粗暴者からの逃れ
四月。別れの季節や出会いの季節、恋の季節と呼ばれるそれである。この時期になると満開になる筈の桜の花びらは既に地面に落ちており、それらは踏まれる事によって黒く澱むのだ。それを楽しんでいる最中、とある者の人間の鼓膜を震わせる声がそこにはあった。目の前には何処か張り切った様子の薄い桃色のスーツを着込んだ可愛らしい女性が歩を進める事を促している。初めて来るこの町は酷く穏やかで、隣町であり、自身の地元である黒曜町のガラの悪さとは正反対である。明るい印象があるその道を歩いていると目の前の女性から「麗」と呼ばれる。その声に思わず顔を歪めて苦笑を浮かべた「麗」と呼ばれた少女は革の硬いローファーを鳴らしたのだ。
「今行くよ。お母さん」
「麗、名前あった?」
「うん。B組みたい」
「知り合いいる?」
「いないよ。地元じゃないんだから」
「ぼっちね」
「言わないでよ!」
オレは沢田 綱吉。昔から勉強も運動もからっきしで、卒業を間近に控えた頃、いよいよ「ダメツナ」と言う渾名が付けられた。不憫すぎる。ろくに友達も居ないオレは何の楽しみもなく体育館に向かっていた。その道の途中で耳に入って来たのは仲の良さそうな親子の声だった。ちらり、と横に視線を寄せて見えたのは、日本人には珍しい明るい茶髪の女の子だ。この辺りでは見た事がない気がするけど、「地元じゃない」って聞こえたし地元民ではないんだろうな。クラスも違うみたいだし、関わる事は無いんだろうなあ。そう結論付けたオレは、浅い溜め息を吐いて体育館へと再び足を動かした。
「あ、あの!」
と、しようとしたけど、さっきの女の子に声を掛けられた。
「あっ、き、急に声かけてごめんなさい!」
「い、いえ……何か」
「これ、違いますか?」
そう言われて渡されたのは、新入生全員に配られる造花だった。思わず慌てて胸元を確認すれば、それは無かった。ひな壇にピカピカの新入生らが並ぶ中、胸元の赤がなければ大変浮いていた事であろう。それは避けたい。「ありがとう」と一言を送ってそれを受け取って胸元に付け直している時、後ろからは「ツっ君」と言った中学生には恥ずかしい渾名が聞こえて来る。その時のオレの顔がよっぽど酷かったのか、目の前の女の子は苦笑を浮かべていた。
「ツっ君、急にいなくなったら駄目じゃない!」
「ご、ごめん。花落としちゃったみたいで、拾って貰ったんだ」
「あら、ごめんなさいねえ。手間取らせちゃったでしょう?」
「大丈夫ですよ」
「あら。麗、お友達出来たの?」
「友達って言うか…まあ、うん。出来たよ」
後ろから声を掛けて来たのは母さんだった。未だに小さい頃の渾名の「ツっ君」って呼ぶのは止めて欲しいんだけど、それを言っても「照れてるのね」とか言ってからかわれるだけだからもう諦めてる。そんなオレの母さんも目の前の女の子の母親と初対面な筈なのに、何でこうも会話が弾むんだ。女の人は皆こんな感じなのか。全然分からん。そんな光景に思わず溜め息を吐くと、目の前の女の子は零れた様にくすくす、と笑い声を漏らした。
「…あ、ごめんね。つい」
「あ、いや」
「知り合いいなくて、寂しかったの。だから勝手に友達って言っちゃったんだけど…駄目だった?」
「っ…全然!嬉しい!」
「ほんと?良かった。わたし、日比野麗って言うの。君は?」
「オレ、沢田綱吉。よろしくね」
オレの視線に気付いたのか、目の前の女の子は漏らし続けていた笑い声を止めて再び苦笑を浮かべた。そんな彼女にどうしてか罪悪感を感じたオレは謝る事しか出来なくて、何に対してもオレは「ダメツナ」なんだと、自己嫌悪が止まらない。そんなオレに対して彼女は、オレと友達になれて嬉しいと、そう言ったんだ。聞き間違いかと思った。けどどうしようもなく嬉しくて、身体が力むのを止める事は出来なかった。そこでやっと彼女の名前を聞く事が出来たんだ。この時点では、この子がどんな子かは分からなかった。
「友達第一号は沢田君だね。こちらこそよろしく!」
ただ、笑顔は凄く印象的だった気がする。
思えば、最初から惹かれていたのかも知れない。私はA組であの子はB組。接点は無かったはずなんだけど、入学式の席が隣だったの。きょろきょろと周りを見渡すあの子を気になり出したのが始まりだった。明るい茶髪が綺麗に丸められている髪型が印象的だった気がする。買ったばかりでパリパリする制服のスカートの裾を弄っては、胸元の造花の位置を直す。その動作を繰り返していたあの子はすごく面白くて、つい私から声をかけてしまったの。
「気になるの?制服」
「うえっ…み、見てたんですか?」
「ずーっと触ってるから、気になって」
