ゆっくりと浮上した意識の先に違和感があった。

目を閉じたまま、○○は眉をひそめた。
知らない匂いがした。煙草のような匂いが微かに鼻を擽る。
加えて、先程寝付いたばかりのベッドの中がやけに狭く感じられ、まるで体が何処かに押し込められているようで思うように身動きが取れない。

「………」

覚醒しきれていない頭でぼんやりと薄目を開ける。
横たわった状態の○○の視線の先には、暗がりでも何とか判別がつく見慣れない布の生地が見てとれた。模様がついているように見えるが、それが何かまでは分からない。
靄がかった頭の奥で小さく疑問が浮かぶ。

「…………」

○○の頭上から、何か聞こえる。
それは規則正しい、呼吸音だ。
○○のものではない。
そこでだんだんと意識がはっきりとしてくる。

ベッドの中に、誰かいる。
あろうことか、その誰かと一緒に寝ている。
自覚した途端、ザアッと全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
得体の知れない者に対しての警告音の如く、心臓はバクバクと胸を打ち鳴らした。
とりあえずここは何処なのか、本当に自分の部屋なのか。一体誰と寝ているのか。
ひとつひとつ確かめていくしかない。
○○は恐る恐る、相手を起こしてしまわないよう注意を払いながら、ゆっくりと顔を上げて確認する。

「…………」

暗がりで何とか識別出来たその顔は、見知ったものだった。

霊幻新隆。霊とか相談所の所長だ。
その人が、○○の目の前であどけなく無防備な寝顔を晒している。○○の混乱など知る由もなく、穏やかな様子で規則正しく呼吸を繰り返しながら眠っていた。

「…………」

知り合いの顔に安堵したのも束の間、未だ思考が定まらない。

これは、なんだ。
どういう状況だ。

覚醒したばかりの脳をフル回転させる。
先程まで、確かにいつも通り自室で過ごし、自分の布団に入って眠ったのは覚えている。
次に目覚めたらこの状況だった。
何度頭の中で自分の行動を繰り返し再生しても、今置かれている状況に全く繋がらない。

○○は極力物音を立てないよう、そっと上体を起こし、辺りを見回す。
昏黒にまみれた闇の中、眼前に広がるのは全てが見慣れない空間だ。
配置されている家具も、窓の位置も違う。
となると、今いる此処は紛れもなく自室ではない、恐らく霊幻の部屋ということになる。
あまりにも奇々な出来事に、○○は目眩を覚えた。

「ん………」

もぞもぞ、と隣で寝ている霊幻が身を捩った。
○○は目の前に起こっている現実に付いていけず、ただただ呆然と霊幻の様子を見ている事しかできなかった。
彼も何かしらの違和感に気づいたのだろうか、眉根を寄せ、眠そうに唸りながら、瞼が薄く開かれる。

「んー……?」

起き抜けのぼんやりとした眼差しが、すこし彷徨ってから○○の姿を捉えた。
混乱する最中、○○はこの状況を何とかしたいとすがる思いで目覚めたばかりの霊幻に声を掛けた。

「………あの、」
「……、……ん?」
「霊幻さん」

暫くゆるく瞬きを繰り返しながら○○の顔を見つめていたが、○○が呼び掛けてから数秒して、霊幻は急に目を見開いて硬直した。

「は……?な、え?」
「霊幻さん、すみません…あの、」
「は、はああああ!?」

彼は勢い良く起き上がって仰け反り、後ろの壁に勢い良く後頭部を打ち付けた。かなりいい音がしたが、本人は痛がるよりも目の前の状況の方に意識が行っているようだ。

「な、○○、おま、なん……ッ!?、んんん???はあああああ!!?」

霊幻は信じられないといった様子で目を剥いて○○を凝視した後、ハッとして何故か自分が服を着ているか確認するかのように自分の身体のあちこちに手を当てている。彼もまた混乱して頭が回っていないようだった。
相談所に来る依頼で、どんなに異例の出来事が起こっても比較的冷静に対処してきた印象を持つ霊幻のパニック振りに、○○の方は逆に平静を取り戻していった。





霊幻に促され、○○は二人掛け用のソファーに座っていた。
室内灯がつけられ、明るく鮮明になった部屋を改めて見渡す。
やはり今居るのは霊幻の自宅だったらしい。
男の一人暮らしにしては雑然としておらず、整然と片付けられていた。
というより、あまり物が置いてなく、シンプルといった言葉が該当する、そんな部屋だ。

