「――それ、御幸一也先輩だよ!絶対!」

渡り廊下の先、少し開けた自動販売機置き場から、きゃっきゃと楽しげな女子たちの会話が響いてきて、御幸はぴたりと足を止めた。

「え、なにー?何の話?」
「あのねー、清香がね、昨日階段で先輩にスケッチブックをぶちまけちゃって、その先輩がめっちゃイケメンだったんだってー!」
「えー!どんな?」
「2年で、眼鏡で、こういう感じの髪型の…、ね!絶対御幸先輩だよね!」
「うわ、清香超ラッキーだったじゃん!何か話した!?」

会話の内容からして、正直、悪い気はしない…。が、御幸は居たたまれなくなって、そっと柱の影に身を潜める。

「や…やめてよー、声大きいって…。」

遠慮がちに小さく聴こえてきた声は、きっと、あの女子生徒だろう。御幸はついつい聞き耳を立ててしまう。

「あはは、そうだよねー。清香はあの先輩ひとすじだもんね!」
「あっ、そっか!ごめんごめん、清香。」
「も…もー!先輩はそんなんじゃないってば…!」

きっと、結城哲也のことだろう。会話からして、やはり、もうすでに付き合っていることは友人には話していないらしい。結城共々周りには秘密にしているのだろうか。それにしては、校門で堂々と待ち合わせたり、頭を撫でたり、学校の近くで腕を組んで歩いたりと、堂々としすぎているような気もするが…。

「でも清香の好きなあの先輩、ちょっと怖くない?」
「あ…わかるー。どこが好きなの?」
「ひ、ひど!か…格好いいでしょ!お…おとこらし…く、て…」

語尾を小さくしながら声は消えていく。顔を赤らめて俯く彼女の姿が容易に想像できて、可愛い、と御幸は素直に感じ、ふっと笑みをこぼしてしまうのだった。

「……なに、一人でにやけてんだよ…気持ちわりー」

ぬっ、と横から歪めた顔の倉持が現れて、御幸はヒッと肩を竦めた。
その御幸においうちの悪態をついて、倉持は手のひらで小銭を弄びながら、自動販売機――女子生徒たちの声がする方へと歩いていく。

「あっ…、ちょ、く、倉持クン…」

御幸はつい慌てて追いかけて、倉持の襟首を掴んで引き留めた。ぐぇ、と倉持がうめき声をもらし、鬼のような形相で振り返る。

「テメッ、何しやがる…」

そのとき、柱の向こうから、各々ジュースを手にした3人組の女子生徒が談笑しながら現れた。3人はすぐに倉持と御幸を目に留め、はっと息をのんだ。先ほどまでの会話を聞かれたかと思ったのだろう。しかし全く経緯を知らない倉持は、相変わらずの形相で御幸を凄み、悪態をついている。その態度を見て、前を歩く二人の女子が安堵したように顔を見合わせたのがわかった。聞かれてなかったみたい、と小声でささやき合っている。
しかしその後ろを歩く女子――清香だけが、御幸と倉持から顔を背け、耳まで真っ赤にして逃げるように歩いていくのだった。

――やべ、聞いてたの、バレたかな?

御幸は倉持の怒号を聞き流しながら頭を掻いた。


***


その日の練習後も、御幸は校門で結城哲也と清香が待ち合わせているのを見た。

――あんなに順調なんだから、友達くらいには話しててもおかしくねぇのに。

2人の関係を不思議に思いながら、ベンチに腰を下ろして遠目に二人の姿を見る。哲也がおもむろに手を伸ばし、清香の頬に触れる。おいおい、と思いながら、缶ジュースを煽る。

――まさか…キス、とか…

期待なのか不安なのかわからないもやを胸に感じながら、御幸は視界の端で二人の様子を窺い続けた。哲也は、しばらく清香の頬を撫でると、顎を持って横を向かせたりして、手を離した。
…目の毒だ。覗き見するのも気が進まないし、部屋に帰ろう。と、御幸がベンチを立った時だった。

「お?御幸じゃねぇか。風邪ひくぞ。」

呆れたような声がして、御幸は振り返ってぎょっとした。倉持と連れ立って声をかけてきたのは、伊佐敷純だった。
倉持と伊佐敷は自販機でジュースを買い、御幸の隣に腰かける。何も言えずにいる御幸の、ひきつった顔に最初に気付いたのは倉持だった。
ただならぬ御幸の様子を訝しく思った倉持は、ふと思いついて校門を見た。少し遠くにある、夕暮れに染まる校門のそばに、人影が見える。女子生徒に腕を絡められ、まさに今歩き出そうとする影。

「あッ……!」
「おいッ、ば…ッ!」

倉持が声をもらしたのと、御幸が制止するのと、伊佐敷が人影に気付いたのは、ほとんど同時だった。

「ん……?あれ、哲か?」

あちゃあ…、と倉持と御幸は青ざめる。伊佐敷は立ち上がり、人影をよく見る。

「な……!!」

声が途切れ、伊佐敷が走り出したのを、御幸と倉持は顔を見合わせて追いかけた。まずいことになった…、のかもしれない、と、冷や汗をかきながら。

「おい、哲ッ!!」
「……純?」

怒号で呼び止められ、振り返った哲也に、伊佐敷は詰め寄る。

「テメェいつのまに!」
「…?」
「彼女ッ!できたのかよ!!」
「彼女?」

ちらり、と哲也は隣の女子生徒に視線を落とした。つられて全員が彼女を見る。白い肌。大きな瞳。赤い唇。さらさらつやつやの長い髪。正直、かなり可愛い。
戸惑ったような赤い顔で先輩たちを見上げる彼女の頭に、哲也が手を載せる。

