「…おい御幸!」

頭上から降ってきた大声に、俺は肩をすくませた。目の前には開きっぱなしのスコアブック。やべぇ、何も考えてなかった。顔を上げると、イライラしている倉持の顔があった。

「…わり、ぼーっとしてた。何?」
「だあから!授業終わったっつの!もう昼休み!購買行くだろ!?」
「あぁ…」

そうだった。4限目は自習だったから、スコアブックを眺めていたんだった。そしてそのうちに、意識が飛んで――いや、寝ていたわけじゃない。そうだ、あいつのことを考えていた。
本当にここに…青道に来たのか、あいつ?ひとつ階段を下りれば…この下の1年の教室に、今、あいつがいるのか?3年間、考えていたあいつが…。

「おい、本当に大丈夫かよ?なんか今日のお前変だぞ。」

さすがの倉持も真面目な調子でそう尋ねてくる。俺は愛想笑いを浮かべて誤魔化して、しまったと思った。こいつにはこういう誤魔化しは通用しない…むしろ異変に気付かれちまう。

「いや、わりぃ、ちょっと、沢村に貸した本のことが気になって」

咄嗟に吐いたことを差し引いても、我ながら苦しい言い訳だと、言った後に思った。しかし一度出た言葉は引っ込まない。少しの沈黙のあと、倉持はぽつりと返した。

「…ハァ?本?」
「そうそう…どうしても気になる事があって。ちょっと、返してもらいに行ってくるわ。たぶんあいつ、持って来てるだろうし。」
「は!?今かよ?」

俺がそそくさと席を立つと、倉持も踵を返して後に続いた。

「ったく…」
「あ、着いてくるのね…」

何か文句あるのか、と言いたげに睨む倉持をそっとしておいて、階段を下りる。足がしびれたようにつま先の感覚が無い。やべぇ、俺、緊張してんのか。胸がどくどくと脈打ってうるさい。
あいつ…いるのかな。東条って何組だったっけ。沢村とは違うクラスだった気がする。そうだ、1年のクラスの階に来ても、必ず見つけられるわけでもねーのに…何してんだ俺。

「うおっ!?御幸!?な、なぜこんなところにィ!!」

廊下に聞き慣れた大声が響き渡り、俺はがっくりと肩を落とす。

「…先輩をつけろ、先輩を。」
「ぐぬ…倉持先輩まで連れて、な、何が目的だ!?」

思いっきり警戒心をむき出しにして身構える沢村に、倉持がいつもの調子で楽しげに蹴りを入れる。

「あのさ、昨日お前に貸した本あるだろ。ちょっと一旦返して。」
「なっ!?なんだと!?」
「どーしても今読みてぇの。また夜貸すから。」
「うぬぬ…い…今持ってくるから待ってろ!」
「敬語使え敬語」

本当は本なんてどうでもいいんだけど。倉持の手前、俺はでっち上げたセリフを吐いた。教室に入って行った沢村が戻ってくるのを、倉持と並んで待つ。沢村はすぐに戻ってきて、本を差し出した。

「ここ!栞はさんであるとこ、変えないでくださいねッ!俺まだ途中なんスからね!!」
「はいはい、じゃな。」

キャンキャン喚く沢村をあしらって、俺と倉持は階段を上がる。

「もうカツサンド売り切れてるだろうし、今日は食堂にすっか」

そう提案する倉持に頷いて、踊り場に差し掛かった時。上の階から降りてくる人物に目が留まった。
輝く金色の髪。淡い空色の瞳。すれ違いざま、その瞳はちらりと動いて俺を捉えた、ように見えた。けれどそれは一瞬で、俺は動揺から目が泳いでしまって、彼女の姿をしっかりと確かめることができなかった。気付けば立ち止まって、振り返ってその後姿を目で追っていた。階段を下りていく細い背中。小さな後頭部。角を曲がって、消えた。

「…すっげ、美人…」

倉持がわなわなと呟いて、あっ、と声を上げた。

「今のってもしかして、今朝亮さんが言ってた1年じゃねーのか?」
「……あ?誰?」

平静を装うあまり、自分の声が怒りを含んでいるような低い声になった。吐いた本人がそう感じるのだから、吐かれた倉持は輪をかけてそう感じるわけで。まずい、と思った時には、倉持のきつい睨みが俺を刺していた。

