいろんな奴からいろんな話を聞くから、しっかり向かい合って会話をする機会はあまり多くない。そう考えると、何だか途端にむず痒い気持ちになった。

「なんか、実際に試合に勝ち続けているうちに、段々オレたちのやってるサッカーがサッカーらしくなったように思えていって……他のメンバーもすっかり様になってきてるし」

 そんなむず痒さを隠すように、オレは足でボールを捏ね回しながらそう語る。頭上で時たま瞬く電灯は、いつかぱったり消えてしまいそうで少し不安だ。

「試合で勝ててるって以上に、練習してるとそういう実感が湧いてくるんです」
「そうだね、帝国と試合する前とは比べものにならないくらい成長したよ、君たち。傍から見てても解るもん」
「あはは、あの頃は皆やる気無かったし、技術も無かったですから」

 当時を振り返ると、少し懐かしくなる。
 円堂に声を掛けられて、アイツのバカみたいに熱いばかりの練習に感化されて入部して、仲間が増えて、コーチが来て。いろいろあったけど、今となってはどれもオレの中では大事な思い出になっている。そのどれか一つでも欠けていたら、きっと今のオレは無かったんだろう。サッカーだって、こんなに夢中になることもなかったんだろう。
 まあ、当時のオレたちが正真正銘の弱小チームだってことは、その当人だろうと認めざるを得ない。渇いた笑いを漏らすオレの言葉を、コーチも否定はしなかった。ただ柔く笑って、こう言った。

「でも、皆がサッカーを楽しんでるってのは、最初からずっと感じてたよ。サッカーが楽しくて、サッカーが好きだからこそ、ここまで上達できたんだろうしね」

 その言葉が、妙に心の奥の方まで届いたんだ。届いたところからじわじわとあたたかい波が広がって、そのうち静かに消えていく。溶け込んだ、って言った方が正しいかもしれない。
 サッカーが好き。サッカーが楽しい。
 それは本当に、その通りだった。オレは気付けば、サッカーにこんなにも夢中になっていた。円堂たちと一緒にやるサッカーが、かけがえのないものになりつつあった。他の奴らと同じだ。向上心が湧いてくる一番の源は、サッカーに対するその思い。
 だからこそ――焦げ付くものが、あったのかもしれない。

「そういえば、新しく入った土門くん、すっかりチームに馴染んでたね」
「あぁ、土門はすごい奴ですよ。性格も良いし、何よりプレーが上手くて……本当に」

 そこまで言いかけたところで、唇は動くのを止めた。
 今オレ、何言おうとしたんだろう。
 いや、言いたいことは確かにここにある。でもそれは所謂“愚痴”ってやつで、せっかくこうしてコーチと楽しく話ができているときに、わざわざ言わなきゃならない程のものじゃない。コーチにそんなもの聞いてもらいたくない。ダメな奴って、思われたくない。

「……」

 だから、その先を続けることができずに黙ってしまった。
 そうしたらコーチの方も黙ったものだから、自然と沈黙が続く。話題を変えないといけない、そう思うのに、どうしてか上手いこと次の話題が見つからない。空気がおかしくなってることを肌で感じて、申し訳ないような気持ちにすらなった。
 でも、それからほんの数秒も経たないうちに、河川敷に沈んでいく夕陽を見つめていたコーチがふと、視界の端で微笑んだ。

「黙っておきたいなら、無理に聞き出すつもりはないけど」
「え?」
「でも、それが少しでも吐き出してしまいたいものなら、私もそうしてほしいと思うな」

 せっかくの二人きりだし。
 そう言ったコーチの二つの瞳、夕日を反射する綺麗な瞳が、オレの方へと向けられる。
 たったそれだけのことなのに、オレの意固地、或いはプライド、そういうものがほろほろと崩れていく。やっぱりコーチは何でもお見通しなんだ。隠し事なんてできないんだ。そう思うと、頑なになっていた自分の方がダメなのかもしれないって思えてくる。不思議な程に。
 無意識のうちに小さな吐息が零れた。それと同時に身体の力が抜けていくような気がして、いつしか口はゆっくりと開いていた。

