その日、霊とか相談所の主の元気がないと感じたのは、事務所に訪れて直ぐの事だった。
いつものように挨拶をして扉を開けば、窓際の机に座っていた霊幻は仕事用のパソコンを前にして腕を組み、ぼーっと空中に視線を彷徨わせて生返事。
それは一時的なものではなく、それからもどこか落ち着かない様子でそわそわしたり、かと思えば何か考え込むように頭を抱えていたり、明らかに挙動不審だった。
そして珍しく覇気がないというかキレがないように思うのは、モブも○○も感じていた。
そんな様子でも仕事となるとスイッチが切り替わるのか、そつなく依頼はこなしているようだった。
一段落ついた所で事務所の片隅で勉強会を開いていたモブと○○の背後から声が掛かる。

「予約分の客の依頼は終わったし、今日はもう閉めるぞー」
「え、珍しいですね。何かあったんですか?」

閉めるにしては随分早い時間だった。
急な霊幻の宣言に、○○は目を丸くしながら尋ねる。
霊幻は頭を掻きながら言いにくそうに言葉を寄越す。

「あー、いや、今晩俺は事務所に泊まるもんでな、いろいろ準備したいんだよ。ってことで今日は解散な」
「泊まるって、なにか急な仕事でも入ったんですか?」
「いや、今日は自宅には帰れねぇってだけだ」

ため息混じりに言うその様子は、珍しく深刻そうだ。
霊幻の言葉にモブと○○が疑問を浮かべていると、緑色の霊体がすっと霊幻の前にやってきてニヤニヤしながら問い掛けた。

「なんだ霊幻、家に誰かいるのか〜?」
「まあそんな所だな」
「女でも連れ込んでるのか?お前さんも隅に置けねぇな」
「はァ?何言ってんだ、ていうか中学生のいる前で変なこと言うんじゃねーよ」
「じゃあ悪霊か?まあこんな商売してたら、お前さんの所にも色んな方面から生霊の二、三体くらいは行ってるかもなぁ」
「うるせぇよ、いいからもう帰れ」

うんざりした様子で、霊幻はしっしっと手でエクボを払い除ける仕草をした。

「だってよ。行こうぜ〜シゲオ、○○ちゃん」
「え、でも……」
「本人もああ言ってる訳だし、放っておいていいんだって」

エクボは二人を促すが、○○は霊幻の様子がおかしい事が気になるらしく、躊躇してしまう。

「師匠、大丈夫なんですか?僕が行って祓いましょうか」

モブはエクボの言葉を無視して霊幻にそう申告したが、彼は笑顔を作り答える。

「俺一人でも対処できるから心配すんな。それにちゃんと仕掛けをしてきたから抜かりはない」
「仕掛け?結界か何かですか」
「まあそんなようなもんだな」
「すごい、さすがですね師匠」
「まあな、だから大丈夫だ。安心して帰れ」

その言葉を聞いて、モブと○○は安堵したようだった。
エクボだけがやれやれといった様子で三人を見ていた。

「じゃあ、僕達帰りますね」
「お疲れ様です」
「おー、お疲れ。気を付けて帰れよ」

事務所からの帰り道、○○とモブは並んで歩く。
他愛のない会話をして、駅でモブと別れてから○○は携帯を取り出そうと鞄の中を見て気づいてしまった。

「あ、……ペンケース忘れた」

あー、と落胆した声が零れる。
モブに勉強を教える為に事務所のテーブルに出し、そのまま仕舞い忘れてしまっていた事を今更に思い出す。
仕方なしに○○は元来た道を引き返した。

そういえば、霊幻さんは本当に大丈夫なのだろうか。と思い馳せる。

(私じゃ祓えないしなぁ)

モブは除霊の為に霊とか相談所に雇われた様だが、○○はといえば大学で民俗学を専攻しており、その中でも所謂オカルト方面の知識を霊幻に面白そうだからと買われてバイトしてるだけの事だ。
先程霊幻は結界を仕掛けたと言っていたが、彼が霊能力を使っている所を未だ見たことがない。

“女でも連れ込んでるのか”

不意に先程のエクボの言葉が頭を過り、その考えを散らすように○○は頭を振った。
あまり考えたこともなかったが、彼にもプライベートはあり、それはどんなものなのか全く知らないことに改めて気づいた。

霊とか相談所のビルまでたどり着いたが、○○は何となく階段の先にあるその扉の前まで行くのを躊躇った。
あらぬ考えがさっきから頭の中で主張を繰り返している。
今事務所の中に女の人を連れ込んでいたらどうしよう、などとなんの脈絡もない良からぬ妄想をしてしまう。すっかりエクボの言葉に取り憑かれてしまったようだ。
いやいや、と首を振って妄想を打ち消していると、突然事務所の扉が開かれ、○○は全身が飛び上がるほど驚いた。
その中からは霊幻が血相を変えて飛び出してきて、○○を見つけるなり勢いよく階段を駆け降りて向かってくる。
そしてたどり着くやいなや両肩をがっちり掴まれ、その重みに○○は二、三歩後ろへよろめいた。

