境界線を越えた先


「――そんなことないさ!」

 夕焼けに染まる商店街の路地に、円堂の切迫した声が響く。
 その原因となる発言をした本人は、振り向いた円堂たちから数歩遅れたところで足を止め、もう一度同じことを口にした。

「いや、あの三兄弟の言う通りだ……理由はどうあれ、オレはチームメイトを裏切った。木戸川の皆に恨まれて当然だ」
「豪炎寺……」

 真顔で、淡々と、事実を事実として受け止めるような物言い。悲しい顔も苦しい顔も見せない彼の端然とした態度が、逆に周りの人間には痛々しく映ってしまう。鬼道も気遣わしげにしており、その横にいる馨は静かな声で問いかけた。

「豪炎寺くん、本気で言ってるの?」
「あぁ」

 間を置かずして返ってきた短い答えも、やはり彼の中で全てに諦めをつけていることを物語っている。馨はそれっきり何も言わず、豪炎寺の動かぬ柳眉をじっと見つめた。
 その代わりに反論したのは円堂だった。

「そんなことないって! オマエはサッカーから逃げたわけじゃない、だから恨まれる理由なんて無いんだ! そうだろ、豪炎寺!」
「円堂……」

 そうして強く否定してくれる円堂の語調に、呑まれ気味となった豪炎寺はやや目を瞠った。
 傍で聞いている鬼道と馨も、少し先を歩いていた風丸と宍戸も、皆が円堂の言葉に同意するようにしてそこに立ち、豪炎寺のことを見ている。オマエは悪くない、恨まれる理由なんて無い、だからそんなことを言うな。言葉にならない思いは、確かに豪炎寺へと届いたはずだった。
 やがて、ふと目を伏せた豪炎寺。夕焼けの暗い茜が六人をそっと包み込み、センチメンタルな沈黙を齎す。遠くの方から自転車のベルらしいチリンチリンという気の抜ける音が聴こえてきた。
 そんな中、一番に気を取り直した馨はパチンと両手を叩き、皆の注意を引いた。

「よし、ラーメン食べに行こうか!」

 こんな場所で考え込んでいたって道は拓けない、腹が減っては何とやらだ――我ながら安直な方法ではあるが、真っ先に思いついたのがそれだったのだから仕方ない。空腹に美味しい物を収めれば、きっと今よりマシな空気になるであろう。
「賛成!」とはしゃぐ円堂に続き、豪炎寺も含めた全員がその提案を受け入れたことにより、一同は早速行きつけのあの店へと進路を変更した。


「大将、やってるー?」

 なんてね、と冗談めかして扉を開けると、響木が「無駄に似合うぞ」と冗談だか皮肉だか曖昧な返しと共にグラスへ水を注ぎ始めた。
 ぞろぞろ入ってくる少年たちが空いている席――全席空っぽだったが――に座り、水が全員に行き渡いたところで各々食べたいものを注文する。醤油だったり豚骨だったりと味は違うが、皆同じくラーメンを選んでいた。

「江波、オマエはどれにするんだ」
「んーと、じゃあ餃子でお願いします。あ、何かお手伝いしましょうか?」

 半分は冗談のつもりで言ったのだが、響木は「そうだな」と言ってにやりと笑い、どこからか紺色のバンダナを取り出してきた。

「たまには良いかもしれないな。花嫁修業にもなるだろう」
「ラーメン作る花嫁って何ですかそれ」

 どうせバカを言えと一蹴されると思っていたのに、今日の響木はやけに乗り気だった。
 自分が言い出したことなので当然「やっぱりやめておきます」とも言えず、馨は投げて寄越されたバンダナを受け取り、裏を通って調理場の方へと立ち入る。これまで一度も入ったことはない場所なのだが、いつも食べるときに見ているからかあまり特別な感じはしない。ただ、調理場の中から見る光景は新鮮で、何だか本当にラーメン屋の店員にでもなったように感じて気分が乗ってくるから不思議だった。
 念入りに手を洗ってから、響木に倣って腕を捲り前掛けをつける。その様子を見ていた五人が「おぉ」と興味関心の入り混じった歓声をあげた。