「土門だけじゃなくて、壁山も栗松も、皆すごい勢いで上達してるんです。なのに……」

 膝の上に乗せていた拳を、ぎゅっと握り込む。

「なのに……オレは全然強くなれない……」

 ――言葉にすると、焦燥はよりいっそうこの身を焦がし、穴の開いた部分を抉っていく。
 陸上をやっていたこともあってか、練習を始めた当初、オレは素人ながらもチームの中でそれなりにサッカーが上手い方だった。同じポジションのメンバーと比べても身体能力は高かったし、コーチの指導がつく前からディフェンスとしてもそこそこ動けてはいた。
 でも、コーチの指導でそれぞれが弱点を克服して、いろんな試合をこなして経験を積んで、イナビカリ修練場での特訓を全員でクリアするようになって、それで。気が付いたら、最初こそ一つ抜けていたはずのオレは、特に役割を持たない平凡な選手になっていた。
 壁山、栗松、影野は今や立派なDFだし、壁山なんて豪炎寺のシュートをサポートできるんだ。それに比べてオレは、未だに必殺技の一つも持てやしない。他ポジションの奴らと比べても、やっぱりそうなんだ。試合に大きく貢献できることが無い。活かせる技も無い。オレっていう人間は、別にいなくても良いんじゃないかとすら思える。
 はっきり言えば、少し自信が無くなりつつあった。

「今は上手い奴ばかりだし、もうオレは必要無いのかなって思うんです……時々」
「どうして?」
「だって、得意なプレーも無ければ必殺技も無いし、シュートの手助けもできない。元々陸上部からの助っ人で入ったオレなんかじゃ……」

 そう、オレは元々帝国学園との練習試合のために招集された、ただの助っ人なんだ。本来ならここまで付き合う必要は無いし、止められる謂われも無い。オレが抜けようと思えばいつでも抜けて、また陸上に戻ることができる。だから、こんな惨めな思いをすることだって、オレにとっては無駄なはずなんだ。
 解ってる。そう解ってるのに、だけど、どうしても。

「……すみません、こんな愚痴、聞かせちゃって」

 ――本当は、コーチにこんなオレを見せたいわけじゃなかった。
 でも、つい話してしまうんだ、この人を前にすると。
 何か解決してほしいとか、助けてほしいとか、そういう気持ちが無くたって、あの両目を向けられると、こうして全て話してしまいたくなる。隠しても無駄っていうのもあるし、それに、コーチは真剣に話を聞いてくれるから。いつだって真剣に向き合ってくれるから。
 ――あの頃、コーチングをしてくれていたときもそうだった。
 素人に毛の生えた程度のオレたちのことを、弱小だと呼ばれて見捨てられていたオレたちのことを、その本意はどうであれ、心から思って指導してくれていた。
 ……今みたいに、何もかもを受け入れるような、優しい笑顔を浮かべて。

「風丸くん」

 ふ、と息を吐くようにして名前を呼ばれた。
 いつからか地面へ向いてしまっていた顔を上げると、その笑顔は少し斜めになって、視線だけはオレのことをずっと正視していた。

「サッカー、辞めたい?」
「や、辞めたくなんかないです!」
「じゃあ、サッカーは好きじゃない?」
「……、好き、です」

 ――オレが、無駄なものだと解っていても尚、コーチに吐露してまで悩む理由。
 簡単なことだ。オレはサッカーが好きだから。まだまだサッカーをやっていたいから。だからこそ、ここから動けずにいる。どうして良いか、自分の足の置き場所に迷っている。
 オレのそんな答えすら見透かしていたように、コーチは口端をさらに持ち上げるとそっと目を伏せた。

「そうか、ならまだまだ雷門サッカー部にいなくちゃダメだね」

 きっぱりと、そう言い切られた。
 あまりにもきっぱりと、そう断言された。
 思わずやや呆けてしまったけど、コーチはそんなオレを気にしていないように先を続けた。

「そもそも、まだ始めて少ししか経ってないでしょ。だからそんなに欲張らなくていい。今の君は今できることを精一杯やって、得意な部分をさらに伸ばしていけばいいんだよ」
「……得意な、部分」

