翌年春。

青道に来て、一也がいたから本当に驚いた。

だけど私たちはクラスは離れていたし、、一也は1年からレギュラーに選ばれたこともあって、会う機会は全くと言っていいほどなかった。
一也を目にするのは、全校集会や体育祭などのイベントと、時々、本当に時々、廊下ですれ違うだけ。

私は話しかけなかったし、一也も話しかけては来なかった。

そうして、当たり前のように何事もないまま、1年が過ぎた。
私と一也はもともと知らない人同士だったかのように、もう、目が合う事もなくなっていた。



***



矢が的に突き刺さる。
また矢をつがえる。
弓を引き、弦を引き絞る。

矢が風を切って飛んでいく。

的に突き刺さった瞬間、見計らっていたかのように先輩がタオルを持ってやってきた。

「お疲れ。」

もう部活も終わる時間だ。

「ありがとうございます。」

私はタオルを受け取って、壁にもたれて腰を下ろす。

野球を辞めてから、ずっとこの感覚が胸の奥に居座っている。
寂しさ。物悲しさ。満ち足りないもどかしさ。
だけどまたマウンドに立ちたいかと言われれば、私はきっと首を横に振る。
男子との体力の差。力の差。体格の差。
それに打ち勝ってやると思えるほど、私は強くなかった。

それに、何より怖いのは…私がマウンドで使えなくなったときの、一也の目。

大したことない奴だと、思われたくなかった。彼にだけは。
一也の中ではずっと、女子でエースナンバーを背負い、乱れないピッチングで完投する投手で、相手投手を揺さぶるクレバーな打者である、私でありたかった。

片づけを終えて着替えも済ませ、外に出ると、まだ冷たい風が鼻先を撫でていった。

明日は始業式だ。私は2年生になる。



***



翌朝、昨日と代わり映えのない校門を新鮮な気持ちでくぐる。
昇降口からすぐ目の前にある掲示板には、ずらりとクラス分けの紙が張り出されていた。

どこか緊張しながら2年のスペースへと向かう。人でごった返す廊下で、背伸びをして自分の名前を探した。A組…には名前が無い。
隣にずれて、B組の名前を見る。奥村、という苗字は、最初の5人くらいを見ればすぐにあるかないかがわかるからありがたい。
相田、伊藤、江口…見つけた。奥村#静#。B組だ。
自分の名前を見つけたところで、クラスメイト達の名前を順に見る。仲のいい女子は数名いるし、司も同じクラスだ。私は安堵する。
牧瀬司。私の一番仲のいい友達。その名前の二つ下に、胸の奥に焼き付いている名前を見つけて、私は立ち尽くした。

御幸一也。

一也と同じクラス。嬉しいのか、嫌なのか、自分の気持ちがわからない。
戸惑ったのは事実だ。どうしたらいいか正直わからない。

一也のことは、絶対に叶うことの無い恋だと、気持ちの整理を無理やりつけて、終わらせようとしていた。自分をここまで成長させてくれた恋。中学時代を充実させてくれた恋。感謝して、しまっておこう、と。

だから、一也との接点が増えるのは、困る。
ずっと好きでいつづけるのは苦しいし、辛いし、疲れてしまう。

教室に行く足取りは重かった。恐る恐るドアを開ける。
まだ人のまばらな教室には、一也の姿はなかった。

ひとまず安堵して、自分の席に着く。それでも、言い知れぬ緊張感が背中にまとわりついていた。

一也が来る。この教室に。

時計を見上げ、ため息を吐く。
時間が経つのが、とても長く感じる。

教室のドアが開くたび、顔を上げてしまって、その度に安堵のような落胆のような、どちらともつかないため息を吐いて、朝礼も始まっていないというのに疲れてしまった。

「あ、#静#おはよー!」

ドアが開くと同時に、よく通る声が教室中に響き渡った。私は目を丸くしながら、声の主、司に笑いかける。

「おはよ…朝から元気だね。」
「あたりまえじゃん!だってまた#静#と同じクラスになれたんだよ!?ほんっとーに嬉しい!!」
「そ…そっか」

「牧瀬、声でけーよ!廊下まで響いてんぞ」

開きっぱなしのドアから入ってきた倉持君が、笑いながら言った。その後ろに続いて入ってきたのは、一也。片手に持ったスコアブックに夢中になっている。たぶん、ここまで倉持君の背中についてきたんだろう。私が見上げても、全く気が付く様子はない。

「うるさいって?倉持に言われたくないですうー!」
「おーおーうるせー。おしとやかな奥村さんを見習え!」
「え…。」

突然話を振られて、つい戸惑う。しかしそんなことにはお構いなしに、司と倉持君は楽しげに嫌味の応酬を続けている。
司は男女問わず色々な人と仲がいい。倉持君もそれは例外ではなく、おそらく強面の彼にここまではっきりと冗談を言えるのは、女子では司だけかもしれない。

