まだ残暑が残る昼下がり。
薄暗く生ぬるい風がとどまる廊下を、倉持は気だるく歩いていた。もうすぐ昼休みが終わる時間。自販機でスポーツドリンクを買って、教室に戻る途中だった。
冷たいペットボトルを首筋に当てて涼みながらふと前を見ると、見たことのある女子生徒が視界に飛び込んできた。野球部のマネージャーで1年の、沢谷七花だ。いつもどおり廊下中の視線を集めながら、珍しいことに一人で歩いている。だからと言って、声をかける勇気があるわけでもないのだが。
それでも沢谷はいつも挨拶してくれるため、倉持は期待を捨てきれずに女子生徒を見つめた。窓の外を見つめていた二つの亜麻色の瞳が、ふっとこちらの視線につられるように前を向く。

「あ…」

沢谷が立ち止った。

「倉持先輩。こんにちは。」
「お、おう…」

それだけ言って立ち去ってしまうと思ったのだが、なぜか沢谷はまだ倉持を見上げている。

「あの、倉持先輩って、千葉県出身でしたよね?」
「え?ああ、そうだけど…?」

予想外の質問に、倉持の胸は躍った。あの沢谷が、俺に興味を持っている!逸る心を抑え、沢谷の言葉の続きを待つ。

「そうでしたよね!あの…駅の近くに、『はなや』っていう和菓子屋さんがあるらしいんですけど…知ってますか?」
「え?」
「…あ…、私、今度の日曜日、千葉の野球チームの練習試合を見に行くんですけど、ついでに高島先生からそのお店のおまんじゅうを頼まれてて。有名な老舗なんですよね?でも、地図を見ても道がよくわからなくて。」

恥ずかしそうに、冗談のようにそう説明する沢谷に、倉持は少しの落胆と納得を得た。

「そうか。まぁその店なら――」

よく知っている。商店街の近くにある古い店で、実家からも近く、何度も店の前を通ったことがある。有名店だとは知らなかったが――。
道を説明しようとした倉持だったが、ふと、大胆な考えが頭に浮かんで、それが口をついて出た。

「…今度の日曜なら、俺オフだから、案内するぜ?」
「え?」

目を丸くした沢谷を見て、倉持は押し寄せる後悔と急激に熱くなる顔とで頭が真っ白になってしまう。

「いえそんな!せっかくのオフなのに、悪いですよ。」
「いや、それは全然…、しばらく地元にも行ってねーし、気分転換にもなるからよ…」
「でも…」
「それに、地元の野球チームも気になるし…」

思ってもいないことを咄嗟に言ったのだったが、その言葉で思いがけず沢谷が微笑んだ。

「そっか!お知り合いがいるかもしれませんしね!」
「え、いや…、まあ、うん、そうだな。」
「じゃあ、あの…お願いします!」
「お、おう…」

深々と頭を下げて微笑む沢谷に、倉持は内心でガッツポーズをするのだった。



***


夜、倉持が部屋で外出願を書いていると、不意に声がした。

「あれ?倉持、明日どっか行くの?」

突然肩口にかけられた声に、倉持はぎくりと肩を震わせる。振り返ると、背後から覗きこむように亮介が身を乗り出していた。

「い、いや、ちょっと地元に。」
「へぇ?珍しいね?」
「ま、まぁ、たまには…」

亮介の勘は鋭い。倉持はなぜか後ろめたい気持ちになりながら精一杯誤魔化す。するとその時扉がノックされ、倉持は逃げるように扉へ向かった。開けると、珍しい人物が立っていた。
あまり話したことはないが、確か1年の…

「…東条?沢村ならいねーぞ。」
「はい。倉持先輩に渡すものがあって…」
「俺に?」

全く見当がつかない。疑問符を浮かべていると、東条は小さく折りたたまれたメモを取り出す。

「なんだこれ?」

開くと、綺麗な字で電話番号とメールアドレスが書かれている。

「沢谷からです。明日待ち合わせするのに、連絡先知らないと困るからって……え?」

ぎょっとして息をのんだ倉持の顔を見て、東条は思わず言葉を途切れさせる。冷や汗をかく倉持の後ろから現れたのは亮介で、その顔はおもしろいものを見つけたとばかりに輝いていた。