 ただその話を聞くことで精一杯になって、鸚鵡返しをしてしまう。
 コーチは「そう」と頷いてから、次にオレの両足へと視線を向け、その片膝にやんわりと手を添えた。思わずぴくりと跳ねたこと、多分気付かれてしまっただろうな。

「風丸くんの武器は何より、陸上で培ったそのスピードと俊敏さ。それは他の誰も持ってない立派な武器だよ」
「……武器」
「加速度を利用した素早いフェイントとドリブルに、一瞬の切り返しによるカットやブロック、敵に威圧感を与える迅速なプレッシャー……ほら、必殺技なんか無くったって、スーパープレーなんかじゃなくったって、風丸くんでないとできないことがたくさんあるじゃない」
「で、でも、そんなの練習すれば他の奴らだって」
「“素質”って言葉、知ってるよね?」

 オレの言葉を遮るように、少し強めの語調。
 気圧されるかたちでこくりと一つ頷くと、さっきよりも一段と鋭さを増したような瞳が、オレのことを見つめた。

「練習で開花させたり伸ばしていけるのは、その子の潜在能力、つまり素質。確かに、他の雷門メンバーも練習を積むことで足の速さや俊敏さを増していけるかもしれない。でも、それは死にもの狂いで頑張った風丸くんには遠く及ばない。何故か」
「……オレには、素質があるから?」
「正解」

 そこでにっこりと笑いかけられたことで、今までのコーチが真顔になっていたということに気付いた。

「さっきも言ったように、風丸くんには風丸くんだけしかできないことがまだまだたくさんある。それを上手く自分のものにするためには、これまで以上に大変な練習をこなしていかなきゃいけない。だけど、その先には必ず風丸くんの努力が報われるような、もっとすごい世界が広がってるんだよ」

 もっとすごい世界。
 それは、陸上では見ることのできない、サッカーでしか到達することのできない、未知の世界。
 オレが、オレ自身の足を信じて努力し続けていけば、いつかきっとそこに行き着くことが、できるというのか。
 他の奴らではできないこと。オレだけにしかできないこと。オレにだって見えていなかった、オレだけの可能性。
 それをひたすら磨くことで、その世界に少しずつでも近付いていける、のだとしたら。

「……江波コーチ」

 ――あれだけ燻り続けていた焦燥感が、細い煙となって消えていく。
 不思議なくらい、心が穏やかになる。
 いつもそうなんだ。コーチの言葉は、自分でも不思議な程に、オレの一番奥の方まで浸透していく。
 みっともないところは見せたくないとカッコつけたがったくせに、それと同じ心で、もっと委ねてしまいたいと思える。

「千里の道も一歩から」

 電灯の白い光が、その輪郭を少しだけぼやけさせている。段々と色濃くなりつつある夕闇の中、コーチの姿はやけにはっきりと、この目に映っている。

「もしも壁にぶつかったなら、君ができることを全力でやって、少しずつ壁を壊していけばいいよ。好きなものに一生懸命になれるって、本当に素敵なことだから」

 心に沈んでいた鉛が、音も無く引き上げられては消え失せた。
 最後に浮かんだコーチの笑顔を見るだけで、身体がすうっと軽くなるような気がする。

「……そう、ですね。オレの足は、他の誰にも負けてないんだ」

 コーチに、そして自分自身にも言い聞かせるようにそう言って、オレは右足を軽く叩いた。
 これからもっともっと練習をして、いつかコーチの言う“もっとすごい世界”の扉を開く、そのためにも一番深い付き合いをしていくことになる足。誰にも負けない、オレの自慢の足。オレに新しい世界を見せてくれるであろう、大事な大事なその足。
 また、ちかちかと電灯が頼りなく瞬いた。その最中、コーチはオレのことを肩一つ分程高い位置から見下ろしながら、くすくすと笑い声をあげた。自信を取り戻せたオレに安心したような笑みだ、と思えるのは自惚れだろうか。

「ねぇ、ちょっと試しに競争してみる?」
「いいんですか? オレ、勝ちますよ」
「さあどうかなぁ」

「大人を舐めちゃいけないよ」と言いながら立ち上がって屈伸を始めたコーチに続き、オレも腰を上げて軽く身体を解す。修練場での特訓やさっきまでの練習でくたくただったはずなのに、いつの間にかその疲労もどっか遠くに飛んでいってしまっていた。

