「おっ」

楽しさをにじませた短い声がして、沢谷はスコアブックから顔を上げた。

「ラッキー、七花ちゃんだ。」

からかうような物言いで、にやりと笑みを浮かべながらやってきたのは御幸だった。御幸は沢谷をまじまじと眺め、ん〜、と顎に手をやってしかめつらをする。

「俺、七花ちゃんはポニーテールより下ろしてたほうが好きだなぁ。」
「御幸先輩の好みは聞いてないです。」

ぴしゃりというと、御幸はケラケラ面白そうに笑って、当たり前のようにベンチの隣に腰かけた。

「あー…やべぇ、眠くなる」

御幸の呟きに、沢谷はこっそりと同意した。
昼下がりの学校の中庭。欅の大木の下のベンチで、木漏れ日が躍る中涼しい風が首筋の汗をさらっていく。
御幸はあくびを一つし、腕時計を確認した。

「仮眠するわ。5分したら起こして。」
「え"…」
「え?七花ちゃん膝枕してくれるって?」
「なんでですか!しないですよ」

軽く腕を叩いて抗議すると、御幸はまた少し笑って、腕を組んで俯いた。

「じゃ、おやすみー。」
「ほんとに寝るんですか…。」

沢谷は横目で呆れた視線を送って、再びスコアブックに目を落とした。
静かな時間が過ぎていく。この時間、ここを通る人はほとんどおらず、耳に入るのは頭上で欅の葉がざわめく音だけだ。
しばらくスコアブックを眺めていた沢谷だったが、何となく落ち着かなくて、迷った末に髪を解いた。少し手ぐしを入れて、髪を整える。いつも丁寧に手入れをしている髪は、心地良い風になびいて、指の間をさらさらとくすぐった。

「……んだよ…」
「……?」

隣の御幸が何かを呟いた気がして、沢谷は隣を見る。俯いた端正な横顔が見える。こめかみに汗が伝い、首筋もじっとりと汗がにじんでいる。

「…無理…」

御幸の唇がかすかに動いて、沢谷の耳にその小さな声が聞こえた。

「先輩?…起きて…ます?」

からかわれているのかもしれない。沢谷は疑い深くそう考えて、御幸の顔を観察する。すると御幸は大きく傾いて、背もたれをずるずると滑り、沢谷の肩に寄りかかった。

「えっ!?…あの…」

どうしていいかわからず沢谷は戸惑ったまま固まった。耳元で御幸の寝息が聞こえる。
…寝てる…のかな?
にわかには信じられず、沢谷はまだ疑念を頭の隅に残して思案する。御幸を揺り起こすべきか。押し返すべきか。…このまま肩を貸すべきか。

「…無理なんだって…」
「……?」

ぽつり、と御幸が呟いた。

「俺…キャプテン…んて……向いてねー…だよ…」

――え?

「そんなこと――」

言いかけて、御幸の寝息に気付いた。今のは寝言だったのか。無意識にこぼれた、弱音だったのか。
普段の飄々とした御幸からは想像もつかない言葉だ。沢谷は黙り込み、御幸の体温を感じた。

「もう…無理…」
「……。」
「……もう無理…なんだって……もう…」

ぐっと御幸の体に力がこもったのを感じて、沢谷は視線を動かした。

「…ああもう!」

突然起き上がった御幸に、驚いて目を瞬く沢谷。御幸の顔がみるみるうちに赤くなったり青くなったりしている。

「……あれ?俺…今………何か言ってた?」
「いや……あの…べつに……」

引きつって取り乱した顔で尋ねる御幸に、沢谷は目を泳がせながら曖昧な返事をする。その態度で御幸は赤い顔を両手で覆ってしまう。

「うわーっ!何!何つってた俺!?」
「よ、よく聞き取れませんでした」
「いや…嘘だろ、うわ、はっず…」

顔を両手で覆ったまま動かなくなった御幸を、沢谷はそっと盗み見る。耳まで真っ赤だ。いつも人をからかって、意地悪で、調子のいい先輩。本当は本音を隠して強がっていただなんて、そんなの…格好良すぎるじゃないか。
にわかに顔が熱くなって、沢谷は俯いた。

「…あれ、そういえば七花ちゃん、何時の間に髪解いてんの?」
「え…」

沢谷は言われてようやく思い出して、自分の髪に触れる。じわりと頬が熱くなる。

「…え、何なに、俺が下ろしたほうが良いって言ったから…」
「ちがっ…います!ちがいますから!…なんとなく!」
「嘘だぁ〜七花ちゃん可愛い〜」
「う…うるさいっ!ばか!」

沢谷は立ち上がって、スコアブックを投げつけ、逃げるように校舎に向かって走る。ちょうど予鈴が鳴った。そのまま振り向きもせず廊下を駆け抜けて教室に駆け込み、席に着く。前の席の東条が不思議そうに振り返る。
どうかしたのかと聞かれ、何でもないと答えながら、沢谷はいつまでも熱い自分の肩にそっと触れ、戸惑うのだった。

 


ALICE+