「え、えへへ。恥ずかしいなあ」
目の前の女の子は髪色と同じ茶色の大きな瞳をぱちくりとさせて、気まずそうに敬語で問い掛けた。今思えば、かなりおかしいよね。けど、真っ白な顔をピンクにさせてる姿はとっても可愛くて、お友達になりたいなあ、って思ったの。そうぼうっと思っていると、ふと目の前の女の子のリボンが曲がっている事に気が付いた。思わず手を伸ばすと、目の前の女の子の肩がぴく、と跳ねた気がする。
「ま、曲がってた?」
「気になっちゃって。駄目だった?」
「っううん!ありがとう」
「私、笹川京子って言うの。あなたは?」
失態ばかりの自分に恥ずかしさを感じたのかは分からないけれど、目の前の女の子は照れた様に前髪をてぐしで梳かしていた。そんな彼女に、私は身を詰めて名前を聞いたの。目の前の女の子が声を出そうとしたのかな、その時に舞台に立っている校長先生が咳払いをして、そのせいでマイクからはハウリング音が響いた。思わず耳を塞いでちらり、と横を見たら彼女も同じ様な事をしていて、思わず笑っちゃった。残念だったのは、この時にあなたのお名前を聞けなかった事かなあ。
「あとでね」
けれど、小声で囁いた優しいあなたの声だけは覚えてるの。
「お友達出来た?」
「うん!三人!」
「ぼっちじゃないわね」
「だからそれはもう良いんだってば!」
入学式の帰り道。未だに慣れない並盛町のそこを、わたしはお母さんと一緒に歩いていた。お母さんは朝の「ぼっち」発言を未だに引き摺っていて、ちょっとイライラする。嘘だけど。けど、一人ぼっちって言うのはわたしも少し心配だったから沢田君と京子ちゃんには感謝しなきゃだよね。思いきって連絡先交換して良かった。そんなほくほくとした気持ちで歩いていると、つま先に何かが当たった気がする。そうして下を向けば、そこには野球ボールが転がっていた。
「わりい!それ、オレの…あ」
「はい。どうぞ」
「サンキュ!その制服、並中か?」
「君も?」
「おう!今年から入るんだ」
「じゃあ同い年だね」
思わず野球ボールを拾えば、近付いて来るのは春先にもかかわらずシャツの袖を捲っている黒い短髪の男の子だった。そんな彼の後ろを盗み見たらバットが転がっていたから多分野球をしてたんだろうね。ほぼ確信に近い言葉を言ったら彼は嬉しそうに笑顔を浮かべていた。ああ、こりゃモテるわ。わたしの考え間違ってないよね。後ろでお母さんの嬉しそうな視線をビシバシ感じながら、わたし達は自己紹介を交わして「よろしく」と言葉を交わした。
「また明日な!日比野」
あの笑顔を、また見たいって思ったんだ。
ああ、うざったい。そんな身体の重さを感じたのは久し振りかも知れない。それはきっと足元に転がる草食動物達のせいで。名前も知らないそいつらのうちの一人の身体を軽く蹴り飛ばすと、いつの間にか地面に落としていたトンファーと学ランを拾い上げる。そして、顔に付いていた汚い血を雑に拭った。それだけの事なのになぜかむしゃくしゃして、僕はパサパサな前髪を雑に掻いた。その時だったかな、君の顔を初めて見たのは。そして、同時に君の声を聞いたのも初めてな気がする。
「だ、大丈夫ですか……?」
「は?」
「や、あの、怪我してる」
「……別に」
多分怯えてたんだろうけど。目の前の草食動物は腰を低くして僕の顔を覗き込んだ。何だろう。すっごく腹が立つ。思ったより大きく出てしまった僕の声は、目の前の草食動物を余計に怯えさせてしまったらしい。そんな事、僕には関係ないけど。放っておいてくれ、と言った気持ちを伝えたはずなのに、足元からはガチャガチャ、と何かを探す音が響いていた。思わず眉を顰めて注視すると、目の前の草食動物は水が入ったペットボトルとハンカチ、そして、絆創膏を取り出した。目の前の草食動物はハンカチを水で濡らして、それを僕の顔に出来た傷跡にそれを当てた。
「っ…ちょ、何のつもり」
「放っておいたら、膿んじゃいますよ」
「…余計なお世話、っ」
「…はい。出来た」
少しだけ感じるぴり、とした痛みに、僕は思わず顔を歪めた。そんな僕の反応を気にも留めず、目の前の草食動物は絆創膏のパッケージを器用に捲る。名前も知らない、多分年下の女から、どうして僕は手当てを受けてるんだろうか。けれど、身体が怠くて拒否する事は出来なかった。悶々とした気持ちのまま数分経った頃かな、ほっとした様に目の前の草食動物は僕の前で初めて笑った。ああもう、有り得ない。我に返った僕は目の前の草食動物の手を払い除けて重い身体を引き摺って帰路に付いた。
「ありがとうなんて、言ってやらないから」
名前も知らない、偽善者になんて。