「清香のことか?…彼女じゃないぞ。」
「…え!?」
「は!?」
「じっ…じゃあ、何なんだよ?」

「妹だ。」

「……。」
「……。」
「……は?」

ぽかん、と口を開けて硬直する3人に、清香は赤いままの顔でぺこりとお辞儀をする。

「は…初めまして。結城清香です…。」

「あ……。」
「ど……ども……。」
「…ッス…。」

ぎこちない空気の中、耐え切れなくなった倉持が御幸の胸ぐらをつかみあげる。テメェ、彼女って言ったじゃねぇかよ!と、無言の圧力の中で倉持の声を感じる御幸に、「おい」と伊佐敷までもが詰め寄ってくる。

「お前まさか、この間言ってた『哲のファン』って…。」

清香の姿を見て、気が付く。新品の制服、一目見て『可愛い』容姿。御幸が言っていた情報と重なる。ははは、と乾いた笑いをこぼす御幸に青筋を立てる伊佐敷と倉持。それをよそに、哲也はのんびりと呟いた。

「昨日御幸が言っていたのは、清香のことだったのか。」
「い…いやぁ、哲さんの絵かいてたから、てっきり。はっはっは…」
「清香は美術部で、絵を描くのが好きでな。よく、家族のことも描くんだ。それに…」

ぽん、と哲也が清香の細い肩を叩く。

「清香は、倉持のファンだしな。」

「え…」
「…は?」
「……えッ!?」

「ちょ…っ、お兄ちゃん!!」

清香は真っ赤な顔をして兄の背中を叩き、倉持は面を喰らったような顔をしたかと思うと、みるみるうちに耳まで真っ赤になって、手で口元を覆った。その嬉しそうな顔がおもしろくなくて、御幸は倉持の頭を抱え込み、力いっぱい締め上げる。

「倉持ク〜〜ン?ず い ぶ ん…ッ、嬉しそうじゃないの?」
「べっ…べべべべ別に!ちげぇし!!」
「く〜〜ら〜〜も〜〜ちィィ……」

これ以上ない鬼の形相で睨みつけてくる伊佐敷に、倉持はヒィッと肩を竦める。

「素振り100本してこいやオラァ!!」
「い、いや、純さん……」

「清香は去年から倉持のファンでな。俊足の盗塁と、守備が格好良いんだそうだ。」
「おに、お兄ちゃん!!」

「……素振り1000本だゴラァ!!!」
「い、いや…あの…すんません…」
「謝るんじゃねェコノヤロォォ!!何ニヤけてんだテメェ!!」

こっちこいや!!と、伊佐敷に引きずられていく倉持を、御幸は面白そうに見送る。清香はまだ火照る頬に手を当てて、小さく息を吐くのだった。その様子を見て、御幸は今日の昼間の出来事を思い出す。

『――清香はあの先輩ひとすじだもんね!』
『――でも清香の好きなあの先輩、ちょっと怖くない?』

――そうか、この子、話を聞かれたかもしれないことじゃなくて、単純に倉持を意識して赤くなってたのか…。

『――か…格好いいでしょ!お…おとこらし…く、て…』

――なんか、面白くねぇな。

御幸の胸に、ちくりと棘が刺さったような不快感が広がる。
それにまだ、気になる事がある。清香の肩に回された哲也の手が目に留まる。そう、恋人同士だと間違われても仕方のないほどの、この兄妹の親密感だ。さっきだって、哲也は清香の頬を撫でていて――。

「あ…清香。少しこっちを向け。」
「んっ?」

考えている傍から、哲也が清香の小さな顎を掴んで横を向かせた。それから前髪を払って、額を露わにする。何してんだこの兄貴…、と口に出してしまいそうになるのを、御幸は口をムズムズさせながら堪えた。

「ここにも絵具がついてる。」
「え…、ほんと?」
「じっとしてろ。」

ぽかんとする御幸を余所に、哲也は清香の額を指で拭い、まじまじと確かめてから、よし、と手を離した。

「とれたぞ。」
「ありがと。」

「……。」

――絵具拭いてただけかよ!!

御幸は心の中で叫んだ。紛らわしいことこの上ない。いや、早とちりして決めつけてしまったのは自分だが…。
御幸は赤面して口ごもった。

「――じゃあな、御幸。俺たちは帰る。」
「えっ、あ、ハイ、おつかれっした…。」

声をかけられて、御幸は我に返って二人を見送った。清香がぺこりと会釈をして、小走りで兄の後を追う。すぐに追いついて、細い腕を伸ばし、兄の腕に掴まって並んで歩きだす。
その後姿を見て、御幸は心の中で呟くのだった。

――やっぱり、あんたら、仲良すぎでしょ……。

 


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