「倉持ー、俺の席どこ?」

教室に入ったところで立ち止まった倉持君にようやく気が付いた様子で、一也がスコアブックから顔を上げた。

「何で俺に訊くんだよ!そんくれー自分で見に行けや!」

倉持君に怒鳴られて、一也は面倒臭そうにため息を吐き、ふと視線を巡らせた。そして、目が合った。3秒か、…もっとか、わからない。頭が真っ白になって、私は咄嗟に、目を逸らした。

「…はぁ〜、めんどくせー。」

一也は何事もなかったように、黒板に張り出されている座席表を見に行って、窓際の自分の席に着いた。
…感じ悪かったかな。無視したと思われたかな。一也はどんな顔をしてたっけ。…そもそも、もう、私になんて興味もないのかも。

だって彼はプロも注目する天才キャッチャーで、1年からこの強豪青道のレギュラー、正捕手の座をつかみ取り、既にメディアに引っ張りだこ。加えて顔まで格好良いから、校内外問わず女子人気が高い。
私みたいなつまらない人間に、興味なんてわかないだろうし、構っている時間もないだろう。

我ながらひねくれていると思う。だけど、そう自嘲でもしていないと、彼が私と目も合わせなくなった理由を深く考えて、落ち込んでしまう。
私ももう別の方向を見ているのだと、そういう振りでもしていないと…辛すぎる。

一也は窓際の席で、春の柔らかな日差しを受けてスコアブックを眺めている。
あの頃から変わっていない。野球のことで頭がいっぱいな一也。

どこまでも突き進んで行く彼を、引き留めたくはない。



***



鳴が俺を誘った時、そこに勢ぞろいした強敵たちを前に、武者震いしたことは嘘ではない。
戦ってみたいと思ったし、礼ちゃんのスカウトに魅力を感じたのも本当。

だけど、やはり最後に残った迷いを断ち切ったのは、あいつが青道に行く、と言ったことだった。

追いかけてきたといえばそうなるんだろう。
高校に入ったら、この気持ちを伝えるつもりだった。

それをしなかったのは、中学卒業間近の冬、噂を耳にしたからだった。

『なぁ、#静#、成宮鳴に告られたらしいぜ』
『えっ!まじ!?』
『阿藤が先週の練習帰りに、成宮が告ってるとこ見たらしいよ。』
『そんで今付き合ってんの?』
『多分。だって成宮だぜ?ずっと目標にしてた投手じゃん。』
『成宮、顔も良いしね。確かに断る理由、ないよなぁ』

…なんだ。
そうだったのか。

なんか俺…馬鹿みたいじゃね?



それでも春はやってくるもので、入学式の日、俺は久しぶりに#静#の姿を見た。
会った、ではなく、見た、というのは、一言も声をかけることができなかったから。
始業式に向かう途中の廊下で、少し前を歩く後姿を見ただけ。春の日差しを受けて、あいつの髪が金色にキラキラ輝いていた。その髪に…その手に、成宮はもう触れたのか。
あの夏、あの試合で完投した右手。帰りのバスの中でこっそりと握った小さな手。
あいつが限界を感じているのはわかっていた。必死についてこようとしているのも。あの試合で、あいつは完璧な完投をしたけれど、相当無理をしていたことも。
だから、あの日バスの中で、あいつが野球を辞めると言った時、とうとう来たか、と思った。

寂しくなる。と、それくらいは言ってもよかったんじゃないか。
今ならそう思う。

あいつがどんな気持ちで、俺に一番に打ち明けたのか。
その意味に、当時は気付けなくて。

気付いた時、そして自覚したときには、もう手遅れ。
あいつは成宮を選んだ。

廊下で、校庭で、教室で、目が合ってもすれ違っても、避けられているのがその証拠。それでも、いつでも探してしまう。目で追ってしまう。#静#の姿を。



今日は始業式。
昇降口前に張り出されているクラス替えの名簿を見上げて、俺は驚いた。

#静#と同じクラス。

…まじかよ。どんな顔して会えばいいんだっての。

「げぇっ!!お前と同じクラスかよ!!」

隣の倉持が心底いやそうに顔をしかめて声を上げた。近くの同級生が怯えたような顔で倉持の傍から離れていく。あーあ、友達できねーぞ。

「まぁどうせお前友達いねーし、誰と一緒でも同じじゃん?」
「あ?テメーこそ友達いねーだろうが…シメるぞコラ」

倉持に小突かれながら踵を返すと、ちょうど向こうから歩いてきた麻生たちと鉢合わせた。仲がいいというわけではないが、野球部で毎日顔を合わせているから、会えば挨拶や世間話の一つ二つはする仲だ。

