向き合って、見つめ直して


 その翌日、試合を明日に控えた火曜日。
 結果的に土曜日の集中講義をほっぽり出してしまうかたちとなった馨は、昼過ぎからその担当教授に呼び出しを喰らって懇々と説教をされる――かと思いきや、教授の手伝いをすれば出席点を与えようという交換条件を提示された。
 どうも、あのとき一緒にいた友人が『馨は尋常じゃない様子でした、何かあったんだと思います』と擁護してくれたようで、それによって情状酌量の余地があるという温情を授けられたらしい。持つべきものは友達、とはまさに至言だと思った瞬間だった。
 断る理由も無く、勿論喜んでお手伝い要請を受け入れた馨は、教授である佐倉(さくら)の研究室で資料の整理整頓に時間を費やすこととなった。
 幸いマネージャー業のおかげで事務作業自体は得意なため、細かい業務も大した苦ではない。ただ、まだ二年生の馨ではさっぱり理解不能な文章の詰め込まれた書類やシラバス、分厚い文献など、その中身がサッカーに関するものだったら文句無しだったのにと思うくらいで。サッカーのことならばいくらでも勉強したいし没頭したい、改めて本当に自分はサッカーが大好きだ。そろそろ『サッカーバカ』の称号をいただいても良いかもしれないなと思いつつもある。
 そんな取り留めない思考の最中、“サッカー”というキーワードによってふと過ぎったのは、昨日の鬼道との会話。
 彼には本当にいろんな面で心配をかけてしまったが、結果的に全てが丸く収まった。鬼道がいてくれたおかげで、馨はこうして再びサッカーについて思いを馳せることができるようになったのだ。昨日二人で交わしたやり取りは、この先ずっと自分の糧となってくれることだろう。
 ただ、その中で一つ、気になった一言。

 ――俺は六歳年下の、江波さんからすればまだまだ青くて頼りない中学生かもしれません。

 自分は頼られていないかもしれない、もっと頼ってほしい、という旨の、鬼道の発言。
 馨としては、彼を頼りないだなんて思ったことは一度だって無いし、他のメンバーだってそうだ。六歳という年齢差によって信頼の度合いを変えるつもりはさらさら無い。いつだって、皆のことを心から信じているつもりだった。
 しかし、どうやら鬼道からすればそれが充分では無かった――馨がいつまでも自分を制し続けていたことを、己の話を何一つしなかったことを、恐らく、ずっと不足に思っていたのだろう。
 馨はそのとき、漸く解ったのだ。自分がいつも鬼道に言っていた「いつでも頼れ」という言葉は、そっくりそのまま自分にも返ってくるブーメランめいた台詞だったのだと。
 心に抱える負の感情を、馨はいつも“年上だから”という庇護側の立場になったうえで、周りに伝えようとしていなかった。
 でもそれは、自分がいつぞやの鬼道に対して不満に思っていたことと、一体何が違うというのか。
 何でもかんでも独りで抱えてしまう鬼道の心を暴いておきながら、信頼してくれと思っておきながら、結局全てが一方通行の、独り善がりな思いでしかなかったのだ。
 鬼道にあんなことを言わせてしまったことは、間違いなくこれまでの馨の失態でしかない。
 だから馨も、これからまた一つ、変わっていかなければならない――。

「江波さん、手が止まってるよ」

 不意に視界外から声が掛かった。
 馨は勢い良く我に返り、そちらを振り向く。

「す、すみません。ちょっと考え事を……」
「何か悩みでも? 私で良ければ聞くけど」

 紙束の挟まった大量のファイルを重ねて机に置きながら、佐倉が小粋な仕種で首を傾ける。行動心理学教授である彼は、一見如何にも文系然としたひ弱そうな見た目をしているが、実は意外と力持ちであるということを馨は今日初めて知ったばかりだ。
 一瞬すぐに否定して話を終わらせることを考えた馨。
 しかし、彼の年齢が自分よりも上であるということに気付いたので、ここは思い切って訊いてみることにした。

「教授、一つ質問しても良いですか?」
「どうぞ」
「教授は、自分より十近く年上の方や目上の方に頼られたり甘えられたり泣き言漏らされたりするのって、どう思いますか?」