「コーチのラーメンかぁ」
「超レアじゃないっすか」
「まぁ安心して任せたまえよ」

 頭にバンダナを巻きながら胸を張る。
 が、間髪入れず響木が俎板の上に置いてあるキャベツ一玉を指差した。

「オマエはキャベツをひたすら千切りにするだけの仕事だぞ」
「……ですよねー」

 漫才のようなやり取りが可笑しくて、カウンターに座っている宍戸と風丸が控えめながら肩を揺らした。
 そこから暫くは、他愛も無い雑談や他校の試合の様子なんかの話が主立っていた。
 馨もキャベツを刻みながら合間合間に口を挟むが、その度に響木に手の動きが遅いだのなんだのと注意をされた。別にラーメン屋になるつもりなんてないのだから良いじゃないか。そう文句を垂れつつ包丁を動かすスピードを上げると、手元を覗き込んでいた風丸に「案外向いてるんじゃないんですか」などと言われてしまった。

「最悪、嫁の貰い手がなければ響木さんのところに嫁入りしてラーメン道を極めようかな」

 切り分けたキャベツを容器へ移しながら言うと、今まさに麺を上げたところである響木はそれを一笑に付して切り捨てた。

「何を言う江波、俺にも選ぶ権利はあるんだぞ」
「それどういう意味ですか響木さん、私じゃ不足だって言うんですか? こんなに健気にキャベツ切ってるのに?」
「あと三ミリ細かく切れるようになってから出直してくるんだな」
「酷いっ! そんな人だなんて思いませんでした!」

 よよよ、と下手な女優のような泣き真似をしていると、続いて横から「これを上手く切れたら考えてやるよ」という台詞と共に小松菜を渡されたので、馨は噴き出すのを堪えつつザクザクと包丁を入れ始めた。
 そんないい年した大人同士の三文芝居でも、提供の待ち時間の程良い余興くらいにはなったようだ。さっきから笑いっぱなしの風丸が、頬杖をつきながら楽しそうに言う。

「コーチと監督の結婚式には呼んでくださいね」
「だったらウエディングケーキはサッカーボール型がいいなー」
「それはオマエの希望だろう」

 いつ如何なるときでも失われない円堂節に対して入った鬼道のツッコミで、店内に一際賑やかな笑い声が響き渡った。
 そうこうしているうちに料理が全て仕上がり、残りの洗い物は響木に任せることとなったので、馨もバイトを終えてそそくさと客席へ戻る。テーブル席に腰掛けていた豪炎寺の向かいへ着席すると、それを見計らったようなタイミングで、話題は最も重要なあのことに移り変わった。

「問題は、あのパワーとスピードをどう阻止するかだ」

 円堂の《爆裂パンチ》をいとも容易く破った、武方三兄弟のあのシュート技。

「《トライアングルZ》か」
「あんなスゴイ技、見た事無いですよ」

 カウンター席の二人もテーブル席を振り向いて会話に参加する。シュートの威力を反芻してか、宍戸の声は不安に揺れていた。

「今まで対戦した中でも最強のシュートじゃないか?」
「ああ……単純なパワーの比較なら、帝国の《デスゾーン》より上かもしれない」

 鬼道の視線がちらりと馨を捉えたので、馨も餃子を掴もうとする箸を止めた。

「《デスゾーン》はミドルレンジからも撃てる技だけど、あの《トライアングルZ》は完全に爆発力重視の近距離型シュートだから、その分威力も強い。使用者が三つ子っていうのも大きいだろうね。息の合い方が並みの選手レベルじゃなかったし」
「うーん」

 冷静な分析を聞いて暗い顔をする一同の脳裏には、初めて帝国の《デスゾーン》を見たときのことが思い出されているのだろう。
 帝国屈指のFWを二人入れたあの技の威力も強大だったが、確かに馨が見る限りでも《トライアングルZ》のパワーはそれをさらに上回っていた。ペナルティエリア内から放たれるシュートはDFのブロックが間に合うかも危ういため、止めるのはきっと難儀なことだ。
 仲間が揃いも揃って頭を抱えている一方、当事者の円堂自身はからりとした態度で周りを見渡した。さっきまでは随分と考え込んでいるようだったのに、今は全く悩みを感じさせない。