「………っ、」
「ど、どうしたんですか?」
「こ、ここにも出やがった……!!」
「えっ、悪霊ですか…!?」

霊幻は○○の両肩を支えにして肩でゼエハアと呼吸を繰り返している。
その体は小刻みに震えていて、徒ならぬ霊幻の様子に○○は流石に慌てた。

「だ、大丈夫ですか?どうしよう、私じゃ除霊できないし…」
「い、いや……」
「え?」
「お前なら、もしかしたら出来るかもしれん」

霊幻の必死な形相に訴えられて、○○はやってみますと言うしかなかった。




「はい、終わりましたよ」

事務所の中、頼まれた作業を終えた○○は、霊幻に声を掛ける。
入り口の扉から怯えながら此方の様子を伺っているスーツ姿の大の大人。とても異様な光景だ。

「……ホントだな?ホントにもういないんだな?」
「いませんよ、ちゃんと仕留めたか確認しましたし、ティッシュとビニール袋に包んでポイしましたから」
「ありがとぉ……」
「アラサー男性の涙目上目遣いなんて見たくないです…」
「何だよお前感謝してんのにひでぇ事言うなよ傷つくだろ!」
「家にいたのもゴ…」
「やめろッ!今はその名を口にするな!!」
「……Gだったんですね」
「ああ…今朝出掛ける直前に現れやがってよ。ホイホイ仕掛けてきたから今頃掛かっている筈だが、まさかここにも出るとはな…今度は事務所にも仕掛けて置かねぇと……」

顎に手をやり、難しい顔をしている姿は傍から見れば格好いいのに、考えていることは至極残念だ。

「掛かってるんなら今からでも家に帰れるじゃないですか」
「念には念をだ。もし今家に帰ってホイホイの中に何もいなかったら絶望しかないだろ。そんな場所で寝れるか。一日空ければ流石にあいつもホイホイの威力には敵うまい」
「それより今度事務所掃除しましょうよ」
「そだなー、……ていうかさっきの素早い対処凄かったな、お前本当に女子か?フツーもっと嫌がんだろ」
「さっきのG入りティッシュ拾って戻しましょうか」
「やめろよォ!!すみませんでした!!!」

何だかもう、様々な方向に不安を感じたり色々心配していた事はすべて杞憂に終わったようで、○○は拍子抜けしたと同時にどっと疲れを感じていた。思わずため息が出る。
目的だったペンケースを回収し、○○は鞄を抱えた。

「じゃあ帰りますね」
「……え、ああ、そうだな。悪かったなわざわざ」

どこか名残惜しそうにしている霊幻に、○○は少しばかり嬉しさと優越感が込み上げてきて、つい軽口が出てしまう。

「なんですか、まだ怖いんですか」
「バッカお前、こここ怖いわけあるかよ」
「(どもってる…)私もここに泊まりましょうか?」

そんな○○の意図など分かりきっているようで、霊幻は恨めしそうに顔を歪ませる。

「お前……面白がってんだろ」
「ええ少し」
「くそ、覚えてろよー」

女性相手にこんな醜態を晒すとは全く以て不本意ではあるが、苦手なものは苦手、怖いものは怖いのだ。
どーせいい年した大人が情けないとか思っているんだろー悪かったな、といい年した大人の男は口を尖らせた。

「今日はずっと様子がおかしかったし、本当に悪霊が憑いたのかと思って本気で心配してたんですから、これくらい許してくださいよ」
「なんだお前、そんなに俺の事考えてたのか」
「考えてましたよ、当たり前じゃないですか。けど原因が判って良かったです、安心しました」
「……」

本当に安心したような顔でそんな言葉を掛けられてしまえば、霊幻も押し黙る他なかった。

(当たり前なのかよ)

その言葉には裏表など微塵も感じず、本当に心配してくれたのだろうと嫌でも分かってしまう。
そんな気持ちを真っ正面から正直にぶつけられてしまうと、どうにも調子が狂ってしまう。
面白がられて、からかわれてた方がまだマシだったと思い知らされる。
臆面もなく言うものだから余計質が悪いと思った。

「そういえば、なんで最初からはっきり言わなかったんですか?あんなに誤魔化さなくてもよかったんじゃ」
「お前、見てただろー?エクボの野郎はああやって人の弱味にすぐ付け込んで来ようとするからな、あいつの前ではあんま正直な事は言いたくねぇんだよ」

数時間前のやり取りを思い出したのか、霊幻は苦虫を噛み潰したかのような顔をしていた。
本音を見せずに会話するのは慣れているが、エクボと会話する度にそのスキルが磨かれている気がする。

「ま、職業柄ってのもあるからこれはもう癖だな、治らん。で、どうすんだ」
「何がですか?」
「泊まっていかないのか?」

口端を上げながら言う霊幻に、すっかりいつもの調子に戻ったと思い、○○は安心して笑う。

「もう、そっちこそからかわないでくださいよ。まあ、またGが出たら任せてください」
「おお、そいつは頼もしいな。大いに期待してるぞ○○君」
「はいはい。じゃあ、お疲れ様です」
「おー、気を付けてな」

○○を見送ると、霊幻は誰も居なくなった事務所の椅子に座る。軋んだ音がやけに大きく室内に響いた。やれやれといった様子で煙草をくわえて火を点ける。

(あーあ、)

霊幻は己の悪癖を呪いながら、ゆっくりと煙を燻らせた。




正直な嘘
(からかってなんかねーよ、鈍感め)



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