1学期中間試験が始まり、野球部は二日間のオフに入る。
試験1日目の今日は昼から突然の土砂降りの雨が降り始めた。薄暗い空は気分をいっそう落ち込ませる。

くそ…ただでさえ体が鈍って頭が働かねーのに、これじゃジョギングもできやしねぇ…。

俺は足元の水溜りが絶えず揺れているのを憂鬱な気分で見つめた。昇降口には突然の雨のため傘を持っていない生徒たちが疲れたように肩を落としている。
昇降口の外で傘を開いて倉持を待つ。靴を履きかえた倉持が出てくるのが見えたとき、隣の女子の声がやけにはっきりと響いた。

「静、一旦家に帰るでしょ?」
「うん。」

よく通るはきはきとした声が呼んだ名前。それに答える、短く小さな、静かな声。俺は無意識に振り返っていた。するとすぐ隣、俺の目線のほんのすぐ下に、金色の髪の小さな後頭部があった。少し横を向いて俯いていた彼女は、前に向き直り、顔を上げる。横顔が見えて、俺は心が震えた。すぐ隣に、奥村がいた。
奥村…。こっちを、見ろ。

「あーもう、傘持ってないよ。朝はめちゃくちゃ晴れてたのに〜。」
「コンビニまで走って、傘買う?」
「それしかないねー…。あ、待って、私タオルなら持ってるから、とりあえずこれ被って…」

奥村の友達、牧瀬がスクールバッグを探り始める。それを眺めて待っている奥村の背中を見ていると、あの日のことを思い出す。丸みを帯びた肩から細い腰に掛けて少し沿った、あきらかに男とは違う、女子の背中。細い、柔らかな、奥村の背中。あの夏…この小さな背中に奥村はエースナンバーを背負っていた。
俺は傘を閉じて、手を伸ばした。その、背中へ。

とん、と軽い衝撃が指にあり、弾かれたように振り返る奥村。その空色の瞳に、俺が映る。

「…ん。」

言葉が見つからなくて、俺はただ傘を差し出す。

「…え、」

奥村が驚いた顔で俺と傘を見て、肩をすくませる。その迷う手に、俺は無理やり傘を押し付けて、今しがた昇降口から出てきた倉持に駆け寄って無理やり肩を組んだ。

「倉持クーン!相合傘して♪」
「くっつくなキメェ!お前はカンタかッ!!」
「はぁ?カンタ?」
「トトロくらいわかれやッ!!」

倉持の罵声をのらりくらりと笑い流しながら、心臓はうるさいくらい跳ねていて、俺は振り向けなかった。奥村がどんな顔で俺を見ているのか…知るのが怖かった。



***


「御幸ー、後輩が呼んでる。」

次の日の放課後、翌日のテスト勉強に向けて帰宅を急ぐ生徒でごった返す廊下で、俺はクラスメイトに呼び止められた。一瞬奥村が浮かんで、息をのんで振り返ると、そこにいたのは東条だった。
落胆にも安堵にも似たため息をこぼして東条の元へ行くと、すみません、と礼儀正しく頭を下げられる。

「お前が来るの、珍しいな。どした?」

沢村はしょっちゅう来るけど…、とため息交じりに呟く。それにしても、俺も東条もこれから寮に戻るんだし、話ならそれからでもいいのに。わざわざ来たってことは、よほどのことがあったのか?
勘ぐる俺に、東条は苦笑を浮かべて一歩下がり、後ろを見た。

「ほら、御幸先輩来たぞ。」

そう言った東条の後ろには、女子生徒が立っていた。金色の髪の、綺麗な、傘を握りしめた女の子。少し上目づかいの、困惑したような表情で、俺を見上げている。
奥村が。3年ぶりに、俺の前に立って、俺を見ている。
マウンドでは一度も、困ったような顔も、迷うような顔もしなかった奥村。いつも涼しげな、考えの読めない表情で、バッターが悔しがるたびに球は強く、速くなって…。こいつの投げる球のほうが雄弁なくらいだった。

「傘…、ありがとうございました。」

奥村は傘を差し出した。

「あ…、うん」

俺はそれを受け取る。
それ以上何を言ったらいいか、わからなかった。昔は…どんな話をしていたんだっけ。奥村の目は伏せられていて、手元のあたりを見つめている。相変わらず、綺麗な目の色だな。奥村にぴったりの、透き通った、さわやかな水色。こいつのこの目を見て、緊張するようになったのは…一体いつからだったろう。

「あ…、俺、先に戻ってようか…、」

東条が俺と奥村を交互に見て、思い出したように焦って立ち去ろうとした。その制服の裾を、奥村が咄嗟に摘んだ。

「…え?なに、奥村…」

奥村は東条を見上げ、無言で首を振る。後ろを向いているから、こちらから奥村の顔は見えないが、東条は困った顔で俺をちらりと見た。なんだよ、いったいどんな顔してるんだ。めちゃくちゃ嫌そうな顔、してたりして…。

「わかった、わかった、待ってるから…」

東条は奥村を宥めるように小声で言い、手を離させた。随分、仲がいいんだな…。胸の奥にもやが渦を巻く。

「あの…。」

奥村が俺に向き直った。相変わらず目は合わせない。読めない表情。あの頃から変わらない。

「私のこと…覚えてますか。」

廊下の喧騒が止んだような気がした。どこか夢見心地のまま、俺は口を開いた。

「…覚えてるよ。」

奥村の目が瞬き、俺を見上げた。やっと、目が合った。
しかし目はすぐに伏せられ、奥村はそっぽを向く。

「奥村?」

東条が顔を覗き込むようにして訊ねると、奥村はそこへ逃れるように東条の腕を掴んだ。

「し…失礼します。」

奥村の絞り出すような声。

「え?」

混乱する俺。

「ちょ…、奥村?」

困惑する東条。
腕を引っ張られて歩きながら、東条は俺に頭を下げ、去っていく。
…一体なんだったんだ。覚えてますか、って訊いたという事は、あいつも俺のことを覚えてるのは間違いない…んだよな。でも、なんでそこで「失礼します」なんだよ?もっと何かあるだろ、せっかく、…久しぶりに話せたのに。
ろくに目も合わせず…東条にばかり、べたべたくっつきやがって…。
あいつ……奥村の奴、昔から全ッ然変わってねェ!!

昔…シニアにいた頃も、あいつはやけに鳴と仲が良かった。俺とバッテリーを組むまでは、俺を見ると逃げ出したり無視したりしていたくせに、鳴とはすぐに打ち解けて…。
なんなんだよ…俺は1年間あいつの女房役で、一番近くにいたのに。高校で同じクラスになってせいぜい数か月の東条とはもうあんなに仲が良いのに、何でおれは避けられなくちゃならないんだよ。

「御幸ぃ〜、帰ろう…ぜ…」

呑気な声でやってきた倉持が、俺の顔を見て口を噤んだ。俺は短く「おう」と返事をし、歩き出す。
なんだか腹が立って来た。俺はこんなに悩んでいるのに、あいつは何を考えているんだ。
奥村、俺ははっきりと覚えてるぜ…。あの夏の前、エースになったお前が、俺とバッテリーを組んだときに言った言葉を。

『やっと、夢が叶った……。』

お前は俺を追いかけて、シニアに来たんだろ。俺とバッテリーを組むために、来たんだろ。そう言ってたじゃねえか。お前は俺を…俺だけを見てたはずだろ。
それなのに…突然俺を拒絶して、野球も辞めて、音沙汰もなくなって。好かれているのか、嫌われているのか…さっぱりわからない。
ああもう、誰か、教えてくれ。

 


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