「大丈夫! 今日は初めてだったから驚いただけさ。試合では絶対に止めてみせる!」
「本当にできるのか?」
「根拠は?」

 風丸と鬼道が訝しげに問うと、彼は堂々として一言。

「死に物狂いで練習する!」

 その瞬間、まるでコントのように宍戸がカウンターから転げ落ちた。その隣では風丸ががっくりと肩を落としているし、鬼道も引き攣った苦笑いをしている。散々な反応の仕方であった。
 あまりに単純かつ明快な彼なりの根拠にずっこける気持ちは解らなくもないが、ただ、円堂の言ったことは強ち的外れでもない。餃子を平らげ、続いてお手伝いのサービスとして頂いた叉焼をつついていた馨は箸を置き、崩していた体勢をしゃきりと正した。

「ま、結局そこが原点だよね。うだうだ考えてるだけじゃ何も始まらないし」
「あぁ、そうだな」

 洗い物を終えた響木が頷いて同意する。皆の視線が監督へと集中した。

「サッカーの中で絶対に嘘をつかないものが一つだけある。何だと思う? ……練習だ。練習で得たものしか試合には出てこない」

 どんなに才能があったって、練習をすることでそれを自在に引き出せるようにしなければ意味が無く、ただの宝の持ち腐れとなって終わってしまう。練習をして積み重ねてきたものを遺憾無く発揮する場所、それが試合である。普段から円堂が口癖のように言っている『練習』『特訓』は、彼らがサッカーをして勝つために最も重要な要素なのだ。
 他でも無い監督からの至言に、鬼道が感服したように口を開く。

「確かに、それは正論ですね」
「響木さん、カッコ良いこと言うじゃないですか」

 監督らしく締めた響木に目配せすると、白い髭の中で唇が弧を描いたのが判った。

「よーし、明日から特訓だー!」
「おーう!」

 ますます燃える円堂に影響された他のメンバーもすっかりやる気に満ちており、店内の体感温度が二度程上昇したような気さえする。
 やはり暗いのは嫌だ、雷門はこうでなくては――ぐいっと水を飲み干した馨は機嫌良く懐から財布を取り出し、皆が見ていない隙に響木へ五千円札を手渡した。「オマエもカッコ良いことするじゃないか」と言う響木には、少し気取った笑顔を返しておいた。


* * * * *


「じゃあ皆、気を付けて帰るんだよ」
「ごちそうさまでした!」
「また明日!」
「江波さんも気を付けてくださいね」
「じゃあなー!」

 雷雷軒を出てからは病院へ行く予定だったので、商店街の入り口で円堂たちと別れた馨。ところが豪炎寺だけは何故かその場から動かずにいるので、小さく首を傾げた。

「あれ、豪炎寺くんも家はあっちじゃなかったっけ?」
「そうだが、この後寄るところがあるんだ」
「寄るところ……あ」

 それ以上言われなくても彼の目的地は察することができた。無駄な言葉は必要ないなと思い、簡単な相槌を打って病院への道を歩みだす。豪炎寺も特に何か言うことなく、その隣に肩を並べて歩いていた。

「帝国の奴らはどうなんだ?」
「うん、殆どの子たちはもう退院できたよ。少し怪我が大きかった二人はまだ入院してるけど、順調に回復できてるみたいだから大丈夫」
「そうか、良かったな。そういえば前に、叔父も入院していると言っていたが」
「おかげさまで、そっちももうほぼ治りきってるみたい。退院したら会う頻度が減るって言って嘆いてたよ」
「そんなに会っていなかったのか? あの病院に入院しているなら家はそんなに遠くないと思うんだが」
「お互い……というか私が何かと慌ただしくて、なかなか機会がつくれなくてね。叔父の入院が決まった日が、確か半年かそれ以上振りの再会だったかなぁ」
「ふっ、それは確かに嘆きたくもなるかもな。もっと会いに行ってあげたらどうなんだ」
「そうだね、善処します」

