「私、高校に入ったら野球辞める。」

あれは試合を終えて帰途に就いたバスの中だった。
一日中炎天下で全力を振り絞ったチームメイトたちはほとんど寝息を立てていて、私は、隣に座っている一也が起きていることを知っていて、独り言のように呟いた。
頬杖をついていた一也は私を振り向いた。多分、驚いたような、だけどわかっていたような顔をしていた気がする。

「……そお。」

一也が素っ気ないのは今に始まったことではない。
彼が興味を持つのは、いつだって野球の世界で輝いている好敵手。私なんて野球を辞めればきっと、彼にとってはただの一般人。ただすれ違っただけの、取るに足らないその他大勢。

だけど――引き留めてもらえるかも、とか、残念に思ってくれるかも――という期待が、全くなかったわけではない。今思えば、我ながら馬鹿馬鹿しい。そんなくだらない気の引き方をするなんて。

「お前、もう高校どこ行くか決めてんの?」

他愛のない雑談のような調子で、一也はスポーツドリンクを傾けながら訊いた。

「まあね…一応、青道に行こうかなって。家から近いし。」
「適当だなぁ。お前ならもっと頭いいとこ行けんじゃねーの?」
「無理にレベル高いとこ行っても大変だし。…一也は稲実でしょ?」
「はあ?なんで稲実?」

一也があまりにも興味なさそうに言うので、私は面食らった。

「だって…鳴から誘われたでしょ?噂になってるよ。鳴が選んだ選手に声をかけて、稲実に誘ってるって…。」
「まーな。でも、行く理由もないだろ。」
「……。」

私は言葉を失って、ため息を吐いた。

「…そういうとこ、一也らしいよね…。嫌な奴。」
「はっはっは。褒め言葉だ」

そうやって神経逆なでするところも。
つかみどころのない、飄々とした、ちょっとむかつくところも…好きだった。

その後何を離したのか、あまりよく覚えていない。
他愛のない話をしているうちに、ふたりとも疲れから睡魔に負けて、眠ってしまった気がする。
バスのエンジン音を聞きながら、腕に冷たい冷房の風を感じながら、その日の試合で完投した私の右手だけが…とてもあたたかかったような気がする。



***



鳴に会ったのは、それからまもなくのことだった。
夕方練習が終わって、帰り道の途中で鳴が待っていた。電柱にもたれかかって、腕を組んで。
私が歩いて行くと、鳴は電柱から体を離して、待ちかねたように言った。

「遅い!練習はもうとっくに終わってたはずでしょ!」

相変わらずの唯我独尊…。私は小さく笑って鳴を宥めた。

「ちょっと監督と話してて…。」

私は今日でシニアを辞める。だから、最後の挨拶をしていたのだ。
すると鳴は何か気付いたようにはっと口を噤んだ。おかしいと思った。鳴には辞めることは何も言ってないのに、誰かから聞いたのかな、と汗まみれの頭で考えていた。

「あのさ…。」

鳴にしては珍しく、足元を眺めていた。呟くような声だったけど、私の耳にははっきりと届いた。

「来年、俺、稲実に行くから。」

私はきょとんとした顔をしていたと思う。

「…うん、噂で聞いたよ。すごい選手、たくさん集めてるんでしょ?」
「そうだよ。だからさ…、お前も来いよ。」
「え?」

鳴は酷く真剣な目で私を見つめた。

「稲実。一緒に行こう。」

私はしばらく考えて、口元を緩めた。

「…何言ってるの鳴。私は女だよ?それに…野球はもう辞めるの。一緒にプレーは、できないよ。」
「そんなこと、わかってるよ!」

鳴はだだっこのように叫んだ。

「選手としてじゃない。俺が誘ってんのは…」

鳴の顔は夕焼けに染まったように赤かった。

「お前のことが好きだからだよ。」

私は危うくバッグを落としそうになった。

「…え?」
「だからっ…付き合ってほしいって言ってんの!わかる!?」

照れ隠しだろう、鳴は怒ったように言うと、私を睨みつけた。私は動揺して、だけどすぐに落ち着きを取り戻して、冷静になった。鳴が本気で言っているのがわかったから、真面目に考えて、答えなきゃいけない、と思った。

「…ごめん。」

私は真剣に鳴を見つめ返した。
その時の鳴の顔は…本当に、悲しそうで、今にも泣きだしそうだった。

あの鳴が。

息をのむ私に、鳴は無理やり作ったような笑顔を向けた。

「…あっそ!この俺を振るなんて、絶対あとで後悔するよ!俺、結構モテるんだからね!」

鳴がそう言ってくれたから、その別れは、悲しいものでも苦いものでもなくなった。私は少しだけ笑顔になって、鳴を見つめ返した。

 


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