007
「あんた、どうしたの?元気ないねえ」
店じまいをして掃除をしている時、奥さんが思いついたように言った。
「……そうですか?」
とぼけながらも、脳裏に昼間の光景が思い浮かんでしまうから笑えない。ラズロが女の子に大人気だからって、こんなにショックを受けるなんて。
「そうそう、俺も思ってたんだよ。お使いから帰ってきたと思ったら、元気がなくて……」
主人がお金を数える手を止めて頷いた。
「町で何かあったの?」
「いいえ、何もないです。本当に」
私は首を横に振って、桶を掴んで店の玄関に向かった。
「雑巾、洗ってきますね」
顔を見合わせる主人と奥さんを残し、私は宿屋を出た。
井戸は大通りを少しそれた場所にある。坂道を下っていると、港の方から歩いてくる人影が見えた。ぼんやりと誰だろうと考えていると、夜風で翻る赤い鉢巻が見えて、はっとした。
そのときには、ラズロと視線がぶつかっていた。
ラズロはそこで立ち止まった。私は、桶を抱える手に力を込めた。
考え事をしていたら、こんなところまできてしまった。昼間のことが忘れられない。
一瞬だけ目が合ったリルの表情は、自分にがっかりしていたような気がして。
そんなことを考えていたから、前からリルが歩いてくるのが見えた時、心臓が飛び跳ねた。桶を抱えた彼女は、僕が立ち止るとつられるようにして立ち止った。
お互い一言も発さずに、波の音が響いている。
リルは会釈をしたかしないかわからないくらい少しだけ頷いて、足早に踵を返し、井戸がある広場へと入って行った。僕は無意識のうちにその後を追った。
広場には井戸の前にリルだけがいて、綱のきしむ音が響いていた。水を汲んでいるのだ。僕は駆け寄って、彼女の隣から手を伸ばし、綱を引くのを手伝った。急に綱が軽くなって拍子抜けしたように、リルは目を丸くして僕を振り返った。
水の入った桶を引き上げると、リルは小声でお礼を言ったが、それきり黙り込んだ。
僕も黙って、リルが雑巾を洗うのを見つめた。
「デートの帰りですか?」
不意にリルの声が響いた。僕は驚いてすぐには返事ができなかった。
「違うよ。」
否定すると、リルはぞうきんを絞って畳み、僕を見上げた。不思議そうな顔で。それで初めて、自分の声に動揺が現れていることに気づいて、後ろめたいことが見つかった時のように顔が熱くなった。後ろめたいことなどないはずなのに。そもそも彼女にとって僕はただの客で、今の質問だって特別な意味はないのに。
リルはすぐにいつもの笑みを浮かべた。僕はそれが「何も気にしてません」と言われているような気がして、なんとなく落ち込んだ。
リルは立ち上がって、桶を抱えた。
「ありがとうございます。」
「え?」
お礼を言われる覚えがなくて、僕は目を丸くする。
「私ひとりじゃ危ないと思って、来てくれたんですよね。お祭りの日も……。」
そう言われて、思い出した。確かに祭りの日は、なんとなく港を歩いていたらリルが一人で波止場にいるのを見つけて、誘拐騒ぎの直後だったこともあって、傍にいる判断をした。でも今日は……。
「……宿まで、送るよ。」
けれど思いを伝える勇気はなくて、僕はそう呟く。リルはいつも酒場でふりまいているような笑顔を浮かべ、首を横に振った。
「今日はお祭りでもないし、海賊なんていないから、大丈夫ですよ。」
僕は何も言い返せず、黙っていた。
「ありがとうございました。……おやすみなさい。」
そして、去っていくリルの後姿を、見えなくなるまでいつまでも見つめた。