 飽くまで世間話の一環のような軽さで持ち出したその質問。
 佐倉は何度か瞬きをした後、緩く腕を組んで顎を持ち上げた。

「そうだなぁ、相手との関係によるとは思うけど」
「なら、相手とは同じ環境で働く仲間同士だということで」
「ほぉ。だったらそりゃあ、嬉しく思うよ。光栄とも言うかもね」

 答えは至極あっさり、当然だろうと言わんばかりに返された。

「自分を頼ったり甘えたりしてくれるってことは、つまりそれだけ信用してもらえてるってことだから。何でもかんでも隠し事するよりそうやっていろんなことを相談してくれる相手の方が、一緒にやってて安心できるし、こっちも信頼しようって気持ちになるし」
「みっともないとか情けないとか、そう思うことはありませんか?」
「無いな。そもそもそう思えてしまうような相手には、最初から信頼も尊敬もすることはない」

 なるほどな、と馨は胸中で頷いた。
 仮に馨が鬼道に泣き言や愚痴などを零されたとしても、今まさに自分が言ったような感情を抱くことはありえない。それに昨日の鬼道だって、あれだけ散々落ち込んだ馨に対して最後まで匙を投げることもなく、ずっと親身になって傍にい続けてくれた。
 年上として、精神面でも肉体面でもより多くの経験を積んでる者として、自分の感情や言動をしっかりコントロールすることは大事である。相手の境遇や周りの空気を読んで、最善のかたちで自分を律していかなければいけないと、齢二十にして馨はそう考えていた。現状周囲にいるのが己より年下の少年ばかりで、馨はそんな皆のことを守る側にいるのだから、尚更。
 ――ただ、そればかりではいけないのだろう。
 相手に信頼してもらいたいのなら、時にはそんな理性をも壊す程の信頼を、こちらも相応に示さなければならないのだ、きっと。

「信頼って、いくら心の中に持ってたとしても、しっかり表現しなければ相手には通じないものだからね」
「表現……確かに、そうですよね」
「ちゃんと自分が信じるに足る人ならば、寧ろこっちの方から頼られたいと思うよね。そうすれば同じ目線に立っていられるわけだし」
「同じ目線……」
「せっかく一緒にいるのに頼られず置いてけぼりにされるってのも、寂しいじゃないか」

 ね、と同意を求めるようににっこり笑った佐倉。馨は何をどう返すべきか惑った末に、小さくこくりと頷いた。
 ――寂しい。
 その一言が、何より一番しっくりきた。落ちるべきところに落ち着いた。
 確かにそうだ。馨だって鬼道が影山から離反する前、彼が何一つ相談しようとしてくれなかったとき、何もできないもどかしさと同時に、蚊帳の外にされることへの寂しさや虚しさを感じていた。せっかく隣にいるのに、まるで二人の間に不滅の壁でも表れてしまったような距離感を覚え、ひどく切ない気持ちにさせられた。
 そうか――鬼道もまた、そうだったのかもしれない。
 馨が我慢をし、独りで沈んでしまっているその間、鬼道も以前の自分と同じような寂しさや歯痒さを感じていたのかもしれない。
 そして、それこそがあの、心から安心したような笑顔に繋がっていたのだ。
 馨が鬼道を真に頼ったからこそ過去を語ったのだと知ったとき、彼は本当に安心し、そして嬉しそうに笑っていた。

「……そっか」

 たった六歳という年齢差に肩肘が張りすぎて、逆に不器用になってしまっていたのだろう。無意味な壁をつくり上げていたのは、寧ろ自分の方だった――これからはもっと力を抜いて、年齢という垣根をもう少し低くしていきたい。いつでも彼らと対等に、同じ目線で世界を見て、そのうえで互いの間に信頼関係を築けるように。
 ここから新たな道を歩み始めるという、自分にとって大きな転機。
 そこで馨はもう一つ、自分の中の燻りを昇華できたような気がし、とても晴れやかな気持ちになれた。

