「よっ!妹ちゃん!」

「あれっ?妹ちゃーん!」

「妹ちゃんだ!やっほー♪」

「妹ちゃーーん!またなー!」




「………。」

教室でぐったりと項垂れる清香。その原因は、おととい知り合った2年生の先輩、御幸一也だった。
今日はやけに彼に遭遇し、からかうように声をかけられ、その度に友達の女子たちが騒ぎ立てるのだ。

「結城?どした?」

声をかけられ、清香が顔を上げると、隣の席の東条が心配そうにこちらを見ていた。

「具合でも悪いのか?」
「……ううん。」

清香は首を横に振り、スクールバッグから財布を取り出す。喉が渇いた、お茶でも買おう、と思ったのだ。

「自販機?」

それを見て、東条は他愛もなくそう尋ねてきた。そうだと頷くと、東条もスポーツバッグから財布を取り出した。

「俺も行く。」

新学期が始まり、同じクラス、隣の席同士になった二人は、何となく気が合って、時々こうして連れ立って自販機まで行ったり、立ち話をしたりする。清香にとって、東条は他の男子とは違い、気さくに話してくれて気楽に過ごせる相手だった。

「なぁ、英語の小テスト、何点だった?」
「50点。」
「満点かよ!くぅー負けた!」
「東条は何点だったの?」
「48点…。」
「1問ミスかぁー惜しいね。…あ、それで自信満々に聞いてきたんでしょ!」
「バレたか。くっそー俺が勝ってたらジュース奢ってもらおうと思ったのになぁー。」
「ずる!じゃ、私奢ってもらえるってこと?」
「うわ、そうくるか。…しょーがない、奢らせていただきますっ!」

ふたりは冗談交じりに談笑しながら自販機の前に立つ。

「結城、なにがいい?」
「えっ?いやいや、いいよ、冗談だって。」
「いーから。そのかわり、次の数学の小テストも勝負な。」
「えー!私、数学苦手なのに!」

ボトッ、と、2人の後ろで不意に音がした。反射的に二人同時に振り向くと、そこには金丸が呆然とした表情で立ち尽くしていた。足元には彼のものであろう財布が転がっている。

「……信二?」

東条が声をかけると、金丸は慌てて財布を拾い上げ、取り繕うような笑顔を浮かべる。しかしその目は戸惑いを露わにし、窺うように東条と清香を交互に見ている。

「お、おう、東条……」

ちら、ちら、と金丸が清香を見ていることに気付いた東条は、あ、と声をこぼす。

「同じクラスの結城…、ほら、結城キャプテンの妹さんだよ。」
「えッ!?そ……そうなの、か」

キャプテンに妹がいたこと。東条と同じクラスだという事。そしてその妹が目の前にいるこの可愛い女子だということ。いろんな驚きが入り混じった表情を、東条は少しはらはらとしながら見守る。

「あ、信二……、金丸信二。同じ野球部なんだ。」
「あ…、そうなんだ。」

東条は簡単に金丸を清香にも紹介し、2人は軽い会釈をする。

「あ…、で、結城、決まった?」
「あ…!えと、じゃあ、カフェオレ…」
「おう」

東条はカフェオレのペットボトルを買い、出てきたそれを清香に手渡す。

「ありがとう。」

嬉しそうに受け取る清香。東条もはにかんでいる。なんとなく金丸が居たたまれなくなったとき、突然その声は響いた。

「あーーっ!妹ちゃんだ〜〜」

ぎくり、と清香が肩をすくませた。階段を駆け下りてくる人物…こちらに手を振りながら駆け寄ってくる人物は、東条と金丸もよく知る先輩、御幸一也だった。

「ごめ…、東条、私先戻ってるね!」
「え、でも御幸先輩、呼んでるんじゃ…?」
「気のせい!」

清香がすぐに踵を返して駆けだすと、御幸が「あっ」と声を上げる。

「妹ちゃーーん!」

どこか楽しそうに後を追いかけていく御幸を、東条と金丸は呆然と見送った。

「なんだアレ……。」
「さ、さあ……。」

東条は気を取り直したようにスポーツドリンクを買った。続いて自販機にお金を入れながら、金丸はじとりと東条を見た。

「だけどよ…お前、結構女子と…話すんだな…」
「え…そう?そんなことないけど…」
「いや…めちゃくちゃ話してたじゃねーか。」

東条は目を瞬いて、うーん、と少し唸る。

「そうでもないよ。仲良いの、結城くらいだし。」
「おま……」

――それって、結城さんと特別仲がいいってことじゃねーかよ…

金丸は胸の中で呟き、自覚をしているのかいないのかわからない友人を見て、ため息を吐くのだった。


***


――昼休み。
御幸が購買でパンを買い、教室に向かっていると、ふと視界の端に見覚えのある女子を見つけた。数歩後ろ向きのまま後退して、閉められた教室の扉の窓から中の様子を窺う。ここは美術室。キャンバスに向かって筆を動かす、ひとりの女子生徒の姿。清香だ。
いつもおろしている髪を一つに束ね、制服の袖もまくり、うなじと手首が露わになっている。一見華奢で頼りなさそうに見えるその腕は、しかし、迷いなくしっかりと筆を動かしている。
御幸はそうっとドアを開けて、こっそりと美術室に足を踏み入れた。清香は集中しているらしく、こちらには気づいていない。そうっとそうっと彼女の背後に回り、キャンバスを覗き込む。