「おーい、あんまじろじろ見んなよー」

その家主は小さなテーブルにお茶の入った二人分の湯呑みを置き、○○の対面に腰を下ろした。
ボサボサの頭。薄いグレーのスウェットに身を包んでいる姿。
そのスウェットにはなにやら熊のようなイラストがプリントされている。先程見た模様みたいなものは、これだったらしい。
顔を合わせる時は決まってスーツ姿の彼の部屋着が物珍しく、○○はついその姿を凝視してしまう。

「あー、とりあえず状況を整理しようぜ」

幾分か平静さを取り戻したのか、頭をガシガシ掻きながら、霊幻は何かを考えてるようだ。

「確認するが、お前はここに来た記憶は全くないんだな?」
「ないです。自分の布団に入って寝て、次に目覚めたらここにいて……」

なんとも脈絡のない話ではあるが、それ以上に提供できる材料は何もない。
霊幻は訝しむように○○の顔を覗き込んだ。

「ほんとか?実は密かに忍び込んだとか……」
「ち、違いますよ!!ほ、ほんとに私……!!」
「いや悪い悪い、冗談だって」
「こんな時に冗談やめてくださいよ…」

睨み付ける○○に霊幻は悪びれもなく笑う。

「悪かったって。さっき確認したんだが、窓は施錠されてるし、玄関のドアにもチェーンが掛けてあった。普通に入って来るのは無理だろ。お前がくる前に戸締まりした記憶があるからな。なによりその寝間着姿で外からここまで来れないだろ」

霊幻に指摘され、○○は少し身を縮めた。
彼の部屋着姿にばかりに気を取られていたが、自分も同じく部屋で寛いでいた格好そのままだ。
家族以外の男性に無防備な部屋着姿を晒すのはやはり少し抵抗がある。
しかし霊幻は特に気に止めてないといった様子で口元に手を当てて何かを考えていた。

「となると大体予想は付くが一応聞こう。何か心当たりはあるか?何でもいい、ちょっと変わった事があったとか」

霊幻にそう言われ、○○は今日一日の出来事を思い返す。

相談所に行くまでは、さして普段と変わらない日常を過ごしていた事を脳内で行動を再生し確認する。
相談所の入り口の扉を開ければ、事務所内では施術室で霊幻が除霊依頼をこなしていた為、その弟子であるモブが暇を持て余した様子で漫画本を読んでいた。
声を掛けて、他愛のない会話をした。
内容は確か恋愛の話で、その最中確か○○がモブを冷やかすような何かを言った事を思い出す。
モブは顔を真っ赤にさせてあわあわとして、今にも爆発しそうな様子だった。
そのあとお詫びに勉強を教えるからと教科書を広げて、消しゴムを渡そうとした手が僅かにモブの指に当たった時、

「あ、」

バチン、という音と共に、指に微かな痛みが走った。
静電気かと思っていたが、ピリピリとした指先から少し火花が散ったように見えた。

「ただの静電気かなと思ったんですけど、それからちょっとおかしくて」

その後に相談所に肩が重いと訴える女性客が訪れた。霊幻は除霊の仕事がまだ終わっていないらしく、施術室から出て来なかった為、事務所のソファーに案内していつものように○○はお茶を出した。
お茶を飲んだ後、何故か急に肩の重みがなくなったと言って、女性客はそのまま帰ってしまったのだ。

「帰り際に女性が振り返って、気のせいだったみたいですみませんでしたって言い残していかれたんですけど…その時に、また指先にピリピリと痛みが走ったんですよ」

女性客が帰った後、モブが『今の女の人、確かに肩に悪霊が乗っていたんですけど、○○さんの淹れたお茶を飲んだら憑いていた悪霊が消えてしまいました』と不思議そうに言っていた事を霊幻に告げる。

「えー!?そのお客さん、そのまま帰っちゃったのか!?」
「霊幻さん除霊中でしたし、止める間もなく帰られてしまって…すみません」
「いやまあ仕方ねーか…」

客を逃してガッカリした様子の霊幻ではあったが、○○の話に何処か納得したような面持ちだった。

「成る程な。たぶん原因はその静電気みたいなやつだろ。お前その時にモブの力に当てられたか何かしたんじゃないか?俺も前にモブの力を一時的に引き渡された事があったからな。今回のケースもたぶんそれだろ」