 豪炎寺の声音は淡白だが優しい。症状やその重さは違えど、大切な人を見舞う者同士解り合うところがあるのだろうか――取り留めの無い話を交わしながら、馨は時折横目で、夕日に浮かび上がる豪炎寺の輪郭を見つめていた。
 病院に到着してからは、お互い訪ねる階が違うのでエレベーター内で一旦お別れとなった。馨は豪炎寺の妹がどこに眠っているのかを知らない。気になったことはあるが、わざわざ調べるまでとはいかなかった。
 佐久間と源田は、双方の怪我がだいぶ治ってきたため相部屋に移ることが決まったそうだ。これで一度に見舞いができて楽だと喜ぶ馨にツッコミを入れる辺り、二人はもう怪我さえなければ以前と何ら変わりはなくなっている。普通に喋り、普通に笑い、普通にサッカーを語れる。それがどれだけ幸せなことなのか、今も尚目覚めぬ妹を見守る豪炎寺を思うと、改めてしみじみと噛み締めずにはいられなかった。
 さらに、叔父の方からは来週退院することになったという報告があり、馨を心底安心させた。これであとは佐久間たちが無事に退院すれば、もう用が無い限りここに頻繁に通うこともない。嬉しいことなのに、窓から見える夕暮れが不思議と寂寥感にも似たな気持ちを連れてくるようだった。
 叔父の病室をあとにし、帰りは階段を使うことにしてリズミカルに段差を下りていく。
 そして二階の通路に差しかかったとき、偶然にしてはできすぎなタイミングで彼と再会した。

「馨、まだいたのか」
「うん、帝国の子たちのお見舞いもしてたから」

 驚きを潜めて切り返す。馨と同じく少し吃驚している豪炎寺の手には、何も挿していない花瓶が大切そうに持たれていた。(けだ)し、水を入れ替えにいっていたのだろう。彼からは微かだが花の香りがする。

「来るか?」
「え?」

 唐突な誘いに、つい間抜けた声を出してしまった。豪炎寺は笑いはしなかったが、全体的にリラックスした様子で馨について来るよう促した。その行き先が解らぬ程、馨はバカではない。

「良いの? 私が、会っても」
「ダメな理由は無いだろう。それにきっと、夕香も喜ぶ」
「夕香ちゃん……」

 その名を紡ぐときの表情には、見ただけで感ずる程にありったけの慈愛が込められていた。こんなにも優しい顔ができるのかと思わずにはいられないくらいで、同時に、確かに彼は兄なのだとも感じられた。
 連れて来てもらったのは普通の一般病室で、名前プレートには『豪炎寺夕香』とだけ記されている。ガラリとドアを開けて入る豪炎寺に続き、馨も「お邪魔します」と呟きながら入室した。
 ――そして、そこに広がる光景に一瞬、言葉を詰まらせた。

「……この子が」
「あぁ、俺の妹の夕香だ」

 清潔な純白のベッドに横たわる身を覆う布団やシーツには、一切の皺も汚れも存在しない。酸素マスクをつけて穏やかに目を閉じる小さな身体は、本当にただ眠っているだけとしか思えない程安らかである。
 豪炎寺は、既に置いてある椅子の隣にもう一つの椅子を出して馨に勧めてから、部屋の隅にあった花束を花瓶に挿し直した。一本一本を丁寧に動かして、全ての花が夕香の位置からでも見えるようにしている。その背中に熱く込み上げるものを感じ、馨は自然な動作で目を逸らすと、音を立てずに椅子へと腰掛けた。
 豪炎寺が座るまで、空間に声は無かった。言うべき言葉が解らないし、果たして何か声を掛けるべきなのかも解らない。微動だにしない、小さく愛らしい顔を眺めているだけ。すぐ傍でカタリと音が鳴るまで、馨は自身の両手が膝の上で固く握られていることにすら気付かなかった。