――真っ青な空。巨大な入道雲。雲の合間の青い隙間は、道のようにも見える。その道は、うっすらとかすむ地平線へと延びている。遥か彼方、見えないところまで続いている地平。御幸は感嘆の声をもらした。

「すっ…げ…」
「…えっ…?……ひぇ!?」

清香が背後の御幸に驚いて反射的に立ち上がる。その勢いで椅子は倒れ、危うくパレットを落としそうになる。なんとか気を取り直した様子で、清香は物言いたげに御幸を見たが、御幸がきらきらと目を輝かせてキャンバスに釘付けになっているのを見て言葉に詰まった。

「すっげー!この間も思ったけど、妹ちゃんほんと絵うめぇよな!それにこの絵…俺、この絵好きだわ!」
「…え?」
「だってほら、」

御幸はキャンバスの中心、澄み渡るような青い空を指さす。

「空が道みたいになっててさ、青道…なんつって」
「……。」
「あれ?」

反応のない清香に、何か変なこと言った?と首をかしげる御幸。すると清香はぽつりと呟いた。

「…よくわかりましたね。」
「え?」
「これ、この学校をテーマにして描いたんです。先生に頼まれて…来年のポスターのデザインにするらしくて。」
「へー!すげぇな!そんなの描くなんて…」

振り返った御幸が、ふと言葉を途切れさせて清香の顔をじっと見た。眼鏡の奥の真剣な目。いつもふざけている御幸が不意に見せたその表情に、清香は息をのむ。

「……な…何ですか…?」

清香の白い頬の少し下、口元のあたり。柔らかそうなそこに、青い絵の具が掠れている。絵具がついた手に気付かないまま汗でも拭ったのだろう。美術室にはじっとりとした暖かい空気が流れていて、御幸はアンダー越しの背中に制服が張りつくのを感じた。
少しぼんやりする頭に、昨日見た光景が蘇る。哲也にされるがままになって、頬や額に触れられている清香。自分が触れたら、いったいどんな反応をするのだろう。絵具を拭う、という大義名分がある今、それを実行してしまえと叫ぶ心の声を、御幸は振り払う事が出来なかった。

できる限り意識しないように、速やかに、清香の頬に手を伸ばす。触れる瞬間、事態の予想がついたのか、清香は一瞬身を引いた。しかしそれは既に遅く、御幸の手が清香の頬に触れる方が早かった。
清香は澄み切った瞳で見上げてくるが、何も聞いてこない。何か言いかけた小さな赤い唇が、何も言えないまま結ばれた。御幸は頬に触れた手の親指を、そこににじんだ青い絵の具に滑らせる。ぐい、と拭うと、柔らかな肌が吸い付くように引っ張られた。あまりの柔らかさ、滑らかさに驚く。男と――自分と全然違う。邪念を振り払うように、少し乱暴に2回、続けて拭う。頬の絵の具が薄れたのを見て、御幸は手を離した。あまり長く触れている勇気はなかった。清香は御幸が触れていた頬に触れ、あ、と呟いた。

「え…絵具…ついてました?」
「うん。」

御幸は何でもないように振る舞って、ひょいと自分の親指を見せる。青い色が滲んでいるのを見て、清香は俯いた。

「…ありがとうございます…。」

いつのまにか清香は真っ赤な顔をしていた。熱い、と感じて、御幸は自分も赤面しているのではと気付いた。
手持無沙汰になって、ふとパンの存在を思い出す。左手に持っていた焼きそばパンは、無意識のうちに握りしめてしまっていた。自分に呆れながら傍の椅子に腰をおろし、ビニールを破く。美術室でパンを食べ始めた先輩を呆気にとられながら見つめている清香に、御幸は尋ねた。

「妹ちゃん、昼メシは?」
「……もう食べました。」
「弁当?」
「はい…」

頷いた清香は、思い出したように教室の時計を見上げ、画材を片付け始めた。

「もうチャイム鳴りますよ。」
「ん。」

御幸はおざなりに相槌を打ちながら焼きそばパンを頬張る。キャンバスを壁に立てかけて戻ってきた清香が、その黙々と口を動かす御幸の背中にふと湧き起った疑問を投げかける。

「お昼、それだけなんですか?」

普段、見ているだけで胸やけを起こしそうなほどの量を食べる兄と弟に囲まれているせいで、御幸の食事が心配になったのだった。御幸は最後の一口をあっという間に飲みこむと、うんん、と相槌なのか肯定なのか否定なのかわからない声で返事をして、言葉を続けた。

「弁当食ったけど、それだけじゃ足りねーから。」
「…そですか。」

清香は拍子抜けして画材の片づけを終え、窓の戸締りをしてドアへ向かって行った。

「じゃ…私、教室戻ります。」
「あ待って、俺も。」

御幸が慌てて追いかけてくる。なぜこの先輩はこんなに自分につきまとうのだろう。清香は疑問を飲みこんだ。

 


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