未だに着慣れないスーツを身に纏い、俺は今日も霊幻さんの仕事を手伝うために相談所へ足を運んでいた。しかし事務所の扉を少し開いたところで、室内から聞こえてきた女性の声に、俺の心臓が跳ね上がった。

「…ごめんなさい、変な事を言って。今日は失礼しますね!」

それは明るく大きく響く声だったけれど、所々が歪でゆがんでいるみたいに聞こえた。まるで今にも泣き出してしまいそうな。

俺は咄嗟にノブから手を離してしまい、当然ながらそのまま扉は目の前で重く閉ざされてまた外に閉め出される形となった。
しかし室内の徒ならない雰囲気に入室を躊躇っていると、目の前の扉が開いて○○さんが出て来た。
しかし彼女は俺に気づいていないのか、俯きながら俺の横をすり抜け、そのまま外に続く階段をかけ降りて行ってしまった。
俺は思わず見失わないようにとその背中を追いかけた。

相談所を飛び出した彼女は、ふらふらと力無い足取りで人気のない路地裏に入っていった。危ないなと思いながらその姿を見守る。彼女は路地の中程までたどり着くと、ピタリと足を止めて蹲るように小さな背中を丸くさせた。

「………う、…ぅ…っ…、」

光が差さない暗がりの中で嗚咽を溢す彼女の後ろ姿を、俺はただ見ていることしかできなかった。

涙の理由は既に分かっていた。
彼女に想い人がいるのは前々から知っていたし、それが誰なのかも。
俺はずっと彼女に恋をしていたから。

超能力以外では何の取り柄もなく明朗でもない俺は、彼女に好かれる要素なんて無いに等しい。
いや、好かれるどころか、きっと俺の存在さえ彼女にとっては然程大きくないのかもしれない。
実際に相談所で彼女に何回か話し掛けてもらった事があったが、俺はそれだけで緊張してしまってまともに会話を成立させることが出来なかった。
だから彼女への気持ちを自覚していても、彼女の気持ちが霊幻さんにある事を知っても、俺はいつだって見ていることしか出来なかった。

それでもいいと思っていた。
彼女の顔を見られるだけで幸せだった。声を掛けてもらえるだけで心が舞い上がった。
例えその視線の先に俺が映っていなくても。
そう思っていた矢先に先程の出来事だ。
自分から話掛ける事すら出来ないくせに、彼女が誰かのものになってしまうことが現実味を帯びて初めて怖くなった。嫌だ、と思った。
もしも彼女が誰かと付き合うことになっても、それでも俺は見ていることしか出来ないのだろうか。
なんて臆病で、滑稽なのだろう。

けれど、あの人は彼女の気持ちに応えなかった。

先程の光景と彼女の様子に嫌でも察しがついてしまう。
僅かでも嬉しさを感じなかったと言えば嘘になるが、そんな浮わついた感情は、彼女がひとりになったあとに流した涙によってあっという間に一緒に流されてしまった。
あの涙が、彼女の想いの強さだという事を思い知らされる。
頭から爪先まで、冷や水を浴びせられたような気持ちになった。

嗚咽の合間から、消えたい、と零れ落ちた音を俺は聞き逃せなかった。
小さな肩が、悲しげに震えている。
その弱々しさに、本当に消えてしまうのではないかという錯覚に陥ったのか。
俺はついに、声を掛けてしまった。

「…○○さん」

なるべく驚かせないように声を抑えて呼び掛けたが、彼女はびくりと肩を震わせて振り向いた。
いつも綺麗に化粧している顔は涙にまみれて、泣き続けた頬は赤く上気していた。
不謹慎にも、俺はその顔が綺麗だと思った。

「芹沢さん…」

彼女は目を丸くして俺を見ていたが、すぐに気まずそうに顔を歪めながら目をそらした。

「ごめんなさい…何でもないですから、今はひとりにしてください…」

泣き顔を見られたくないといったように顔を背け、彼女はハンカチで顔を押さえ付けていた。
明らかな拒絶だ。けれど俺は足が地面に張り付いてしまったかのように、その場から動くことが出来なかった。

彼女が消えたいと言った。
無意識に、下ろしていた手のひらが、拳をつくる。
俺なら、俺だったら。そう思わずにいられなかった。

気づけば、俺の足はまっすぐに彼女の方へ向かっていて、拒絶される恐れも忘れて彼女を両腕で包んでいた。自分の行動に驚く間もなく、そうしていた。
温かく、柔らかい感触に、彼女の確かな存在を感じて安堵する。

彼女は抵抗することなく、俺の腕の中でじっとしていた。

「…消えないでください」

もっと気の利いた言葉を掛けてあげたかったのに、俺はそんな事を口にしていた。
彼女はまた肩を震わせて、嗚咽を溢した。

彼女の手がすがり付いてくる。
背中に回した腕に力を込めた。

俺だったら、あなたをこんな風に泣かせたりしない。
俺だったら、あなたに消えたいなんて言わせたりしないのに。

超能力を持っていても、好きな人の涙を止めることすら出来ない。
きっと俺の言葉に、彼女を引き上げる力なんてないのだろう。
霊幻さんなら彼女を上手に慰められるだろうにと思ったら、ジリジリと身を焦がされるような気持ちになった。
彼女が恋い焦がれているのは、今目の前にいる俺ではなく、涙の原因をつくったあの人なのに。

俺はあの人にはなれないけれど、あなたに側にいて欲しい。
あなたの気持ちに目を向けなかったあの人ではなく、あなたしか見ていない俺に、気づいてほしい。
もう見ているだけなんて、出来ない。

「…俺じゃ、駄目ですか」
「………え?」

願いのような言葉を口にした。
身体を離し、彼女の両頬を掌で包む。
初めて間近で見るその顔に、情けなくも緊張で手が震える。
涙に満ちた彼女の瞳に俺の顔が映っている。
隠しておいた気持ちがほどけていく。

唇が、本当は、と紡いだ。

「ずっと、○○さんの事が好きでした」

心臓が暴れて、喉の奥がつっかえそうになりながら、顔が熱くてどうしようもない状態で発した俺の不格好な告白は、路地の闇に溶けていった。
急にこんな事を言って、気味悪がられるだろうか。
突然に突きつけられた告白に、彼女は呆気にとられたように俺の顔を見ていた。



エフェメラルと傍観者
(叶うならば彼女の心の片隅に、俺の存在が少しでも強く残りますようにと願ってやまなかった)



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