「可愛いだろう。まだ小学生なんだ」
「本当に、すごく可愛いよ。何となく顔立ちが豪炎寺くんに似てるね」
「兄妹だからな」

 妹の前だからか、普段よりもずっと饒舌であたたかな雰囲気の豪炎寺。少し身を乗り出し、夕香に向かい優しく笑いかける。

「夕香、この人はお兄ちゃんのチームでコーチをしているんだ」
「江波馨です。よろしくね、夕香ちゃん」

 同じく顔を近付けて挨拶をすれば、ありがたそうな眼差しでこちらを見つめられた。
 豪炎寺が話しかけても夕香は何の反応もしない。目も開けない、笑いもしない、返事もしない。ずっと眠ったままだ。もしかすると、彼はいつもここに来る度に、こうして声を聞かせていたのかもしれない。今は答えぬ妹がいつか目覚めるときを待って、何度も何度も、飽くことなく語り続けていたのかもしれない――考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
 意識せずとも、悲しさが馨の表情に出てきてしまっていたのか。豪炎寺が口を結んで俯くと、温かだった空気は少し冷たさを帯びて二人の間に流れ込んできた。

「……知っていると思うが、夕香は去年の大会決勝……ちょうどこのくらいの時期に、オレの出る試合を見に来る途中で事故に遭った」
「うん……」

 話を聞く途中で、不意に以前鬼瓦と交わした会話が蘇るが、無理矢理封じ込んで次の言葉を待つ。

「オレのせいで夕香はこんな目に遭ってしまった。だからオレは、もう二度とサッカーをやりはしないと誓ったんだ」

「オレがサッカーをしていなければ……」と途中で言葉を切った豪炎寺に、馨の心臓が一つ大きく鼓動を打った。高鳴ったのは心臓だけではない。君のせいではない、きっと夕香ちゃんはそんなこと望んではいなかった――胸中に湧いて出た台詞も、渦巻く思いに攫われて奥深くへと沈んでいった。
 一度はサッカーを辞めると決めた豪炎寺が、では何故今、再びその足でグラウンドを駆け抜けているのか。そこからは馨もよく知っている。円堂守という名の太陽が、鬼道のときとはまた少し違う明るさで、彼をここまで引っ張ってきたのだ。いや、ある程度引っ張ってからはドンと大きく背中を押したと言うべきなのだろう。一歩踏み出してから後は、全て豪炎寺自身の足で歩いてきたはずなのだから。

「……豪炎寺くんがもう一度フィールドに戻ってきてくれて、良かった」

 言いたいことはたくさんあったはずなのに、結局口にできたのはそんな率直な思いであった。

「外から見てるとね、よく判るんだよ。フィールドでサッカーをしている豪炎寺くんがどれだけ輝いてて、どれだけサッカーが好きなのかってことが、すごくよく判る。君がシュートを撃つたびに目を奪われるし、感動するんだ」

 朗々と語る馨のことを、豪炎寺は少し驚いたような顔をして眺めている。こうして直接言葉にして伝えたことは無かったけれど、今言ったことを、馨はいつも彼のサッカーをする姿を見るたびに感じていたのだ。嘘でも慰めでも何でもない、本心だった。

「きっと、夕香ちゃんもそうなんだろうね。そんなお兄ちゃんが、大好きなんだろうね」
「そう……であってほしいな」

 そう言って綻ぶように微笑する豪炎寺の眼差しが、馨からゆっくりと夕香に移る。兄として、一人のサッカー選手として、彼が愛するものを後悔の内に手離すことにならず、本当に良かったと。フィールド上で10番を背負う彼と今ここにいる彼とを重ね合わせれば、馨は心からそう思うことができた。
 部屋の窓は閉め切られているので、この時間帯に外から聞こえるであろう子どもたちの元気な声は全く届かない。代わりに、ここにあるのは神聖とすら思える程の清らかさと、どこか哀しさの含まれる静けさだけだった。

「木戸川を去るとき、何を言ったってオレが試合を放棄し逃げたことに変わらないと思ったんだ」

 ぽつぽつと、細かに動く唇は語る。過去を振り返り、同時に自分を縛り付ける口調で。

「オレが出なかったから、チームはいつも通り戦えず敗退した……これは紛れもない事実だ。あいつらもそれを恨んでいる。だから何も言わず、雷門へやって来た。傍から見れば、オレが裏切り者であることに違いは無いんだ」
「後悔してるの? あのとき、ちゃんと言っておけば良かったって」
「……解らない」
「そう」