「おい…御幸、テメェ、言いたいことあんならさっさと言えや…朝からなんっかおかしいんだよテメーはよ…」

まずい、こうなると倉持は徹底的に俺を疑う。根掘り葉掘り聞きだそうとしてくるだろう。だがこいつに俺の複雑で苦い思い出の話なんて死んでもしたくねぇ。となればここは仕方ない、いつもの方法で…。

「あっれー、怒らせちゃった?ゴメリンコ♪」

すかさず無言で蹴りが飛んでくる。やや手加減された衝撃をケツに受けて、俺はできるだけ軽い調子で笑った。

「はっはっは。ま…気にすんなよ。マジで何でもねーから!」

こうなると俺がてこでも吐かないことを倉持は知っている。不服そうに黙り込み、歩き出した俺の後に続いてくる。
廊下の喧騒をどこか遠く感じながら、俺は先ほどの光景に思いを馳せた。

あのキラキラ輝く髪。はっと目を引く、端正な顔。そこに、あのころの面影を感じなかったわけではない。ただ、あのころのあいつは、周りの男子に交じって野球をして駆け回って、真っ黒に日焼けしていたから、先ほどの色白の少女とは少し、印象が違うような気もする。
咄嗟に動揺して、目をそらしてしまった自分を恨んだ。こんなの俺らしくねぇ。
…わかっている。東条にでも頼んで、本人を呼び出してもらえばすぐにわかることだと。それでも踏み切れないのは、あの日、あいつが俺への興味を一切失ったことへの恐怖と悲しみを、思い出したくないからだ。
認めたくないんだ。あいつがもう俺を必要としていないことを。あいつにとって俺が、取るに足らない存在だったことを。もう3年も経っているというのに。

職員室の前に差し掛かると、見慣れた女教師の姿を見つけた。グラビアアイドル並みのスタイルに映えるスーツ姿。礼ちゃんだ。ショートヘアの女子生徒と何やら話していて、時折笑い声が響く。楽しそうだ。

「そう、演劇部に入ったの。」
「はい!私、将来、ミュージカルやりたいんです。それで今、歌も練習してて…」
「牧瀬さんの声はよく通るし、歌も上手そうよね。今度、あなたの演技も見てみたいわ。でも…もったいない気もするわね。あなたなら、どの運動部でもレギュラーを狙えるのに。」
「あはは。スポーツは好きだけど、演劇の方が好きだから、いいんです。でも、助っ人が必要だったらいつでも呼んでくださいね!なんちゃって。」
「ふふふ…はいはい。でも、そうね…あなたが男の子だったら、私、スカウトしてたでしょうね。」

礼ちゃんのその言葉が聞こえて、俺と倉持は思わず顔を見合わせる。
じゃあね!と女子生徒は礼ちゃんに手を振って、軽い足取りで階段を下りて行った。1年か。背、高いな。なにより、動きが機敏で無駄がない。見るからにスポーツが得意そうだ。

「礼ちゃん。」

声をかけると、礼ちゃんは呆れたような微笑を浮かべた。

「高島先生、でしょう。ふたりとも、食堂でお昼?」

はい、と倉持が頷く。その肩口に手を置いて、俺は身を乗り出した。

「ねぇねぇ礼ちゃん、今の子誰?1年?」
「ヒャハ、御幸お前、一目惚れでもしたのかよ?」
「だってさー、ちょっと長澤ちゃんに似てね?背ぇ高くて、ショートヘアで、顔も…」
「ふふ。今の子は、牧瀬司さん。1年生よ。オールマイティーに運動神経が良くて、どの運動部の顧問も目をつけているわ。中学時代はバレーボールで全国大会まで行ったようだけど…もともと好奇心旺盛で何でもやる子だから、ソフトに陸上、水泳…バレエもやってたかしらね。スポーツの申し子みたいな子よ。ああいう子が一人いると、チームも強くなるのよね。」
「礼ちゃん、詳しいね。」
「それはそうよ。もう何年も前、少年野球の助っ人として登板していた彼女を偶然見かけて、スカウトしようと思って調べたんですもの。でも、女の子だったのよね。あのときは本当に驚いたわ。」
「へぇ。礼ちゃんが目をつけるなんて、ホントにすごいんだ。」
「ええ。優れた動体視力からなる選球眼。筋肉と重心をうまく使って長打を生む力。なにより、どんなに追い詰められても揺るがない不屈の精神力。彼女はその日その試合限りの助っ人で、チームメイトでもなんでもないのに、まるでエースのようだったわ。」