「ゴールはあっちの柱ね」
「はい」

 足でラインを引き、どちらも揃ってクラウチングスタートの姿勢。何だか久しぶりにこの体勢をとったな、でも感覚はまだまだ鈍っちゃいない。
 コーチには悪いけど、一切手を抜くつもりはない。何せ、オレの足にもう一度自信を取り戻してくれたのは他でもないこの人なんだから。その自信を証明する様を、しっかり見ていてもらわなければ困る。
 カッコ悪いところを見せてしまった分、今度はカッコ良いところを見てほしいんだ。

「よーい……ドンッ!」

 ――オレは、そのとき改めて自覚した。
 この人の応援は、他の人の応援とはまた少し違う。嬉しいとか勇気が湧くとか、それだけじゃない。糧にして励んでいけるだけじゃない。受け取るだけで終わらせられるものじゃない。
 もっと、見ていてほしいと思うんだ。
 コーチの瞳に、もっと活躍するオレの姿を映していてほしいと思う。コーチの言った“もっとすごい世界”に到達するまで、そして到達した先でのオレを、あの真摯な眼差しで、やさしい笑顔で、見守っていてほしいと思う。ずっと、応援されていたいと思う。

「っはー! 風丸くん速すぎ……!」
「だから言ったじゃないですか、オレが勝ちますよって!」

 この人の見つめる先、この人のいる場所で、もっともっと、輝いていきたいと思えるんだ。


* * * * *


 それから少し経って、帝国学園との地区大会決勝戦を終え、次は全国大会だと部員全員が息巻いているとき。

「うちにはいつ戻るんですか?」
「え?」
「やだなー! サッカー部、助っ人だって言ってたじゃないですか!」

 ――陸上部の後輩、宮坂のその一言が、オレの決断を揺るがせることとなった。
 陸上部として一流の選手であることに誇りを持っている自分と、まだサッカーを続けていたい自分、そんな二人の自分の間で揺れている中途半端な気持ちのせいで、せっかく上手くいっていた《炎の風見鶏》もすっかり決まらなくなってしまった。オレのフォームも、豪炎寺との息の合わせ方もばっちりなはずなのに、心に生まれたたった一つの綻びのせいで、全てがぽろぽろと解けていく。
 こんなんじゃいけないって解ってる。このままではいけないって解ってる。
 オレは、きちんと答えを出さなきゃいけないんだ。
 サッカー部に行っても尚オレのことを慕ってくれる宮坂のためにも、一緒のチームで全国大会優勝を目指す仲間のためにも、応援してくれる江波コーチのためにも――中途半端なままでは、絶対にオレはその先へ進むことができない。

 翌日の朝練の前、どうしても落ち着かない気持ちを鎮めるために、オレは再び河川敷で独りサッカーをしていた。制服のまま、目の前に仮想の敵を見立ててドリブルからの切り返し、ターン。オレにしかできないと言ってもらえた、俊敏さを活かした素早いフェイントを加えてからの、シュート。ボールはきちんとゴールネットに突き刺さったが、心はまだ晴れないままだった。

「風丸さーん!」

 そこへ、宮坂がやって来た。
 オレとは違うジャージ姿の後輩が、河川敷上の道路からこちらに向かって手を振っている。かと思えば足早にこちらへと駆け寄ってきて、「おはようございます!」と元気な挨拶をしてくれたので、オレも同じく朝の挨拶を返した。陸上部にいたときは毎日交わしていたものなのに、今となってはちょっと懐かしくなってしまう。
 そのまま、どちらともなく川辺に腰掛けた。目の前には、朝焼けの光を波で砕いてきらきら輝く水面。目覚めて少ししか経っていない目にはちょっと眩しいけれど、その眩しさから、目を逸らせずにいた。

「いいのか? 朝練に遅れるぞ」
「いいんですよ、ちょっとくらい」

 軽い前置きのような感覚でそんな会話を挟んでから、オレはそっと本題を切り出した。きっと、宮坂もこの話をしに来たんだろうって、何となく察せられた。

「昨日、オマエに『いつ戻るのか』って訊かれたときな、自分がそれだけサッカーに夢中になってたんだって気付かれたよ」
「えっ……」
「あれからずっと考えてるんだ。オレはどうしてサッカー部にいるんだろう、って」

