(ああ、もう、やだ……)

はぁはぁと荒い呼吸を繰り返し吐き出す。
重苦しい体にうんざりしつつ、縺れそうになる足を引き摺ってあの場所を目指す。

“霊とか相談所”

暗闇に埋もれそうになる視界の端に大雑把な名称の看板を見つけた。
思わず口許が弛み、幾分か気分が和らぐ。
もう少し、もう少しだ。

(寒い……)

凍りつくような寒さを訴える体を奮い立たせ、ビルの階段を上がろうと一段目に足をかける。
しかし私に取り憑いた何かがそれをさせまいとするのか、更に体に攻撃をしてくる。
目眩が酷い。ぐらぐらする。
震える手を壁に付き、鉛のような身体を何とか支える。

(もう少し、なのに……)

いつもなら数歩でたどり着けるその扉までの距離が、やけに遠く感じられた。

「…………っ、」

ああもうだめだ。澱んだ闇の気配が迫る。
意識が遠くなっていく。

「○○?」

とうとう耐え切れず力を失った膝が地面に付いた時、背後から声が掛かった。肩が揺れる。
けれど振り返ってその声の主を確認する力は、もう私には残っていなかった。
固く冷たい地面の感触が頬に伝わる。
こちらに呼び掛けた声は焦燥を含んだものに変わり、何度も名前を呼ばれた。
けれど、なんとか保っていた意識が遂に途切れ、私はそのまま冷たく広がる暗闇に身を委ねた。




「………」

目覚めれば、質素なコンクリートの天井が視界に入った。

「お、気がついたか」

声のするほうへ視線を向けると、新聞を片手にした霊幻さんがこちらへ歩み寄ってきた。

「わた、し……」
「あー、まだ動くな。熱下がってないから」

どうやら事務所のソファーに寝かせられていたらしい。
上体を起こそうとしたけど、霊幻さんの言葉どおり身体が重くてそれは叶わなかった。
頭の奥に未だ鈍痛が残っている。
けれど先程まで私の全身に纏わりついていた澱んだ気配はもう感じられなかった。

「ねつ……?」

額には、ひんやりとしたタオルがかけられていた。
霊幻さんが言うには、相当強い悪霊に憑かれて倒れてしまい、モブくんを呼んで除霊してもらったとの事だった。

「執り祓ったはいいが、結構体にダメージいってるんだとよ。んでその影響で今風邪を引いてるような状態だ。少し休めば次第に熱も治まってくるだろうから、暫くじっとしてろ」
「そう、ですか……ありがとうございます…」
「おー」
「すみません、毎回…」
「何謝ってんだよ、気にすんな」

霊幻さんが笑って言う。
ふと気がついて辺りの様子を伺うと、事務所内には除霊をしてくれた当人の姿はないようだった。

「モブくんは…」
「お前が目覚めるまで待ってるつもりだったらしいんだけどな、もう遅い時間だったから帰したぞ」
「そうですか…」

事務所の窓から僅かに見える景色は既に闇色に染まっていた。
倒れてから随分時間が経ったのだろう。

(お礼を言い損ねてしまった……)

憑かれやすい体質の私はもう幾度もこの相談所にお世話になってしまっている。
モブくんにも霊幻さんにも、こうしていつもご厄介になっている。
二人に対する申し訳ない気持ちと罪悪感が、じわじわと私の心を黒く焦がしていくようだった。

「じゃあ俺は少し出てくるから、そのまま寝てろよ」
「え……?」
「早く回復するにはなんか食ったほうがいいだろ。食べやすいもん買ってくるから」

待ってろよ、と言い残して去ろうとする霊幻さんのスーツの裾を咄嗟に掴んだ。
どうした?と彼の少し驚いたような声が降ってくる。

「い、行かないで、……く、ださい……」

渇いてカラカラになった喉から何とか声を絞り出した。

怖い。

全身を、言い知れぬ恐怖が包んでいた。
あのまま誰にも見つけてもらえなかったらと思うと、背筋が凍る。
今は一人になりたくない。
裾を掴む指に力が込もる。
霊幻さんは僅かに目を見開いた後、しゃがみこんで私に視線を合わせた。