「ありがとうございます教授、おかげですっきりしました」

 はっきりした口調でそう言うと、佐倉は満足そうに笑って机上に積まれたファイルを手に取った。

「お役に立てたようで何よりだ。じゃあ、江波さんより年上の私から、江波さんを信頼して頼み事をしよう。こっちの整理も手伝ってくれ」
「はい、お安い御用です」
「いやぁ助かるよ、江波さんは手際も良いし作業が正確だから。まさに信頼。美しい関係だね」
「ではついでに後期の成績に色添えなんて」
「それとこれとは話が別だな。そもそも君が講義を抜けたのが今の時間の原因だろう」
「う、返す言葉もございません……」
「ははは」

 ――そうして作業に戻ってからさらに数時間後、研究室から解放されたときにはさすがに身体がばきばきと嫌な音を立てるようになっていた。が、すっぽかした講義が帳消しになるうえに人生相談にも乗ってもらったお代と思えば安いものだろう。
 別れ際に教授に何度も頭を下げれば、「夏休みを楽しんで」と実に爽やかな笑顔で送り出してもらえた。……来年の研究室選択、ここは筆頭候補に入れておきたいところだ。


 さて、そんなこんなで時計の短針はとっくに六を指し示し、辺りも薄暗くなり始めた頃。
 馨は大学から帰る道すがら、久しく訪れていない雷門中へと立ち寄ってみた。
 ただ、以前のようにグラウンドまで入って皆と会話をするのではなく、門の傍から練習に勤しむ光景を眺めるだけに留めておく。そうするだけの明確な理由は無いけれど、まだ、今の自分のままでは皆と面と向かい合うわけにはいかないように思えたのだ。だからこっそり、練習風景を見させてもらうだけ。そういえば前にもこうしてストーカーじみたことをしていたな、と内心自嘲した。
 誰よりもまず目立つのは、ゴール前で人一倍声を張り上げているキャプテンの円堂。元々大きな声を、両手をメガホンに見立てることでさらに大きく響かせ、フィールドの中央付近で競り合っているチームメイトへいろんな声援を飛ばしている。声は真剣なのに、顔や雰囲気、仕種など、彼の表現するあらゆるものがどこまでも楽しそうだった。
 ――本当に、不思議な子だ。
 仲間を、そして自分自身を信じているからこその、底なしの明るさと前向きさ、安心感。あの帝国を完膚なきまでに叩きのめした、それこそ人智を超えた力を有するあの世宇子にだって、彼は臆することなく立ち向かっていくだろう。大丈夫、絶対に勝つ、そう強く言い切ってくれるだろう。そこに何の科学的根拠も無いのに、だ。
 そんなキャプテンに影響されて、雷門サッカー部は今まで以上の飛躍を見せる。可能性に上限は無い。彼らはどこまでも大きく成長していく。それが雷門の魅力なのだ。自分が再びサッカーに関わり出したのは、何よりもこのチームの可能性に興味を持ったからだった。
 障害を障害ともしない強さ、ひたむきさ、しなやかさ。
 あのとき、それまで信じようともしなかった“万が一”を感じられたのも、やはりこの場所だった。

「……ん?」

 若干センチメンタルになりかけていた思考が、ふと途切れる。

「これは……」

 一頻り皆の動きを見ていると、何だか所々で妙な引っ掛かりを覚えるのだ。観察を続ければ続ける程、ここまで感じてこなかった違和感を抱いた。
 個人個人の動作は問題無い。それどころか、以前見たときよりもさらに強化されているのが一目見ただけで判る。染岡のシュート、風丸のスピード、壁山のフィジカル――その他のメンバーも含めて全員、例のイナビカリ修練場とやらで相当揉まれたらしい。個々の選手としても相当磨きがかかっていた。
 だが、問題は――チームとしての、雷門サッカー部。
 端的に言えば、連携が崩れている。サッカーに於いて最も大事だと言えるであろう味方間のパスが、吃驚する程通っていないのだ。前の戦国伊賀島戦ではそんな兆しすら見えなかったというのに、ここへきてまさかのチームプレイの崩壊が起こってしまっている。
 その原因は、個々の動きをじっくり見たうえで考えれば歴然である。