能力を相手に譲渡する力を持っているモブが、感情の発露と同時に○○に意図せずに力が渡ったのだろうと霊幻が言った。

「アイツの力は未知数だしまだ不安定な所があるからな。何が起きたって不思議じゃねえし、テレポートが使える超能力者も存在してるみたいだしな。お前は何らかの条件が揃ってここに瞬間移動しちまったって訳だろ。突拍子もない話だし、あくまで推測ではあるが、今はそう考える方が妥当だろう」

とりあえずはそういうことで納得しておこうと、二人の間で折り合いがついた。
ふと霊幻は思い至ったもうひとつの疑問を口にする。

「でもなんで俺の所に来たんだろうな?」
「さ、さぁ……」

首を傾げる霊幻の言葉に、○○は内心ギクリとした。
心当たりはあったが、言うわけにはいかない。

(眠る前に霊幻さんのこと考えていた、なんて、)

言えるわけがない。
○○はきつく唇を結んで押し黙る。
霊幻もそれ以上は追及しては来なかった。
思い返せばその時にも指先に痛みがあったが、今はもうすっかり違和感はなかった。モブから渡された力は使い果たしたということになるのだろうか。

「……まあ、こっちとしてはそれで良かったがな」
「え?」
「いや、なんでもねー」

自分の思考に囚われて、ぽつりと溢した霊幻の言葉がうまく聞き取れず○○は聞き返したが、彼は遮るように立ち上がった。

「さて納得した所でどうするかだが…こんな時間じゃもう電車も動いてねえしな。明日朝送っていくから、今日はこのまま泊まってけ」

時計を見れば、針は深夜2時過ぎを指していた。

「すみません……」
「謝んな。お前もモブも別にわざとした事じゃないだろ」

飲み干した二人分の湯呑みをシンクに運びながら霊幻が言う。

「じゃー寝るか。俺のベッドで悪いが使ってくれ。俺はソファーで寝るから」
「え?だ、だめですよ!私がソファーで寝ますから!」
「なに言ってんだ、んな訳にいかねえだろ」
「今2月ですよ?ソファーで寝たら風邪引いちゃいますよ」
「それじゃお前だって風邪引くだろ……ああ、じゃあいっそ一緒に寝ちまうか?」
「あ、そうですね。そうしましょう」
「いやいやいやだめだろ!何名案ですねみたいな顔してんだよバカか!?」

ニヤニヤしながら揶揄うつもりで言ったのだが、○○に真顔で返されて霊幻の方が動揺してしまう。

「だって今霊幻さんが言ったんでしょ」
「いやお前、冗談に決まってんだろ突っ込めよ…」
「別に何もしませんから大丈夫ですよ」
「お前が言うのそれ!?はぁ……あのなぁ、こんなことあまり言いたくないんだが、俺だって男だぞ。危機感を持て。簡単に一緒に寝るなんて言ったらだめだろ」

腕を組みながら諭すように霊幻は言うが、○○はきっぱりと「霊幻さんなら大丈夫です」とまっすぐに言い放った。
彼ならば、人の気持ちを無視した行為に及ぶはずがないと信頼を込めて○○は言ったつもりだった。
が、霊幻の方は大層不服そうな様子で眉根を寄せた。

「お前な〜……あー、もういいわ」

はあ、と諦めたようにため息をついた霊幻は部屋の電気を消した。
パチリ。
その音で、再び部屋は暗闇に包まれる。
ベッドに入った霊幻は、○○に呼び掛ける。

「さっさと来いよ。冷えるだろ」

彼はそう言って、○○に背を向けて横になった。
意外にもあっさりと同じベッドで寝ることを承諾した霊幻に、今度は○○の方が戸惑ってしまう。
自分から申し出たにも関わらず、なんだか引け目を感じながらおずおずとベッドの中に入る。
先程と同じシチュエーションのはずなのに、妙に緊張してしまっていた。
つい一緒に寝ても大丈夫などと軽く発言をしてはみたものの、いざその状況をこうして実感してみると、とんでもない事を言ってしまったのではないかと思い知った。
だが、今更気付いた所で時すでに遅し。

シングルベッドは狭い。
触れないように離れようとすれば、床に落ちてしまいそうになる。
お互いに背中を向けてはいるが、どうしても所々に体を掠めてしまう。

息遣いが近い。匂いが近い。体温が近い。
一度意識をしてしまえば、次々に緊張の波を○○に与えてくる。
今更に、○○は自分の言った事を後悔していた。
普段顔を合わせるだけの男性と同じベッドで寝ることになるなどと、誰が予想しただろう。
想像などつく筈もない。だから、甘く見てしまっていた。
少し身じろきをする度、息が詰まった。
早鐘のように打ち付ける心臓にとうとう耐えられなくなり、○○はベッドから抜け出そうと体を起こした。
が、咄嗟に腕を捕らわれて、○○はそれ以上動くことが出来なかった。

