005



今日も夜が更けると酒場を閉め、一通りの掃除を終えた。もう休もうとお風呂に入ってから自室へ戻り、髪を梳かし、ゆるく編む。するとそのとき部屋のドアがノックされた。
ドアを開けると宿屋の奥さんが含み笑いのような戸惑いのような複雑な顔をして立っていた。

「どうしたんですか?」
「休むとこ、ごめんね。どうしても、あんたと話したいって、人が来て……いや、それだけならまあ、珍しくはないんだけどね。今日の人は、ちょっと追い返すわけにも……ねえ。」
「?……どなたなんですか?」
「それがね……スノウぼっちゃんなんだよ。」
「え……?」

下で待ってもらってるから、行ってみてくれないかい。と奥さんに言われ、私はストールをワンピースの上から羽織って階段を下りた。宿屋のロビーの椅子に、彼は座っていた。彼は私が下りてきたのを見ると、すぐに立ち上がった。

「……こんばんは。」
「こんばんは……。」

ぎこちない挨拶をして、少しの間沈黙が流れる。私はただ彼が話し始めるのを待った。

「こんな遅くに、すみません。どうしても今日、話しておきたくて……。」
「……。」

あのお祭りの日以来、これといって接点のなかった彼がわざわざ訪ねてくる用事など、私には想像もつかなかった。黙ったまま言葉を待つ私を、スノウは真剣なまなざしで見つめた。

「あなたにとって、僕は……それほど大きな存在ではないでしょう。あまり、話したこともないし……よく知らないでしょうから。」
「……。」
「でも……僕にとっては違う。はっきり言いましょう。僕にとって、あなたは……とても大きな存在です。もっとよく知り合いたいと思ってる。」

私は顔を赤くして俯いた。スノウも頬を染めている。

「だけど……今、あなたに僕の気持ちを伝えたところで、僕はただの、あなたを慕う多くの男の中の、ひとりでしかない。……明日、僕は特別任務に就きます。この任務を成功させたら、きっと……団長は、僕のことを認めて下さる。だから……そうしたら、あなたも……僕のことを、真剣に考えてはもらえませんか。」

特別任務……。まさか。
私は立ち竦んだ。それを、スノウは困惑と受け取ったのかもしれない。表情を曇らせ、視線を下に落とした。

「私……私のような、周りからの情けや温情で助けてもらって、なんとか生きている人間が……あなたのような、立派な方と釣りあうとは、思えません……。」
「そんなこと……!」
「どうか……お引き取り下さい。明日は、お気をつけて。おやすみなさい。」
「……また来ます。僕は……あきらめない。」

スノウは言い残して、静かに店を去った。直後に、奥さんが階段から駆け下りてきた。

「あんた、いいの?スノウぼっちゃんと結婚すれば、次期騎士団長…兼領主の妻だよ!こんな話他にはないよ、もったいない……」

踊り場で話を聞いていたのだろう。私は苦笑を浮かべた。

「そういうことは……私には大きすぎて、何も見えなくなってしまいますから。」

おやすみなさい。私は頭を下げて、自室に戻った。





翌朝、いつも通りお使いに出た。
いつもの魚屋さんの前に、その人物はいた。私が近寄ると、彼はすぐに気が付いた。

「あ……おはようございます。」

少し驚いた顔で、ラズロは会釈と挨拶をした。私も挨拶を返した。

「この間は……ありがとう。おいしかった。」

呟くようにラズロが言って、私は少し考えて、サービスしたアイスのことだと思いだした。

「いえ、こちらこそ。」

短く答えて、また沈黙が流れた。そうしているうちに魚屋の主人が商品を包み終え、私たちはそれぞれ会計を済ませて、帰路につこうとした。

「じゃあ……。」

ラズロは無愛想な挨拶を残して立ち去ろうとした。

「あ……。」

これから彼は、特別任務に行くのだろう。あの、運命の分かれ道のような任務に……。
だから、つまりこれを機に、彼の運命は大きく変わっていくのだ。今の彼は想像もしていない方向へと。
きっと今は、これからもこんな日々がずっと続くと信じて疑っていない。そう考えると、私は胸に言い表せない感情がこみあげてきて、不意に涙が溢れそうになった。

「えっと……。」

私が挨拶も返せずに佇んでいると、ラズロは不思議そうな顔でそのまま立っていた。立ち去るタイミングを失ってしまったらしい。このままでは困らせてしまう、と思っても、無防備に垂れ下がった彼の左の手を見ると、触れたい、と思ってしまう。そんなこと、できるわけがないのに。

ラズロは、どうしたの、なんて聞かず、ただじっと立っていた。――と思ったら、突然歩き出して、私に近づいた。
そしてその左手が、私の背中に触れた。手は温かく、そっと、私の背中を少しだけ押した。

「送るよ」

短く言って、ラズロはゆっくりと歩きだした。一瞬だけ触れた背中に、まだぬくもりを感じながら、私も歩き出した。ラズロは少し離れて、まるで私を見張って守るような距離で歩いた。
もっと近づきたかった。けど、近づいてはいけないような気もした。

大通りを中ほどまで進んで、広場が見えてきたころ、私は立ち止った。それを見て、ラズロも立ち止った。

「もう……大丈夫です、ここまでで。ごめんなさい……迷惑をかけてしまって。」

ラズロは少し黙って、俯いた。

「わかった。」

俯いたまま頷いて、こちらに踵を返す。

「でも……迷惑じゃないから。」

ぽつりとつぶやくように言って、ラズロはさっさと港の方へ歩いて行ってしまった。私はただ名残惜しく、その背中を見送った。



 



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