「なるほど……そっか、ここには調整役がいないんだ」

 今もまさに半田から宍戸へのパスが通らず、宍戸の方が何やら文句らしいことを言っている。「強すぎだよ」という言葉と、それに対して半田が「おかしいなぁ」なんて首を傾げる様子を見れば、馨はもどかしさについ服の裾を握り込んだ。
 数ヶ月前にコーチをした(よしみ)として、ここで颯爽と登場してあれこれ指示を下してはどうか――ふと浮かんだそんな案を、首を振ることですぐに掻き消す。自分たちですら気付けていないチームの欠点に苛まれる皆には悪いが、馨とて自身の問題をしっかり解決しなければ手出しはできない。もう、中途半端なことはしたくないのだ。
 ――頑張れ。
 月並みでしかないそんな声援を送るだけ送り、馨はくるりとグラウンドへ背を向ける。背中に威勢の良い掛け声を受けながら、次なる目的地へと足を進めた。
 現在の練習に“彼”がいないということは、恐らく明日の試合からの参入になるのだろう。それがチームに齎す影響を、今から会いに行くあの監督は馨の考えていた以上にしっかりと予定に組み込んでいるらしい。前々から思っていたことだが、現役が四十年前といってもなかなかに侮れない人物である。
 豪炎寺以降新たな新入部員のいないまま、すっかり現状に慣れきった雷門サッカー部。
 そうして、チーム全体へ大きな変化の無いままに各々が大きく成長した結果、あのような、これまでのプレーでは繋がりがつくれないという歪みが生じてしまった。誰も気付けていないあたり、皆は現状を顧みて情報を擦り合わせるということもしていないのかもしれない。そこに目をつけられるだけのブレインがいない、とも言えるだろう。これはなかなかの問題点だ。
 試合直前の今ですら直せていないとなれば、あとは試合中に“彼”――鬼道が直接修正するしか方法がない。そして鬼道の力量があれば、それはきっと可能である。
 故に、彼の存在は雷門サッカー部に於いて絶対的な力となる。
 だが、突然現れた台風の目にチームは上手く対応できるのだろうか――いや、対応できなければ彼らの勝機は見出せない。

「一種の賭けでもありますよね、今回の試合は」
「鬼道の方は自信満々のようだったがな」

 暖簾をくぐってすぐにカウンターへ座れば、雷雷軒店主兼雷門サッカー部監督――響木は、計ったかのようなタイミングで馨の前へお冷を差し出した。
 響木の話によれば、馨の来る一時間程前にここへ鬼道が来ていたらしい。そこで現在のチームが抱える問題を話してみれば『十分で充分だ』と大したことを堂々と言い切ったとのことだ。さすが『天才ゲームメーカー』と称される少年は伊達では無い。
 馨は話が終わると同時に叉焼麺を注文し、くっと水を煽った。

「イナビカリ修練場、でしたっけ。あれの影響は凄まじいですね」
「元の素材が全く手付かずの状態だったからな、仕方ない。いつかはこうなると思っていたさ」

 氷を一つ口に含んだ馨の目の前に、叉焼の端の部分が小皿に盛られて出される。サービスだと言われたそれを嬉しそうにつつく馨を尻目に、響木は調理の準備をしつつ話を続けた。

「オマエも、選手のプレーの修正ができると奴らから話に聞いているぞ。それは本当か?」
「あー、そうですね、修正というか調整というか……昔からやってることなので、慣れてます」
「なるほどな、さすが“コーチ”というわけだ」

 にやりとどこか挑戦的に笑う響木。
 馨は「そんなすごいもんでもないですよ」と謙遜して肩を竦めた。

「ただ、あれを完璧に繋げるようになったらいよいよ雷門サッカー部も全国クラスですね」
「そうだろう。だからこそ、今回のタイミングでのアイツの加入は雷門(ウチ)にとって最早天恵みたいなもんだ。……勿論、素直に両手を挙げて喜んで良いものとは思っていないがな」
「大丈夫です、その点に関してはきちんと割り切れていますから」

 確かに悲しかった、辛かった、悔しかった。
 でも、あの試合の結果やそれによって引き起こされた悲劇を、いつまでもうじうじと嘆き続けるつもりはない――馨は毅然とした眼差しで響木を見つめる。それを受けた響木は、少し安堵したように両肩の力を抜いた。