「ふーん、沢谷さんとデートなんだ?」
「ち、違いますよ!たまたま…!」
「座れよ。詳しく聞かせてくれるよね?」
「いやっ…だからっ…!」

…大変なことになったのかもしれない。東条はそっと、失礼しましたと呟いて、5号室の扉を閉めるのだった。




***


翌日。駅の改札前で、倉持はそわそわと時計を見上げる。待ち合わせの15分前。倉持はそのさらに15分前からここで待っていた。早すぎたか…と胸の中で呟く。するとその時、コツコツコツと軽い足音が足早に近づいて来て、倉持は振り向いた。

「すみません!待ちましたか?」

ふわりと、さわやかで甘い香りがたちこめて倉持は一瞬言葉を失った。焦ったような顔をして、ノースリーブのブラウスにショートパンツ姿の沢谷が立っていた。
倉持を見つけて、少し先から走ってきたのだろう。しっとりと汗の滲む額に前髪がはりついている。

「あ…、いや…、」

倉持は言葉を探しながら、何とかして首を横に振る。その様子に、沢谷は目を瞬いた。

「…どうかしました?」
「…え!?…いや別に…!」

倉持は誤魔化すように踵を返し、真っ白な頭で電光掲示板を見上げる。文字がちかちかして全く頭に入らない。すると沢谷が隣に並んで電光掲示板を見上げた。

「4番線ですね。もうホームに行きますか?」
「あっ、ああ、そうだな…」

焦るな落ち着けと自分に言い聞かせながら、倉持は改札を通る。ホームに立つと、何人もの人が沢谷を振り返る。中には、見定めるように倉持を見る人も…。
…周りから、カップルだと思われてるんだろうか。倉持は胸がくすぐったくなって、小さくため息を吐いた。



***



無事に目当ての練習試合を見届けて、目的の饅頭も買い、2人は駅まで戻ってきた。陽はまだ高い。なんとなく帰るのが惜しくなり、倉持は駅のロータリーに立つ時計を見上げる。