「おう…」
「ああ」

気まずい挨拶のあと、麻生は何気なしに切りだした。

「お前ら、何組?」

まあ、ここでの話題なんてそれくらいだろう。

「俺も倉持もB。」
「ツイてねーぜマジ…」

愚痴垂れる倉持を親指で差しながら言うと、麻生の目の色が変わった。

「B組だと!?まじか…くそっ!」
「え、何?どしたの麻生」

本気で悔しがる麻生を、傍で見ていた関が身を乗り出してくる。

「こいつ奥村さんと同じクラス狙ってたんだよ。な!な!」
「うるっせえ!!声でけえんだよ!!」
「奥村さん?」

倉持が興味がありそうな反応を示す。

「奥村#静#だよ…弓道部の。よく女子に姫って呼ばれてる…」
「あぁ、あのハーフみたいな?」
「そうそう」
「可愛いよな」

どこか意気投合する倉持と麻生。そう、#静#はモテるんだ…1年の頃から。
胸の奥がもやもやとして、俺はバッグからスコアブックを取出した。これを見ている時は、他のことを考えずに済む。

「おい御幸、こんな所で読むな!教室行ってからにしろよ!」
「だってつまんねーしぃ。倉持連れてって〜。」

面倒臭さを前面に押し出して言うと、麻生たちはそそくさとその場を離れる。

「あ、じゃあ俺たちももう行くわ。」
「倉持大変だな!な!」

「…あ〜〜ほんっとツイてねーー!!」

倉持は文句を言いながらも俺を教室まで誘導してくれる。やっぱこいつ面倒見いいわ。

倉持の背中にだけ意識を向け、廊下を進みながらスコアブックを見る。ここ動きが単調だな、俺だったら変化球入れて…

ふと、倉持が立ち止ってしばらく動かないことに気付いて、俺は顔を上げた。もう教室に着いたのか。

「倉持ー、俺の席どこ?」
「何で俺に訊くんだよ!そんくれー自分で見に行けや!」

倉持に怒鳴られながら、ふと視界の端の人物に目を移す。
胸がぎゅっと掴まれたような感覚がした。#静#が、驚いたような目で俺を見上げていた。

薄い青空のような瞳がじっと俺の目を見ている。目が焼き付いたように熱く、動かせなくなる。
何か声をかけてもいいのか。挨拶くらいなら。でも俺は、嫌われてるのかもしれないし。

迷っているうちに、#静#が目を逸らした。わざとらしい動作で、顔を背けるように。
そうだよ、無理に関わる必要なんてねーよな。

自分の席に向かい、スコアブックに目を落とす。余計なことは考えるな。いくら考えたって、あいつはもう、成宮と付き合ってんだから。

「あぁ〜、奥村さん、本当に姫って感じ。」

近くの席の女子たちがお喋りをしている。同級生の女子の一部は、#静#のことを『姫』とかなんとか呼んで、持て囃している。男には理解できない心理だ。

「色しろーい!足細ーい!羨まし〜。」
「なんかさ、二次元の人?って感じだよね。」
「頬杖ついてるだけなのに絵になる〜。額縁に入れて飾りたい。」
「何考えてるのかなぁ。」
「きっと王子様を待ってるんだよ…。」

なんだそりゃ。
女子って変なこと言うよな。

それにしても、王子様か。あいつにとってのそれは、やっぱり、成宮なんだろう。
成宮は他校でエースだし、それほど会う時間があるとは思えないけど。付き合う、か…。あいつらがねぇ…。デートしたり?手をつないだり?…キスしたり?…想像つかねぇな。

「御幸。始業式始まるから移動だってよ」
「おー」

いつの間にか倉持が前に立っていて、ポケットに手を突っ込んだまま俺を見下ろしていた。俺はスコアブックを閉じ、立ち上がって入口を見たところでかたまる。
ふたつある入り口のどちらにも他クラスの男子どもが群がっていて、とても出られる状況ではなかった。よく見ると他の学年までいる。

「え…なに?あれ」
「野次馬だってよ」
「何の?」
「奥村さんの」

は…?
俺は口をぽかんと開けたまま、教室の入り口付近の席に座る#静#を見る。仲のいい牧瀬と談笑しながら、野次馬に気が付いている様子はない。#静#は席を立って、教室の入り口に向かう。入り口に群がっている男共が色めき立つ。
俺は急いでその間に割り込んだ。

「はいはい邪魔邪魔〜」

教室を覗き込もうとする男共にお構いなしに割り込み、わざと肩でぶつかって押し返す。

「ヒャハハ!さすがデブ」

後ろを楽しそうについてくる倉持の強面も一役買って、教室の入り口は少し余裕ができた。

「もー、御幸!倉持!横入り!」

牧瀬がそう言いながら#静#を連れて倉持の更に後に続く。
#静#の反応はない。咄嗟に間に入ってしまったけど、わざとだったこと、#静#のことだから気付いてるだろうな。高校追いかけてきたくせに、1年間うじうじ話しかけても来なかった男が、わざとらしく自分の前に横入り…あれ、俺すっげぇダサくね?

初日の朝から軽くへこみながら、始業式を迎える。
これから1年、同じクラス。だけどあいつには成宮がいて、俺にはやらなきゃならないこと…野球があって、進展なんて望めないし、望んではいけない。そんな1年が始まる。
俺はこっそりと、ため息を吐いた。

 


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