 その理由は、もう明確に解ってるんだ。だけどそれが果たして宮坂を納得させられるものかどうか確信が持てなくて、どこか濁したような物言いになってしまった。案の定、宮坂はむっとして強く言い募ってきた。

「じゃあ、もういいじゃないですか! サッカー部、部員も増えたんでしょう? 風丸さんはもう役目を終えましたよ!」
「役目、か」

 そんな些細な単語一つが、心に引っかかる。
 オレの役目――それは、もう終えたと胸を張って言えるのだろうか。宮坂の言っている“役目”は確かに果たしたかもしれないけれど、オレがここにいるもう一つの“役目”は、まだ始まってすらいないんじゃないか。

「陸上部に戻って来てくださいよ!」
「戻らなきゃいけないとは思ってる。でも、まだ戻れない」
「何を迷ってるんです!?」
「サッカーには、陸上とは違う面白さがあるんだ。オレは一流のプレーヤーたちと戦って、自分を強くしたい」
「一流のプレーヤーなら陸上だって!」
「あぁ、解ってる。でもな、まだまだサッカーにはオレの知らないすごい奴らが大勢いるんだよ」

 宮坂は、サッカーの本当の楽しさを知らない。それもそうだ、コイツは陸上一筋でここまでやってきてるんだから、オレみたいに他のスポーツに浮気したりなんてしない。楽しさを知る機会も無い。オレの言ってることだって、理解はしてもらえないだろう。
 それでもオレは伝えたかったんだ、サッカーの楽しさを。オレがそこに見つけた、サッカーへの可能性を。
 そして。

「それとな……サッカープレーヤーとしてのオレを見出し、支え、応援してくれた人がいる。その人の期待に、オレはもっと応えたい」

 宮坂だけでなく、今や全校生徒があの人のことを知っている。だから明言しなくてもすぐに解ったようで、褐色の眉間にはますます深い皺が寄った。

「……あの、突然現れたコーチっぽい女の人ですか」
「あぁ、江波コーチって言うんだ。あの人の応援は不思議でな、もっともっと頑張りたいって、もっとすごいプレーをするオレを見てほしいって、そう思わせられる。こんな感覚、初めてなんだ、オレ」

 あの夕暮れの河川敷が始まりではない。それよりももっと前、初めてコーチにディフェンス指導をしてもらったとき。

 ――ナイスディフェンス、風丸くん!

 あの一言が、オレにとってある意味での始まりだった。
 コーチのあの言葉を聞いたときから、雷門サッカー部DFとしての風丸一郎太が始まったんだ。
 身体中に熱が巡って、目の前がちかちかして、気持ちが高揚して。何でも頑張れるような気になって、それからがむしゃらに練習をこなし続けた。どんなに苦しくても、辛くても、心にずっと残っているあの声援一つを思い出すだけで、目の前の困難を乗り越えていけるような気がした。
 コーチが応援してくれている、他でもないその目の前で、オレは今以上のステージに進んでいきたい。
 それは自分の言葉の通り、生まれて初めての感覚だった。陸上をやっていたら、サッカーをやっていなかったら、このまま一生得ることがなかったかもしれないものだった。

「そんな、……ボクだって、風丸さんのことをいつだって応援してますよ! 誰よりも速く走ってる風丸さんを、ずっとずっと応援してたじゃないですか!」
「それは解ってる、ちゃんと知ってるよ、宮坂。……けど、コーチはまた、ちょっとだけ違うんだ」

 宮坂の応援だって糧にしていたけれど、それとは違う。何がどうとは、上手く言えない。宮坂に限った話じゃなくて、今までの人生で受けてきた応援とコーチの応援は、別の種類の何かのように思えるんだ。
 そこで言葉を切ったオレに対し、宮坂は全く納得がいっていないという不満顔を浮かべていた。そのうちふいとそっぽを向いて、心底失望したような声音で静かに言った。

