いつも通り練習を終え、寮の食堂での夕食の時間。
あいつのことで頭がいっぱいでも、今は野球に集中しなければ。どうせ、あいつに声をかける勇気もないんだ。あいつのことを考えても考えなくても同じ。それなら、考えないようにしたほうが良い。

倉持と並んでトレーを受け取り、席に着く。少し遅れて、クリス先輩が席を探して俺の向かいにやってきた。

「ここ、いいか?」
「どうぞ。」

頷くとクリス先輩は座り、隣の亮さんや純さんと挨拶を交わす。…沢村が来てから、この人は本当に顔つきが変わった。シニアの時のような、穏やかで楽しそうな笑顔を浮かべるようになった。あいつは馬鹿だけど、これだけはほんと、感謝しないとな。
…そういえば、クリス先輩も奥村と面識があるんだった。シニア時代、試合をしたときに…。
覚えているだろうか。いや…覚えていたとしても、関係ないか。

「…そういえば御幸。奥村には会ったのか?」
「……ッッ!?」

突然核心に触れられ、俺は飯をのどに詰まらせた。大笑いしながら倉持が差し出すコップを受け取って、麦茶を流し込む。呼吸を落ち着かせてやっと見上げたクリス先輩は、ぽかんとした顔で俺を見ていた。

「…すまん、何か驚かせたか?」
「いや…、平気ッス…」
「ヒャハハ、気にしないでください。こいつ、今日魂抜けてるんッスよ。」

倉持にからかわれても今は言い返せない。誤魔化すように飯を掻きこみ、飲みこんでから平静を装う。

「…ねぇ、その奥村って誰?」

クリス先輩の隣の亮さんが興味を示して、俺の背中に冷や汗が流れた。…まずい。この人に目ェつけられたら、誤魔化しきれねぇぞ…。

「1年の奥村静だ。昔、御幸と同じシニアで投手だった。」

正直に、正確に、悪気なく答えるクリス先輩。俺に突き刺さるいくつもの視線。肌がチクチクと痛い気がする。

「奥村静って…あの奥村静?」

亮さんが呟くと、名前に反応したであろう1年たちが、何人かこちらを振り返る。ああ、注目が集まってきた。まずい。

「ふーん、御幸、知り合いだったんだ?」
「いや…もう何年も前ですし、中学も他のとこ行ったし、向こうは俺のこと覚えてないと思いますよ。」
「ヒャハハ、今日階段ですれ違った時も、ガン無視されてるんッスよこいつ。」
「うるせぇなー。」

「え…。」

小さく、戸惑うような声をこぼしたのはクリス先輩だった。驚いたような、困ったような顔をして俺を見たかと思うと、口元に手を当てて顔を背ける。まるで、何かを隠すように。

「何、どうしたのクリス?」

そんなあからさまな態度を見逃す亮さんではない。するどく突っ込むと、クリス先輩は躊躇いながら口を開いた。

「いや…、奥村は、御幸のこと…覚えていると思うぞ。」
「…いや、まさか!はっはっは…」

他愛もなく笑い飛ばそうとしたのに、クリス先輩は神妙な顔を崩さずに続ける。

「俺のことを覚えているのに…お前のことを忘れるわけがないだろう。」

しん、と静まり返る空気。しかし喧騒はすぐに戻ってきて、ただ一瞬ショックを受けて自分の耳が遠くなったのだと気付く。

「…覚えてたんすか?クリス先輩を?」
「ああ…今日、廊下ですれ違ってな…。むこうから、挨拶してきた。もう野球は辞めたそうだが、青道の試合はずっと見て、応援していた…と言っていた。」
「……。」
「御幸…それって、お前を応援していたんじゃないのか。」

カラン、と軽い音が響いた。トレーの中に箸を落としていた。

「…あ、やべ…」

箸を摘み上げようとしたが、上手く指先が動かなかった。よく見ると、俺の手は震えていた。その震えは胸の奥から込み上げてきて、目の奥が熱くなった。やばい。止まれ。止まれって…。
咄嗟に立ちあがって、震える唇を無理やり動かす。

「…コンタクトずれた。便所行ってくる」
「…は?おい御幸…」

倉持に顔を見られないうちに踵を返す。喧騒でごった返した賑やかさが、今はありがたかった。

「コンタクトって…あいつ今眼鏡じゃねーか。」
「相当動揺してるね。その奥村って子、御幸の何なの?元カノ?」

クリスは俯いて、何も答えることはなかった。



***


それから、何かが起こるわけでもなく、日々はいつものように過ぎていった。
昼下がりの廊下。5限目は移動教室。倉持と並んでのんびりと歩く。

「ああーーッ!御幸一也!」

鬱陶しい大声が響き、振り返ると、沢村が大げさに身構えてこちらを警戒していた。早速倉持がからかいに行って、俺も呆れながらやりとりを見る。

「ぐおおぉぉ、な、なぜこんなところにィィ…」
「移動教室なんだよバーーカ。ヒャハハハ」

倉持に締め上げられながら抵抗する沢村。先輩に羽交い絞めにされて呻く同級生を、廊下に居合わせた1年達は戸惑ったような顔で遠巻きに眺めている。

「倉持〜、遅刻する。」
「ヒャハハ、わかってるって。」

そう言いながらも今度は沢村をくすぐり始める倉持。倉持は沢村をイジメんのがほんとに好きだからなぁ…。

「沢村君。」

ふと、涼やかな声がして俺たちは動きを止めた。涼しげな雰囲気を纏う、人目を惹く容姿の女子。綺麗な金色の髪と真っ白な肌に西日が当たって、その体が輝いているようにさえ見える、奥村静。隣に、この間礼ちゃんと話してた、牧瀬司もいる。

「これ、落ちてたよ。沢村君のでしょ?」

そう言って小瓶を差し出す奥村。倉持は呆気にとられて思わず手を緩め、その隙に逃れた沢村は奥村の手を握りしめる勢いで小瓶を受け取る。

「おおお!これはまさしく俺の!さんきゅー奥村!さすが女神!!」
「その呼び方…やめてって言ったでしょ。」
「っていうか、何それ?マニキュア?」

牧瀬が小瓶を見て首をかしげた。

「よく沢村のだってわかったね、静。」
「…あたりまえ。だって…」

奥村は俺たちをちらりと見渡して、小さく微笑んだ。

「沢村君は、投手だもんね。」

じゃね、と手を小さく上げて、奥村は牧瀬と連れ立って去っていく。俺には目もくれずに。やっぱり、覚えてるなんて、嘘じゃないのか。

「さ〜わ〜む〜らぁぁ〜〜」
「ぎゃああああ!!痛い痛い痛い!!」

何事かと思ったら、倉持が拳で沢村のこめかみをぐりぐりと押しているのだった。いつものことだ。

「テメェ随分女子と仲がいいみたいだなァ…?若菜というものがありながら…」
「いでででででで痛ェって!!別に普通ッスよ同級生なんだから!!つか若菜関係ねーし!!」
「手ェ握りしめといて何が普通だコラ!!」

「倉持。」

発した自分の声が酷くこわばっていて、自分でも驚いた。倉持も沢村も、驚いたような顔をして俺を見ている。やべぇな、また態度に出ちまった。

「…遅刻する。行こうぜ」
「あ、あぁ…」

去っていく二人の先輩を、沢村は不思議そうに眺めるのだった。

 


ALICE+