沢谷は薄暗い空を見上げた。
野球部の練習が終わる帰宅時間には、すっかり陽が落ちてしまう。他の女子マネージャーは皆、帰り道が駅方面のため、沢谷は一人で帰ることも多い。にぎやかな通りの傍を通るため、街灯や人通りはそれなりにあるが、代わりに変な輩も多いのだ。例えば…

「こんばんは〜。高校生?めちゃくちゃ美人っすね!」

…こういう輩だ。

「名前教えてよ!あと電話番号!てかこれからちょっとお茶しません?」
「…しません!」

足早に歩いているのに、しつこく食い下がって並んでついてくる。沢谷は俯いて走り出そうとした。

「おいっ、ちょっと待ってよ。ナンパとかじゃないから!君さ、いつもここ通ってるでしょ。俺そこのバーで働いててさ。いつもキレーだな〜って思っててさ、話だけでも…」
「…!?」

腕を掴まれて、沢谷は立ち止った。引っ張ってみるが、強い力で振りほどけない。腕を掴む男の手の指先が、力がこめられ白くなっている。手首が鈍く痛む。
サアッと背中が冷える。足が竦む。しつこく声をかけられたり、軽く肩を掴まれることがあっても、こんなに強く腕を掴まれたのは初めてだ。

「…じゃ、名前!名前だけ教えて!その制服、青道だよね?何年生?」
「は…離して…ください」
「離すからさ、名前教えてよ。」

「沢谷?」

聞き慣れない声が自分の名前を呼んで、心臓がぎゅっと跳ねた。沢谷と男が振り向くと、そこには大きなスポーツバッグを軽々とぶら下げた、長身の青年が立っていた。そこにいるだけでどこか威圧的な雰囲気のある、堂々とした佇まいの青年だ。ほとんど話したことの無い相手だったが、その顔には十分に見覚えがあった。野球部の主将、3年生の結城哲也だ。

「ゆ…結城先輩。」

震える声をこぼす沢谷の、細い右腕を掴む男を、結城はじろりと睨む。すると蛇に睨まれたように、男はあっけなくその手を離し、情けなくもへらへらと逃げ腰で、誤魔化すように逃げていった。

「何があったんだ?」
「…突然…声をかけられて…」

思い出しながら話し始めると、にわかに顔が熱くなって、ころりと頬を何かが落ちた。足元に落ちていくしずくを見て、沢谷は自分が泣いていることに気付いた。

「大丈夫か?」
「大丈夫…です」
「怪我は?」
「ないです…」

涙をぬぐう細く白い手首が赤くなっているのを、哲也は苦い気持ちで見つめた。

「送る。一緒に帰ろう。」
「え…でも…」
「俺もこっちだからな。」

そう言って歩き出す哲也に、沢谷は静かに従った。


***


翌日の帰り、沢谷が暗い気持ちで学校を出ると、校門の傍に哲也が立っていた。哲也は沢谷を見つけると、待っていたようにこちらを見て、軽く手をあげる。

「今日もひとりで帰るのか。」

なんとなく責められている気持ちになって、沢谷は俯いた。

「…はい。みんな、逆方向なので…」
「じゃあ、一緒に帰ろう。」
「…え?」
「同じ方向だから。」

そう言われては拒む理由もない。沢谷は頷いて、哲也と並んで歩く。
昨日の問題の道に差し掛かると身が竦んだが、哲也が堂々と隣を歩いていると、不思議と臆さず歩けた。

沢谷の自宅の前に着き、2人は立ち止る。

「ありがとうございました。」

沢谷がお礼を言うと、哲也はいつも通り微笑して、ああ、と頷いた。

「先輩の家、ここから近いんですか?」
「ああ。」
「…知りませんでした。マネになるまで、会ったこともなかったですし…」
「ああ。じゃあ、また明日な。」
「あ…はい…」

そう言って歩いてきた方とは逆の道へ歩いていく哲也を、沢谷は見送って家に入った。哲也の帰路は、この家の前を通るのか。今まで知らなかったなと思いながら、いまひとつ腑に落ちないのだった。


***


「今日はもう、すっかり暗いわね。」

貴子が空を見上げてため息を吐く。

「七花、本当に帰り一人で大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。」

片づける手を休めないまま、沢谷は明るい声で答える。

「それに最近は、結城先輩が一緒に帰ってくれるんです。私の家、通り道らしくて。」
「え?……。」

貴子が心から驚いた様子で手を止めたので、沢谷も目を瞬いて手を止めた。

「…七花の家って、たしか、十字路の方よね?」
「はい、そうですけど…。」
「結城君の家はもっと手前のはずよ。学校から徒歩で5分かからないって言ってたもの…」
「…え?」