「どこ行くんだ?」
「…あの、やっぱり狭いし、私、ソファーで…」
「お前がいいって言ったんだろ」
「……いや、あの……」
「俺なら一緒に寝ても大丈夫なんだろ?」
「………怒ってます?」
「怒ってねーよ。けど言った事には責任持て」

声色からは怒っている様子は感じられない。
しかし妙に冷静なその声と、しっかりと腕を掴んでくる手からは有無を言わせないといった圧を感じる。
○○は大人しく再び彼の居るベッドの中に身を沈めた。
直後、隣から霊幻の腕が伸びてきて、そのまま○○の体の上に乗せられる。
まるで逃がさないと言わんばかりの行動に、○○は強張らせていた身を更に固くした。

「あったけえ」
「ちょ、霊幻さん…腕回さないでください」
「狭いんだからこの方が楽なんだよ。なーに、今頃意識してんのか?ん?」
「意地悪ですね……」
「今更だろそんなん」

暗闇で見えなくても、今霊幻がどんな表情をしているのか手に取るように分かってしまう。
にやにやとして面白がっている顔が頭に浮かび、○○は心の底で悪態を付いた。

(近い…)

先程とは違い、今度はお互いに向き合う形になってしまった為、更に近くに存在を感じる。
霊幻の吐息が○○の髪を揺らす度に、心臓が煩く悲鳴を上げた。
すぐ側にある口がぽつりと言葉を落とす。

「意地悪ついでにもうひとつ言ってやる」
「……なんですか」
「その格好可愛いな」

追い討ちを掛けるようなその言葉に、○○は煩く響く鼓動を押さえ付けるように、声が裏返らないように何とか押し込めて言葉を返す。

「……もう寝てください」
「寝れるわけねーだろ、誰のせいだと思ってんだ」
「……私ですか」
「おうよく分かってんじゃねーか」
「…………」

先程の不服そうな表情をした霊幻が○○の脳裏を過る。
返す言葉が見つからない。彼を見くびり、警戒もせずに浅はかな行動したのは自分だ。
頬が熱い。恐怖なのか戸惑いなのか、羞恥なのか、解らないまま心臓は暴れ続けている。触れられた箇所から、きっと彼にも伝わっているだろう。

不意に隣から衣擦れの音が響き、○○はビクリと肩を揺らした。

固く目を瞑る。彼が急に自分の知らない人になってしまったように思えた。
瞼の裏に写るのは、お茶を熱がってひっくり返す姿や、こちらを揶揄う時に見せる意地悪そうに笑う顔。飄々とした姿。不意を突かれた時に見せる驚いた顔。時折見せる優しい顔。
次々に浮かぶ霊幻がずっと知っている彼の姿なのに。
なのに、今目の前にいるのは一体誰なのだろう。
目を開いたら、どんな顔をしているのだろう。その顔は、自分が知っている顔だろうか。

目頭が熱くなってくる。
情けなく怖じ気づいて、身を固くしてじっとしていることしか出来ない。

「………っ!?」

不意に、霊幻の手が○○の頭に触れた。
思わず目を開く。

視線の先には、見知った顔があった。

大きな掌が安心させるような手付きで○○の頭をひと撫でする。

「いいからお前はもう寝ろよ。何もしねーから」

それきり霊幻は黙ってしまい、頭からぬくもりが遠ざかっていく。
離れてしまった掌に、体温が下がったような気がしたのは気のせいだろうかと○○は思う。
暗がりの室内に静寂が降りた。

「……………」

知っている声、知っている表情があって、安心した。
安心した、はずなのに。

○○は安堵した自分の気持ちの奥に、もうひとつ識ってはならない、思い至ってはいけない感情があることに戸惑った。

それを無意識に言葉にしようとして、○○は開きかけた口を慌てて結び、呑み込んだ。

触れてしまえる距離に居る彼に、熱をもった感情に意識を持っていかれないように、○○は固く目を閉じて朝が来るのを待った。






いつか知らないその顔を
(見てみたいと言ってしまったら、一体どうなってしまうのだろう)



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