「大丈夫か、そうとう具合悪いみたいだな」
「……」
「………怖かったのか」
「………う、」

低く優しい声に胸の内を言い当てられて、ぐしゃぐしゃになった心を撫で付けられた気持ちになった。
途端に目元が熱くなり、涙が吹き零れるように溢れてきて、霊幻さんの顔が滲んで見えなくなった。

「もう、い、やだ……」

色んな感情が混ざって鬩ぎ合って、気持ちの制御が出来なくなっていた。
堰を切ったように、次々と言葉が溢れてくる。

「な、なんで、いつも、こんな目に遭うんだろう…、…っ、 わたし、何か、悪いことしたの……っ?」

う、う、と嗚咽を漏らしながら、誰にともつかない言葉を並べて子供みたいに泣きじゃくってしまう。
身体が重い。気持ちが悪い。悲しい。悔しい。辛い。

「苦しいよ……もう、やだ……」

熱に浮かされて、涙と言葉が止まらない。
ああ、どうしよう。こんなの、情けなくてみっともないのに。

霊に憑かれるのはこれが初めてじゃないのに。
慣れていたと思っていたのに、今回のは流石に堪えた。
こんな体質で、これから先も、ずっとこんな不安と戦っていかなくてはいけない絶望感が消えない。

誰にも分かってはもらえない。
ひとりで、この先も。

こんな風に思っていたのかと、気づかなかった自分の感情に戸惑ってしまう。

心と体のバランスが壊れてしまったのか。
体の方は、うー、うー、と声を上げて、子供みたいな泣き方しかできない。止まらない。

それもこれも全部悪霊のせいだ。熱のせいだ。身体が弱っているせいだ。ああこんなの、きっと霊幻さんだって呆れてる。
ただでさえ迷惑をかけているのに、どうしてこんな困らせるような事をしてしまうのだろう。

嫌だな、嫌われたら。

頭の隅でそんな事を考えたら、余計に涙が零れてきた。
情けなくて恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
溢れる涙を拭う手は、震えるばかりだ。

ふ、と霊幻さんが小さく息を吐いた音が聞こえた。

「……悪いな」

ぽつりと響いた、何かを押し殺したような声と同時に、頭に霊幻さんの手が伸びてきた。
大きな手のひらが、髪を優しく撫でる感覚が伝わってくる。
驚いて霊幻さんの方を見ると、少し悲しそうな瞳と視線がぶつかった。
どうして、彼がそんな顔をするのだろう。

「俺は、お前の苦しみを本当の意味で分かってやる事ができない。お前はそれを背負って、受け入れてこの先も生きていくしかない。けどな、辛かったらいつでも此処に来い。出来るだけのことはしてやる。優秀な弟子もいるから大抵の悪霊は祓えるしな。だから、そんなに心配するな。不安があったら、そうやって吐き出してしまえ。俺が聞いててやるから」

な?と笑って、霊幻さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
どこか寂しそうな笑顔だった。
つめたくなっていた気持ちに、霊幻さんの言葉が染み込んでいく。
荒れていた心が、次第に落ち着きを取り戻していくのを感じた。

ああ、なんだ。
私、ひとりじゃないんだ。
だって今、こんなに暖かい場所にいる。

撫でてくれている手があたたかくて、心地よくて安心したからなのか、急に異常な眠気の波が襲ってきて瞼を開けていられなくなってきた。

「……眠れそうか?」
「はい……」
「そうか、ゆっくり休めよ」
「は……い……」
「……なあ、○○。今こうして寝込んじまってるお前に言うべき事じゃないかもしれないが…」

霊幻さんの落ち着いた低い声が子守唄のように響いてくる。
けれど、それはだんだんと遠くなって、私は今にも微睡みの海に飲まれそうだ。
もう彼の言葉に頷くことすら儘ならない。

「お前のその体質も、少なくとも俺にとってはそう悪いものじゃないと思ってる。……まあ、お前が同じように思えなきゃ意味ないんだけどな」
「…………」
「……それが…ければ……」

瞼の帳が落ちて視界が暗闇に染まり、もう霊幻さんの声をうまく聞き取ることは出来なかった。
次に目覚めたらもう一度聞いてみようと朧気に思いながら、私はそのままあたたかな微睡みに身を委ねた。




闇に咲く花
(それがなければ、お前に出会えなかっただろ)



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