顔を青くして戸惑った沢谷に、貴子は優しい微笑みを向ける。

「結城君、さりげなく遠回りして送ってくれてたのね。」
「ええー!何それ優しすぎ!格好良すぎ!」
「紳士ですね。」

2年のマネージャーたちが盛り上がる中、沢谷は戸惑いを抱えたまま仕事を終えた。
その後戸締りをして先輩や春乃たちと別れ、ひとり北の校門に向かうと、やはり結城哲也が立っていた。哲也は沢谷を見つけると、少し体をこちらに向けて微笑を浮かべた。

「帰るか。」

短くそう言って歩き出す哲也に並んで歩く。

「…先輩。」
「なんだ?」

いつもは黙って歩く沢谷が話しかけてきたので、哲也は少し驚いて隣を見た。

「先輩の家って…本当はどこなんですか?」
「…?」
「本当は…いつも、遠回りしてくれてるんですよね?本当はもっと、学校から近いんですよね?」
「……。」
「貴子先輩から聞きました。」
「…あそこ。」
「え?」

哲也は、田んぼの向こうの土手の、さらに向こうに見える平屋を指さした。

「あれが俺の家だ。」
「え…!?」

沢谷が立ち止り、哲也も立ち止った。

「じゃあ…あの…もう、ここでいいです。」
「どうしてだ?」
「だって先輩、すごい遠回りじゃないですか!」
「いい、走ればトレーニングにもなる。」
「いや、でも…」
「それに、お前を一人で帰らせるわけにはいかない。」
「…それは…ありがたいですけど、でも…」
「この間のような奴に絡まれているのを見て、放っておけるか。」
「あの時は……本当に、たまたまで…」
「それとも…、お前は一人で帰りたいのか?」

哲也の落ち着いた声と共に、あの日の恐怖を突き付けられた気がした。この質問に頷けるほど、沢谷は強くなかった。黙り込んだ沢谷に、哲也は優し気な微笑を向ける。

「違うなら、最後まで送らせてくれ。俺がそうしたいんだ。」
「……。」
「嫌か?」
「嫌とかじゃ、なくて…だって、私のことなんて先輩には関係ないことなのに、迷惑じゃ…」
「関係ないなんて、俺は思ってないがな。沢谷は大切な後輩だ。」
「……。」

うるんだ目で足元を見つめたままの沢谷に、哲也はしばらく考えていたことを尋ねた。

「…じゃあ、付き合うか?」
「……。……ん…、…えっ!?」

ぽかん、と沢谷は口を開いて哲也を見上げる。普段美人だなんだと騒がれている高嶺の存在の彼女が、そんな無防備な表情で自分に気を取られていることに、哲也は奇妙な嬉しさを感じた。

「それって…どういう意味ですか?」
「そのままの意味だが?」
「え、えっと、付き合うって…私と結城先輩、が?」
「ああ」
「彼氏と…彼女に?」
「そうだ」
「……なんでそうなるんですか!?」
「俺が他人だから、送ってもらうことに気兼ねがあるんだろう。恋人になれば話は変わる。」
「そ…そう…かもしれませんけど!私はそんなつもりで言ったんじゃなくて…!」
「嫌か?」
「嫌っていうか…!こんな理由でそんなこと、提案しちゃだめですよ!」
「じゃあ、送らせてくれるか?」
「……っ!」

沢谷は口を引き結んで、少し悔しそうに唸り、しかしすぐにこらえきれない様子ではにかんで、はい、とうなずいた。

「結城先輩って、変わってますね。」

歩き始めてしばらくして、先ほどまでよりもずいぶん柔らかい態度で沢谷が言う。

「そうか?」
「そうですよ。突拍子もない冗談言って…」
「冗談?」
「え?だから、付き合うとか……え…?」

言いかけて、沢谷は哲也の顔を見上げ、言葉を途切れさせる。

「冗談のつもりはないぞ。断られて、残念だ。」
「え…だって……、え……!?」

ふっと意味深な笑みを残して歩く哲也を、沢谷はぽかんと見つめて、慌てて追いかけた。

「あんな冗談みたいな流れで……、…ずるいですよ!」

ははは、と哲也が笑い声をあげて、沢谷は驚いて目を丸くする。哲也がこんな風に笑うのを始めて見たからだ。普段のオーラをまとった近づきがたい先輩ではなく、年相応の、無邪気で悪戯っぽい、はしゃいだ笑顔。
顔を赤くして言葉を失う沢谷に、数歩先を歩いて行った哲也が立ち止まって振り返った。

「どうした?行くぞ。」
「……!」

その微笑に、沢谷はやはり悔しさのようなものを感じながら、それでも胸に温かいものを感じて、戸惑いながら追いかけていくのだった。

 


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