「……陸上はもうどうでもいいみたいだ。風丸さんからそんなことを聞くなんて、思ってもみませんでしたよ」

 それからすぐにもう一度オレを振り返って、身を乗り出す。

「お願いします、戻って来てください! また一緒に走りましょうよ! 何でそんなにサッカーに拘るんですか!」
「拘る、か……確かにな」
「風丸さん!」

 これはもう、言葉で説得しても何も変わらないな。
 そう悟ったオレは、一つの提案をすることにした。

「宮坂、明日から全国大会が始まる。試合を観に来ないか?」
「え……」

 面食らって目を丸くする宮坂に、畳みかけるように続ける。

「サッカーをやるオレを見てくれ」
「どうしてですか」
「頼むよ、見てくれ。それから、陸上部に戻るかどうか話そう」

 必死になって頼めば、宮坂は渋々といった具合に顔を逸らし、それを承諾した。

「風丸さんがそう言うなら、観ますけど……」
「ありがとう」

 これで彼がサッカーをするオレを見ることで、何をどこまで理解してくれるのか。それは宮坂本人の心に委ねるしかないけれど、その分、オレは見られても悔いの無い、恥の無いプレーをしなければならない。そこにサッカーへの気持ちを全て込める、魂をかけたプレーを。覚悟は決まっていた。
 微笑むオレをちらりと一瞥した宮坂は、ややあってから些か粗暴な動作で立ち上がった。

「……失礼します」

 律儀に別れの一言を忘れず置いていくコイツは、例え部が違ってもいつまでも良い後輩なことに違いはない。向こうからすればオレは部を裏切った最低の先輩になってしまったかもしれないけど、自分で選んだ道なのだから、後悔なんてしたくなかった。そのために、今はもっとしっかり、もっと深く、今後の身の振り方について考えなきゃいけないんだ。
 オレがそっと溜め息を吐いている間に、いつの間にやら背後までやって来ていた円堂と宮坂がすれ違った。さらにその向こう、河川敷の上、遠目だけれどこちらを振り返っているコーチの姿も見えて、思わずどきりと鼓動が高鳴った。
 コーチの方へと宮坂が駆けていく。何故かどきどきと心臓がうるさい。二人は特に会話をする様子もなく、顔を合わせることもなく、宮坂がコーチを追い越して行った。そんな普通の光景なのに、さっきまでの宮坂との会話を思い出すとどうしても緊張してしまってならなかった。気付けば薄らと手汗をかいていた。

「聞いちゃった」

 そんなオレの様子に気付かないか、或いは気付いてても無視してくれてるのか、円堂は何気ないような態度で隣に座り込んだ。
 円堂は、宮坂に悪いことをしたんじゃないかと気にかけていた。けどオレはそれを否定する。だって、悪いのはオレなんだから。助っ人だって言ってサッカー部に入って、いざ助っ人の役目を終えてもまだ未練がましく居残り続けて、結果的に大事な後輩を傷付けて。それだけでなく、中途半端な心持ちのせいで必殺技の精度が落ちるという実害で、サッカー部にも迷惑をかけている。だからやっぱり、悪いのはオレだ。考えなきゃいけないのは、オレなんだ。
 円堂は持っていたサッカーボールを椅子にしている。時々ゆらゆらと危なっかしく揺れるそいつを見ながら、オレは懐かしい気持ちになって話をした。どうしてサッカーを始めるようになったのか、その原因がすぐ隣にいるから、懐古の情はよりいっそうあたたかみを増している。

「……初めは本当に助っ人のつもりだったけど、気が付いたらいつもサッカーのこと考えてる。この感じ、陸上を始めた頃みたいなんだ。何ていうか、楽しいんだよ」

 楽しい。サッカーは、本当に楽しい。コーチの問いに対する答えのどこにも偽りは無かった。オレはどこまでも純粋に、今この時間、サッカー部の一員としてボールに触れていられる時間が、かけがえのないものに思えている。
 それを手に入れることができたのは、隣でいつでも笑顔でいてくれる円堂のおかげだし、一緒に走ってくれる他のメンバーのおかげだし、崩れ落ちそうになるオレを支えてくれたコーチのおかげだ。
 何度だって思い出せる、コーチのあの一言。そしてこの河川敷で与えてくれた、オレの新たな可能性。気付かせてくれた素質の種。目の前の道の先にある、新しい世界。