「先輩、ご実家には寄らなくていいんですか?」
「実家?いいよ、別に…」

めんどくせぇし、という言葉は胸に仕舞う。

「でも、まだ時間ありますし、せっかく一日外出許可をもらったんですし…あっ、私は適当に、その辺で時間つぶしてますから。」
「いや、それより…」

一緒にどこか行こうぜ。それだけだ。その一言を言うだけだ。
倉持は自分に言い聞かせ、意を決する。

「一緒に…」
「えっ?」

倉持の声は、突然響いてきた笛の音にかき消された。沢谷も音の正体を探して辺りを見渡し、倉持の様子に気づかない。倉持はがっくりと肩を落とした。

「先輩、なんですか、この音?」
「…あ?えーと…」

聞き覚えのある曲だった。風情のある、涼しげな笛の音。どこからか、鐘と太鼓の音も混じり始める。

「…ああ、商店街の夏祭りだ。もうそんな季節か…」

よく、仲間たちと行った祭りだ。屋台が出て、結構楽しいんだよな…。
倉持は懐かしく思い出して、ふと切なくなる。

「夏祭り…!」

沢谷が目をキラキラさせて倉持を見上げた。

「あの…よかったら…」

そう恥ずかしそうに口ごもる沢谷に、倉持は心臓が跳ねる。そして意を決して口を開いた。

「…行ってみるか?」
「!…はい!」

嬉しそうに顔をほころばせた沢谷を見て、倉持は赤面してはにかむのだった。


***



賑やかな商店街に、鮮やかな提灯と屋台が立ち並ぶ。

「今年もこのメンバーで祭りか〜。」

落胆とも思えるため息とともに、仲間のうちの一人が言葉をこぼす。りんご飴を舐めながら横目に見ていたもう一人にもため息が伝染する。

「いい加減彼女作れよ、お前ら。」
「お前もな!」

そう言い合いながらも、なんだかんだ同じメンバーでいるのが気楽で楽しいのだった。しかしふと、それまで黙っていた一人が、ぽつりとつぶやいた。

「…洋ちゃん、今頃何してんのかなァ。」

一瞬の間、全員が黙り込む。彼がどんな気持ちで自分たちから離れていったのか、それを考えると今でも後ろめたく、申し訳ない気持ちになるのだった。

「……あれ?…なあ!あれ!あそこ!」
「…なんだよ?」

突然一人が声を上げて、黙り込んでいた面々が頭を上げる。

「あれ!洋ちゃんじゃねぇ!?」

全員が息をのんだ。そんなことがあるわけ…、と呟きながら、仲間が指差す方向に目を凝らす。人混みの中に、その少年はいた。誰かと一緒にいるようで、何かを言い、驚き、笑っている。そのとき、ヒャハハ、と聞き慣れた笑い声も聞こえて、仲間たちは顔を見合わせた。

「洋ちゃん!」

気付いた時には全員駆け出していて、人込みをかき分けるようにして倉持の元へ向かった。

「洋ちゃん!」

もう一度呼ぶと、倉持が振り向いた。それから驚いた様子で息をのみ、立ち止った。

「洋ちゃん…久しぶり…」

その時にはもう、倉持のすぐ目の前まで近づいていた。いざ目の前に立ってみると、緊張してしまってうまく話せない。口ごもって顔を見合わせる仲間たちに、倉持が何か言いかけた時、その隣から、倉持の腕に掴まって、ひょこっと少女が顔を出した。
仲間たちは虚を突かれて言葉を失った。そして少女をまじまじと見て、動揺と緊張とで声が出ず、口をパクパクとさせた。
少女は倉持を見上げ、倉持は顔を赤くする。

「…あー、中学ん時の…ダチ」

倉持が言うと、少女は柔らかく微笑んだ。その愛くるしくも綺麗な微笑みに、仲間たちは言葉も忘れて見惚れた。

「…こんにちは。」

少女がその微笑みを向けてぺこりと会釈をする。大きな瞳。ぷっくりとした桃色の唇。さらりと艶のある綺麗な黒髪。倉持の腕にそっと掴まる、細くしなやかな白い腕。
こんな綺麗な女の子、初めて見た…。仲間たちはごくりと唾を飲み込んだ。

「かっ……」
「………彼女?」

何とか声を絞り出して聞くと、倉持と少女がにわかに赤くした顔を見合わせた。

「…ち、ちげぇよ!後輩!」

倉持が慌てたように言い、少女が困ったようにはにかむ。その初々しい二人の様子を見ていると、胸がムズムズと痒くなる。

「…お前らは?元気かよ。」
「う、うん…洋ちゃんは…」
「…まぁ、普通。」
「…聞いたよ!この間の試合…洋ちゃん、青道でも大活躍だなって…」
「……。」
「お、俺ら…応援してるから!」

その言葉を聞いて、倉持はかたい表情にやっと微笑を浮かべた。

「…ああ。さんきゅ。」

そして踵を返し、片手を挙げる。

「わりぃけど…俺らもう帰らねーと。電車の時間があるから…じゃあな。」
「あ…うん…」

まだ蟠りが完全に溶けたわけではない。けれど人混みの中に消えていく倉持の背中を、仲間たちはどこか晴れやかな気持ちで見送った。

「…あ〜〜、俺も野球続けてればよかったなぁ!!」
「…お前じゃ洋ちゃんにはかなわねーよ。」
「わかってるよ、んなこと!」

悪態を吐きあって、ふと黙り込んで、全員がため息を吐く。

「…洋ちゃんにあんな可愛い彼女ができるなんて〜〜〜!!!」
「…彼女じゃねぇっつってたけどな。」
「ふたりっきりでわざわざ地元の祭りに来ておいて、彼女じゃねーわけねぇだろ!!」
「くっっっそ羨ましい!!!ちくしょー!!」

仲間たちは喚き合って、それから昔のように大声で笑い合った。

 


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