古い本のにおい。店には俺たちの他に店主の親父がカウンター前にいるだけで、ヒーターのカチカチという音が静寂の中に響く。白色蛍光灯の寒々しい光の下、少し萎れたような本がびっしりと並んでいる通路に俺は立っていた。
あ…この本、昔クリス先輩に貸してもらったやつだ。懐かしいな…。
…あー、何でこんなことしてんだろ、俺。
つーか、その田中茜とかいう女が来るとも思えない。人から聞いた噂だけを頼りにわざわざ見に来るやつがいるか?信憑性もないのに。…そもそも来てどうするんだよ。いや…来ねえだろ、普通。うん、来ない来ない。来るわけねーって…

「あの…もしかして、御幸一也さんですか?」
「え?」

突然かけられる聞き慣れない声。隣を見ると、ベージュのコートを着た少し幼い顔立ちの女が自分を見上げていた。

「あ…やっぱり!御幸一也さん、ですよね?」
「…はい。」

え…まさか、こいつが?よく見ると…この間見たアルバムの写真に似ている、気もする。

「あの、覚えてないかもしれないけど、私同じ青道に通ってた…田中茜です。」

ま…マジか…。本当に来た…。

「あ…そうなんだ。」
「覚えてない…ですよね。」
「…スイマセン。」
「いえ…学年も違うし…。」

田中は目を伏せると、口元に手をやって、悲しそうに眉を下げた。お…オイオイ、泣くんじゃないだろうな…?

「…あの!今、お一人ですか?」
「え…」

急に顔を上げて、田中がすがるような目をして言う。本当は、店の奥に光と牧瀬もいるけど…。

「まあ…。」

頷くと、田中は嬉しそうに頬を緩めた。

「あの…じゃあ、ちょっとお話してもいいですか?」
「ああ…ははは。」

肯定も否定もせず曖昧に笑う。

「このお店、よく来るんですか?」
「まあ…たまに。」
「そうなんですか…じゃあ、私もまた来ちゃおうかな…。」

ちらり、と俺を上目づかいで見る田中。背後から感じる刺すようなオーラ。牧瀬…フォロー頼むぞ…マジで…

「…っていうか…正直、ちょっと悲しかったです。」
「え?」

田中は急にしおらしく俯く。

「先輩が私のこと忘れちゃってて…」
「あー、いや…ごめん。…話したことあったっけ?」
「えぇ?ひどいなー…ふふっ。私、1年生の頃…先輩に告白したんですよ。」
「…え!?」

田中は驚いた俺を面白がるようににやにやと見上げる。

「思い出しました?」
「えー…と」
「ちょうど2学期が始まった頃…だったなぁ」
「2学期…?」
「校舎裏に、手紙で呼び出して…最初先輩がいなかったから、来てくれなかったのかと思って、泣いちゃいそうでした。」
「……。」
「まあ、そのあと見事にフラれちゃって、結局泣いちゃったんですけど。ふふっ」

……あ!も…もしかして……この子、俺が光と出会った時の……

「思い出しました?」
「……。」
「…まぁいいや。」

田中はどこか嬉しそうな微笑みを浮かべたまま、バッグから小さな紙を取り出した。

「御幸先輩。もしまだ…私が…先輩のことを好きだって言ったら…どうしますか?」
「…俺、結婚してるんだけど」
「知ってます。でも…」

田中は小さな紙を俺の胸元に押し付ける。

「…連絡待ってますから。」

それだけ言って、田中は踵を返し、店を出て行った。押し付けられた紙を見て、ため息が出る。

「御幸さん、大丈夫でした?」

店の奥から牧瀬と、刺々しいオーラを纏った光が現れる。

「…それなんですか?」

牧瀬は光を宥めながら俺の手元を見た。俺は紙を見て、頬を掻く。

「…連絡先」
「わお」

面白おかしく茶化す牧瀬の存在が今はありがたい。

「いやーでも見事に来ましたね。」
「どこが見事だよ、結局犯人かどうかはわからず仕舞いじゃん」
「でも有力候補ですよ!」
「そうかぁ…?」

ため息を吐く俺の手元の紙を、牧瀬はじっと見つめる。

「それ…連絡、するんですか?」
「は!?しねぇよ…」

おい…光に油を注ぐようなことを言うなよ。牧瀬は光をちらりと見、俺の手から紙を奪い取る。

「じゃ、これは私が預かっておきますね。」
「あ…、あぁ。」

まあそのほうが俺も助かるし…。奪われた紙は大人しく渡すことにする。

「つーか、なんか疲れたわ。帰ろうぜ」
「はい。」
「……。」

…光の機嫌が悪い。俺悪くねーのになー。
牧瀬をいつもの場所で降ろし、車内に二人きりになると、静寂が流れる。

「おーい」
「……。」
「いつまで不機嫌なんだよ。」
「……。」

あーあ、だめだこりゃ。車を路肩に停め、そっぽを向いている光の頬をつつく。

「俺なにも悪い事してないんですけどー」
「…わかってます」

お、返事した。

「じゃあ機嫌なおせよ。」
「……嫌です」
「えー…」
「……キスしてくれなきゃ」
「……え」

え?今なんつった?俺の聞き間違い…じゃないよな?
彼女の膝の上の小さな手を掴む。すべすべで、柔らかくて、少し冷たい。

「…こっち向いて。」
「……。」

光は赤らめた顔で俺を見た。あー…ほんと可愛いな、こいつ。
小さな顎をそっと持ち上げて、光の甘そうな赤い唇に唇を重ねる。…本当に少し甘い気がする。甘いものは苦手だけど…この甘さは好きだ。柔らかい。気持ちいい。ゆっくりと、互いの唇を擦りあわせるように…舐めあうように。握っている光の手が開いて、指を絡ませてくる。俺はその手を握り返す。
ちゅ、と音を立てて、俺たちは唇を離した。

「……。」

光は俺の顔を見つめて、目を潤ませる。

「……好き」

その零れ落ちた声に、俺の胸は締め付けられ、思わず頬が緩む。

「…知ってるよ」

そう答えて、また小さなキスをして、思いついて言葉を付け足した。

「俺もお前が好きだよ。」

すると光は安堵したように微笑んで、つないだ手の上にまた手を重ねた。

 


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