「馨姉ちゃんもいるしな」

 そんなオレの心中を読んだみたいなタイミングで、円堂がそう言ってにかりと笑った。
 思考を言い当てられたようなそれに驚いて瞬きをすると、太陽ばりの明るい笑顔がほんの僅かに柔らかくなる。

「オレも、オマエとおんなじだから解るよ。姉ちゃんに応援されると、もっと頑張りたくなるって。もっと、ずっと、見ててほしくなるって」
「同じ? 円堂が?」

 今度は違う意味で驚かされた。
 コイツはもっと、言っちゃ悪いが単純だから、サッカーが好き! っていうたったそれだけでサッカーに打ち込んでいるとばかり思っていた。いつもバカ正直で愚直で自分の心に正直だから、オレみたいな、誰かに見ていてもらいたいっていう、そういう外因的な理由を持っているように見えないんだ。幼馴染だからこそ、そう思っていたのに。
 円堂は、オレの問いに頷くことはせず、代わりにちょっと照れたように笑って頬を掻いた。長いこと一緒にいるけど、こんな顔をする円堂を見るのは多分初めてだ。驚きの連続で口を半開きにしていると、次に円堂は、やはり照れくさそうな口調でぽつんと漏らした。

「これ、姉ちゃんには内緒な」

 あの円堂が、本当に珍しい。
 でもそれはオレだって例外じゃないんだから、円堂からしても、今のオレは珍しい部類に入るのかもしれない。
 ――中学二年にもなってこんなの、まるでガキみたいだけど。
 何より本当のことだし、自分にとっても大切なことだから、オレも円堂も、そこを取り繕おうとは思えない。あの人の応援を、無下にしたくなんてないんだ。

「じゃあ、オレのも内緒だぞ、円堂」
「へへっ、解ってるよ」

 グローブを嵌めていない素手が親指を立てる。それを見つめながら、オレはふと、視線を川のきらめきへと戻した。
 ――本心は、まだまだここにいたいって思ってる。
 まだまだこの場所で、オレ自身の可能性を伸ばし、“もっとすごい世界”を見てみたいと思っている。
 陸上部員ではない、サッカー部員でもない、ただの風丸一郎太の本心は、躊躇いなくそう思えていた。

「……戻るのか?」

 それでも円堂の問いにはっきり答えられないのは、陸上部に残した仲間と、オレを慕ってくれる後輩の存在があるからで。

「解らない。陸上の仲間もオマエたちも、オレには大事な仲間だ。どっちを選んでも、どっちも裏切るような気がして……」
「オレは、風丸が出した答えがベストだと信じてるよ」

 はっとそちらを見ると、円堂もまたオレのことを一心に見つめていた。
 真ん丸の瞳の中に、オレの思い詰めたような表情が映り込んでいる。

「納得できるまで、いっぱい考えとけ!」

 そう言うと同時に励ますようにオレの肩を叩いた円堂――だったが、やっぱりというのか、お約束というのか、見事にバランスを崩して椅子代わりのボールから転げ落ちた。その弾みでボールは呆気無く川に落ちてしまい、ぷかぷかと、今にも向こう側へと流されかけていく。

「あーっ!」

 碌に感傷に浸る間も無くあがった悲劇的な叫び声に、オレはボールの心配をするより先に、ついつい肩を揺らして笑ってしまった。そうしたことで、重かった肩が多少は軽くなったような気になれる。
 ――とにかく、全国大会初戦だ。
 初戦はコーチも観に来てくれる。それを胸にコーチの期待を超えられるような精一杯のプレーをして、そんなオレのサッカーを宮坂に見てもらって、それからもう一度、アイツとじっくり話し合おう。そこでアイツの出した答えを聞いて、オレもしっかり本心を伝えて、この問題に決着をつけるんだ。

 ――好きなものに一生懸命になれるって、本当に素敵なことだから。

 そう。
 オレが、オレ自身の好きなもの、大切なもの。
 それらを前に、決して後悔することのないように。




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