 自分で口にして、納得いかなかった。今日の河川敷での出来事を思い返せば尚更そうだ。あの三人は、豪炎寺がいなかったから決勝で負けたのだと主張している。果たしてそうだろうか。妹の事故がショックで決勝戦に出なかったことが彼の罪だということに、違和感、それどころか憤りを覚えざるを得なかった。
 背筋を伸ばせば椅子が軋んだ音を立てる。一心に夕香に注がれていた眼差しがぶれ、程無くして馨のそれと柔く交わった。

「でも、それって何か違うよね」
「違う?」
「違うよ。豪炎寺くん自身も、雷門に来て皆とサッカーして、感じたんじゃない? サッカーって誰か一人が欠けたらそこでおしまいになるようなものだっけ? 誰か一人に全責任を押し付けるようなものだっけ?」

 覗き込むようにして問えば、綺麗な黒い瞳が揺れるのが解る。馨はその瞳の中に自分が映っているのを確かに認めた。

「誰にだって、突然の出来事によって惑わされることがある。それによってチームの中に何かしらの溝ができたとしても、大事なのはその人を責めることじゃなくて、如何にして自分たちで溝を埋めるかだと……私は思う。去年の木戸川はきっと、君に傾倒しすぎてたんだ」
「馨……」
「あの三人は、間違ってる。間違った考え方で、豪炎寺くんのことを責めている。話し合う以前の問題だよ」

 ふと、以前尾刈斗との練習試合後に彼と話をしたときのことが思い起こされた。
 あのとき『サッカーはチームプレー』と言った馨に対し、豪炎寺は微かに瞳を曇らせたような気がしていた。どうやらあれは気のせいなんかではなかったようであるし、木戸川清修との問題に繋がっていたらしい。豪炎寺の中で“チームプレー”を揺るがせたのは、あの武方三兄弟だったのだろう。
 豪炎寺に傾倒し、豪炎寺の力ばかりに依存し、共に戦うという意識を持たなかった武方三兄弟。同じフィールドに立っている選手であるくせに、豪炎寺一人が抜けてしまっただけでそれを試合に負けた理由だと言い切るなんて、馨にはとても許容できる価値観ではない。そして、その誤った価値観を正す機会も正してくれる存在も得られぬまま、彼らはここまで来てしまった。そういう意味では、彼らだって可哀想な立場にいるのだ。
 昨年の彼は大会でも最注目の選手で、擁する木戸川は彼を中心に決勝まで駒を進めていて、相手が影山の統べる時代の帝国学園で、影山に要注意人物として目を付けられ、悲劇が起きて、本人も含め真実を伝える者がいなかった。様々な不運――という言葉だけで片付けられないだろうが――が重なり、今の武方たちとの確執へ繋がっている。
 ――もしもあのとき、あの言葉を言えていたら、あの思いを伝えていたら。
 そんなifを考えても過去は変えられない。過ぎ去った時間への仮定は、決して現実にはならない。
 だとしたら。

「勝とう、豪炎寺くん」

 過去が変えられぬのならば、未来を切り開くまでではないか。

「勝って、あの三兄弟をぎゃふんと言わせてやろう。それで、そのうえで本当のことを話そう。あれだけ言われちゃ、こっちも黙ってられないよ」

 あそこまで貶してくれたのだ、しっかりお返ししなければ気が済まない――勿論、試合の中で正々堂々と。
 馨が強く訴えかければ、豪炎寺は何か眩しいものでも見るかのように、仄かに目を細めた。

「そうだな。夕香にも、目が覚めるまでは絶対に負けないと約束してるんだ」
「なら尚更頑張らないと! 夕香ちゃん、必ず勝つから安心してね」

 ガッツポーズをつくり、夕香へ向けて強気に明言する馨。やはり夕香は眠ったままだが、気のせいだろうか、その寝顔からは兄へ向けての激励が感じられるように思える。

「……ありがとう、馨」

 やがて視界の外でそう囁く豪炎寺の声はどこまでも柔らかであり、ともすれば救われたようでもあった。




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