「アイツは……鬼道は、円堂たちと共に世宇子を倒すつもりでいる。先へ進もうとしているんだ。だったら手助けしてもらわない手はないだろう」
「確かに、そうですね」
「……鬼瓦さんが心配していたぞ」

 響木の声音が少しだけ低くなった。
 最後の叉焼を口に入れてカチャリと箸を置く馨。瞬く間に空になった小皿を隅へ押しやり、微かに苦笑いする。

「鬼瓦さんが、ですか」
「あぁ。過去に何があったのかは解らないが、このままオマエが歩む足を止めてしまうんじゃないか、ってな」

 馨の脳裏に、帝国学園前で鬼瓦と出会したときの記憶が引っ張り出される。
 あのときは精神的にもぼろぼろだったので、彼には心配をかけるようなことばかり口走っていたかもしれない。いや、実際口走っていた。自分はサッカーに関わるべきではなかったと、そう言ったのを確かに覚えている。今更だが、それを後悔した。

「……正直、まだ怖いです」

 呟けば、包丁を動かしていた響木の手が止まる。馨は構わずに先を紡いだ。

「肌で感じた世宇子の強さは、それこそこの世のものではないと思えるくらいで……雷門の子たちで敵うのか、今でも心配ですよ。帝国みたいに立ち上がれなくなる程痛めつけられて、傷付けられて、惨めな敗北を味わわせられるかもしれないって思うと、彼らの出場を取り止めてしまいたくもなります」

 それだけではない――世宇子の強さに圧倒され、付き纏うあの男の影に縛り付けられ、自分がいる限り少年らは傷付く一方なのではないかと思えてならなかった。過去の再来とばかりに繰り返された悲劇は、確実に己の心を蝕んでいた。あんな恐ろしい光景を目の当たりにして、自分さえいなければ、そう思わずにはいられなかったのだ。
 けれども、鬼道のおかげで目の前の闇を振り払うことができた。その向こうにあるものと、改めて向き合うことが出来た。迷いを捨てた鬼道が進む先にある一つの光源へ、もう一回手を伸ばそうという気になれた。
 その光源とは、つまり。

「それでも、円堂くんは『絶対に勝つ』って言ってくれた」

 言われたときは信じきれなかった、真っ直ぐな約束。

「これまでずっと、私は彼や雷門サッカー部に根拠の無い安心感や期待を抱いてきました。皆には、そう思わせられるような未知の可能性が秘められていると思って、見守ってきました。鬼道くんも、それを感じたからこそ移籍を決定したと思うんです」

 今からでも遅くはない。間違ってはいない。だから。

「だから私は、ひたすら……皆を信じるだけです」

 彼らが、自分の中に巣食う闇を綺麗に晴らしてくれるのではないかと――信じることにした。

「……そうか」

 馨と響木の二人しかいない空間では、馨の宣言は長いことそこへ留まっていた。それを漸く受容した響木は普段よりも少しばかり穏やかな顔つきで相槌を打ち、やがて思い出したように包丁の動きを再開させた。
 調理音しかしない空白の時間が舞い戻る。トントンとまな板の上で千切りにされているのはキャベツなのだろう。今まさに世紀の大告白でもしたような心境にあった馨は、カウンターの向こう側で進められている調理を想像しつつ、また氷を一つ口に入れた。篭った熱が早く逃げれば良いのにと思いながら、舌の上で何度もそれを転がした。
 それから数分経ち、馨のもとへ美味しそうに湯気をたてるラーメンが届けられた。「ほらよ」といういつも通りの無愛想な台詞付きで。
 そこで、ここまでのだんまりが嘘のようにテンションを上げた馨は、小皿に置いていた箸を手に取ると早速食べ始めた。音は立てずに麺を啜り上げ、咀嚼し、飲み込む。今やすっかり満面の笑みだ。

「相変わらず響木さんのラーメン、美味しい!」
「当然だ、何せ俺が作ってるんだからな」
「自信家も納得の味です」

 ころころ笑っては心底美味しそうに麺を啜る馨を、響木はどこか慈愛の込められた目で見ている。調理器具を粗方洗い終えてから、まだ半分程残している彼女を前にカウンターへ肘を置いた。サングラス越しの眼差しは、ラーメンを食すのに夢中になって伏せられている両の瞳へ定められる。

