episode 89
情報提供
『小狼、目開けたよー!』
「大丈夫?気分悪い?」
そんなに時間が経っていない頃合いだったと思う。小狼はふと、琥珀色の瞳をゆっくりと開かせた。ぼやけた視界の中に見えるのは近くで彼の様子を見やるレイノ、サクラとモコナ、そして遠くで壁に凭れ掛かるファイと黒鋼である。何となく自分の状況を理解した小狼は、不安げなサクラの言葉に答える為に緩く首を横に振ったのだ。
「ここ、図書館の中の医務室だよー。係のひとに教えてもらって黒様が運んだんだ」
「意識とかははっきりしてますか?」
「はい。あの」
出来るだけゆっくり、覚醒したての小狼の脳内に刺激を与えない様にレイノとファイは言葉を紡いだ。しかし、当の本人である小狼はそれらに軽く反応するのみで視線を黒鋼に向けている。弱々しく発された小狼の声は、酷く情けないものだった。「話がある」として名を呼ばれた黒鋼は今まで閉じていた瞳をゆっくりと開け、深紅のそれを覗かせている。事の先を理解したのか、彼女はちらり、と黒鋼の表情を見てはゆっくりと立ち上がった。
「オレら、ちょっと出てよっかー」
「サクラちゃん、行こう」
「…はい」
ファイは帽子を被り直し、サクラとモコナを出口へと案内した。レイノは医務室の扉を開けてくれている。何時もと違う小狼の弱々しい様子に後ろ髪を引かれる思いを持ちながらも、サクラは医務室の外に足を踏み出した。そんなサクラの手を、レイノはゆっくりと包み込んだ。安心させたかったのだけれど、多分わたしも上手く笑えてはいないのだろうね。
「小狼君には黒ぴーが付いてるし、オレ達は二人がお話ししてる間に色々聞いて回ろうよー」
『サクラの羽根、探さないといけないしね』
「はい」
「…ファイさん、あの」
「ん?」
レイノのやった事は余り意味がなかったらしく、サクラはちら、と医務室の扉を視界に入れている。その様子に気付いたファイは何時もの笑みを浮かべて先導を切った。何時もよりも硬いが笑顔が戻って来たサクラに、レイノはほっと一息付く事が出来た。すると、もう一つ気になる事が出来てしまったのだ。一旦気付いてしまうと脳内から消す事は出来なくなっていた。嗚呼もう、こう言う質だから困るんだよなあ。
医務室の扉を叩く音が室内に響き渡る。職員だと思っていたその音の正体は、レイノだった。彼女の顔に浮かんでいる苦笑が来る筈ではなかった事を物語っている。しかし、この期を逃してしまってはきっと一生言えないのだろう。この人達を騙したままと言うのは、些か心に来るものがあるのだ。
「レイノさん!?姫達と行ったんじゃ…」
「言っておかないといけないなって思って」
「…何の事だ」
「蝙蝠のマーク」
レイノが放ったたった一言は、黒鋼と小狼の表情を固めるには充分なものだった。
「…何だと?」
「わたしの過去、覚えてますか?」
「ミッドガルド国で見た映像、ですよね」
「はい。そこで、わたしの国を…『グラーツ』を襲った者の服や手剣のマークは」
黒鋼の疑惑の視線が痛い。けれど、こんなもので引き下がるのはわたしじゃないの。伊達に毎日の様に貴方をからかってる訳じゃないんでね。まるで公開処刑の様に一行に見せ付けられたレイノの過去の映像は、今思い出せば随分昔の事の様に感じる。決してそんな事は無いのだけれど。彼女を除く一行には昔の事の様に感じるだろうが、レイノにとっては目を瞑れば簡単に思い出す事の出来るとても鮮明な出来事なのだ。普通に暮らしていればまず体験する事ではない一連の出来事は容易く思い出す事ができ、そして容易く思い出したくないそれなのだ。けれど、それから目を逸らしてばかりではわたしは一生このままなのだろう。最初は一緒に居るだけだったのにね。信じて貰いたい、なんて。侑子の言う通りになっちゃったね。
「蝙蝠、だったんですよ」
prev next