へぇ…、と倉持は感心したように呟いた。興味が湧いた顔だ。確かに今の礼ちゃんの話を聞いたら、その牧瀬司が男だったら…、青道の野球部に入っていたら…、と思う気持ちもわかる。
そう、男だったら…。
あいつも男だったら、野球を辞めなかったのかもしれない。今も一緒に、野球を続けていたのかもしれない。俺の脳裏に過ぎる奥村の顔は、いつもそっぽを向いて俯いていて、俺を振り返ってはくれない。

「そうだわ。女の子のエースといえば、もうひとり、女の子にしておくには惜しいと思った選手がいたのよ。」
「え、誰すか?」

倉持が尋ねると、礼ちゃんは俺を見上げて小さく笑みを浮かべた。

「江戸川シニアの奥村静。」

俺は息をのんだ。頭が真っ白になって、あの日の青空を見上げた時のように眩む目で、礼ちゃんのしたり顔を見る。

「御幸君はよく知ってるはずよね?同じシニア出身で、バッテリーを組んでいたもの。」
「え…奥村静って、お前…」

礼ちゃんと倉持の視線が刺さる。俺は言葉を返せずに、口を噤む。

「彼女も今年青道に入学したのよ。野球はもう辞めてしまったようだけど。」

やっぱり。やっぱりあいつだったんだ。
俺は馬鹿か。もしかしたら別人かもしれない、なんて。再会するのが怖くて、そんなバカげたことを考えて。あいつとバッテリーを組んで、何人もの打者を打ち取って、いくつもの試合を潜り抜けて…信じ合って、通じ合って、そんな時間を、関係を、終わらせるのが怖くて、俺は、別れの言葉も言えなかった。言わなかったからって、そんなことで繋ぎとめているつもりだったのか?あいつはもう、野球を辞めていて、二度とこの道が交わることはないのに。それはもう、変えようのない現実なのに――。

「御幸君、もう会った?」

にこりと微笑む礼ちゃんと、じろりと睨む倉持。俺は咄嗟に時計を見上げて踵を返す。

「いや…あんまよく覚えてないし。つーか時間やべぇ。倉持、食堂行こ。」
「あ…おい!」

倉持は礼ちゃんにぺこりと会釈して俺を追いかけてくる。何も聞いてこないのは、きっと、俺の様子を窺っているんだろう。倉持が気を使うという事は、動揺が顔に出ているのかもしれない。やべぇな、俺。どんどん余裕がなくなっている。奥村のこと、意識しすぎだろ。あっちはもう、俺のこと、覚えてないかもしれないのに。
さっきの階段でのこと。ちらりとこちらに動いた瞳。興味のなさそうな顔。あの日と同じ。ただ、すれ違った人に無意識に視線が動いただけかもしれない。俺のことなんて…御幸一也かもしれない、なんて、きっと、考えてないだろ。

廊下を歩いて行く。食堂が見えてきた。
その横から階段を駆け上がってくる足音が聞こえて、俺は振り返る。…見知らぬ1年生だった。俺は視線を前へ戻す。
重たいガラス扉を開けると、食堂はいつも通りごった返していた。1年から3年、所々に教師もいる。俺は視線をぐるりとめぐらせる。きらきら輝く金色の髪を探してしまう。
どこへ行ってもあいつのことを考えて、探してしまう。同じ学校にいることがわかってから…いや、この3年間、ずっとそうだった。中学校の通学路、野球の試合会場、通い慣れたバッティングセンター、始めていく遠征先でさえ。
どこかにお前がいる気がして。偶然会えるような気がして。特別なつながりが、ある気がして。
けれどその期待はいつも打ち砕かれてきた。それもわかってはいたんだ。

これからも毎日、嫌今まで以上に、その期待と落胆に翻弄されるんだろう。これはきついな。いっそ本人を呼び出して、はっきりと言われたほうがマシかもしれない。

…はっきりと?何を?
付き合っていたわけでもない。ただ一緒に野球をして、1年間バッテリーを組んで…ただそれだけのこと。

…それだけのこと。

『…ごめん…』

あの日、あいつはどうして謝ったんだろう。
その疑問に、あいつもまた俺との間に特別な何かを感じていたんだと、期待を捨てきれずに、3年。…3年、過ぎたんだ。

 


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