「オマエはやっぱり篠宮……母さんにそっくりだな。姿だけでなく、中身まで」
「うっ、ケホッ……え?」

 お母さん? と顔を上げたところへこくりと首肯して見せる響木。前触れの無い話題のせいで軽く噎せた馨は、グラスに手を掛けつつ話の続きを促した。

「アイツもな、信じることが専売特許みたいな奴だったよ。だからと言って何でもかんでも無闇に信じるってわけじゃなくて、アイツなりに感じることがあれば、余計な言葉は掛けずにそっと背中を押すような感じでな……まぁ平たく言えば、優しい奴だった」

 丸いサングラスのせいではっきりとは判らないが、彼は遠い昔を懐かしむ顔をしている。そこに蘇っている思い出は、さぞや楽しいものなのだろう。あの事故以降、円堂たちと出会うまではやる気どころかサッカーへの情熱すら失っていたと聞いていたので、馨は内心で少し安堵した。
 四十年前、伝説のイナズマイレブンとして武勇を轟かせた響木たち。母はそのチームでマネージャーをしていたと、以前鬼瓦から聞いたことを思い出す。影山とも親しくしていたとのことだが、しかし聞いた情報はそこまでだった。曲がりなりにも娘なのに、馨は余りにも自分の母の若い頃を知らなさすぎていた。
 麺を伸ばして息を吹きかける合間に、浮かんだ疑問を素直に問うてみる。

「母は、イナズマイレブンでマネージャーをしていたんですよね」
「あぁ。生憎そこまでサッカーは上手くなかったから、オマエのように直接練習に口出ししたりはしなかったがな。その分、マネージャーとして大いに世話になったもんだ。篠宮から話を聞いたことはないのか?」
「親子でそんなに会話する時間も無かったので」

「仕方ないんですけど」と肩を竦めれば、申し訳なさそうに眉を下げられた。

「忙しそうだからな、篠宮も。元気にしてるか?」
「おかげさまで、今もばりばり仕事してるみたいですよ。前に連絡したときはスリランカにいるとか何とか言ってました」
「仕事は確か、ジャーナリストだったか」
「はい、父とお揃いなんです。ただ、仕事自体は別々にやってるようですけども」
「そうか、まぁ元気なら良いんだ。俺たちがサッカーを辞めると同時にアイツもマネージャーを辞めたのは知っているが、そこから定期的に連絡を取り合うということをしなくなったからな」

 寂しげに語られる中、馨はふと思い立つ。
 そうだ。響木たちと同年代なのだから、母もあの事故、イナズマイレブンを崩壊にまで追い込んだあのバス事故に巻き込まれていることになる。けれどもそんな話は聞いていないし、特にサッカーをすることに対しての不満も感じさせなかったので、もしかすると響木たち程ショックを受けたわけでもないのかもしれない。
 だが、それなら何故、事故のタイミングでマネージャーを辞めてしまったのだろう? ――新しく一面を知れば、また別の疑問が湧いてくる。今まで普通の母親だと思っていたのに、その裏側、そこには娘も知らない彼女だけの人生があるのだと感じられ、奇妙な感覚が背筋を伝った。知りたいような、知りたくないような、本当に奇妙な感覚だった。

「響木さんは、もしかして初対面で私が母の娘だって気付いてました?」
「さすがに断定まではしなかったが、面影があったからもしやとは思っていた。名前を聞いて初めて判明したってところだな」
「名前? 私の名前は元々知ってたんですか?」

 連絡を取り合っていなかったのならそんなもの知っているはずもない、と思って首を捻る。響木はカウンターで頬杖をついた。

「あぁ、もう十年以上前のことだが……本当に偶然な、商店街で篠宮と会ったことがあるんだ、一度だけ。そのときに結婚したことと、子どもがいること――『馨』という名前の娘がいることを、教えてもらった」
「それをずっと覚えててくれたと」
「はは、残念だがその顔を見るまですっかり忘れ去っていたよ。オマエが初めて来店してその顔を見たとき、そういえば、と思い出したんだ」

 響木は、今度は馨がこの雷雷軒に初来店したときのことを思い返しているようだった。馨も同様に振り返ってみる。といっても、そこには何も特別なことなどなかった。高校時代、学校帰りに複数の友人たちと連れ立ってやって来たのが始まりだったが、あのときは響木と会話など交わさなかった覚えがある。
 まともに話すようになったのは確か、大学生になってから頻繁に通い始めた頃だった。ほぼお一人様だったので、専らカウンター席に座っていたのがきっかけだったのだろう。最初は他愛も無い雑談から入り、いろんな話を交えつつ、そのうち自然と名前を訊かれたので名乗った。当時の馨は特に考えもなくさらっと名を告げたけれど、そこにはかなり大きな意味があったようだ。
 今の響木の話からするに、彼は馨の初来店時からずっと、名前の確認をするタイミングを見計らっていたのかもしれない。そう思うと、何だかちょっと可愛く感じられる気がする。突然くすりと微笑する馨を、響木はやや怪訝そうに眺めていた。

「ちなみに、父のことは何か?」
「いいや、全く知らない相手だ。少なくとも、俺たちの同級生に江波という苗字の男はいなかった」
「へぇー、じゃあ高校以降の出会いなのかな。二人の馴れ初めとかも全然聞いてないので知らないんですよ」

 自分でもドライすぎると思えるくらい、あっけらかんと言い放つ。先程は同情の眼差しを送っていた響木も、馨本人がここまで気にしてなさげにしているからか、とうとう「いろんな意味ですごい家族だな」と苦笑いをするまでになった。

「そういえば――」

 ――母と影山が親しくしていたらしいですが、響木さんは何か知っていますか?
 完全に流れのままにそう口にしようとした問いは、しかし寸前になって喉に引っかかって出てこなくなる。
 何故だろう。気になることには違いないのだからいっそついでとばかりに訊いてしまえば良いのに、どうも何かがそれを堰き止めている。自分でもよく解らない、何かが。

「何だ?」
「いや、何でもないです」

 結局、それを問うことはしなかった。いつか話に聞く機会があるだろうと先送りにして、ここではさっぱり忘れてしまうことにした。あの男の話をして空気を乱したくないと、そういう防衛本能が働いたのかもしれない。きっとそうだ。
 母の世代の話も気になるけれど、あまりだらだら話してばかりいると麺が伸びてしまう。せっかくの響木のラーメンなのだから美味しいうちに食べてしまおうと、それ以降馨は響木の雑談をBGMにし、食べることに専念した。黙ってしまえば、完食するのに然程時間はかからなかった。

「ご馳走様でした。これ、代金です」
「お粗末様」

 パチンと律儀に手を合わせ、財布から小銭を取り出して響木へ手渡す。彼は受け取った後、わざわざ確認することもなくお金をレジへ仕舞い込んだ。

「また来いよ。近いうちに新作メニューを作る予定だからな」

 上着を羽織って鞄を抱える馨を、腰に手を当てて見送る響木。ふらふらと手を振って見せる馨が、ドアを開けて暖簾の向こうへ出て行こうというとき、不意に一際声を大きくしてその背を呼び止めた。

「明日の千羽山戦、必ず観に来いよ」

 思わず止まる足。
 振り返らぬまま立ち止まっていると、さらに低音は続けられた。

「そこで、本当にアイツらを信じているだけ、それだけで良いのかを……もう一度考えてみると良い」
「……」

 ――信じる、ただそれだけ。
 響木の言葉が内側で反響し、波紋を広げるのが解る。
 伝えたいことの意味は痛い程理解できた。響木が自分に望むことも、それを決して強制させているわけではないことも、自分には選ぶ権利が与えられていることも。
 答えは多分、八割方決まっている。
 それを自分の中で確実なものにするのが、明日の試合なのだ。

「さよなら、また来ますね」

 端的な別れの挨拶だけを返し、馨はこれで話は終わりだと思い再び右足を踏み出そうとした。
 ――のだが。

「あぁすまん、あとな、明日ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだ」
「……はい?」

 その台詞には、さすがに振り向き直さざるを得なかった。




 |  |  |