012
「御幸、倉持。後輩が呼んでるぞ」
翌日、昼休みにクラスメイトからそう声をかけられ、廊下へ出てみると、そこにいた意外な人物に俺たちは目を丸くした。
すらりとした長身の、ショートカットが似合うスポーティーな女子。確か、名前は…牧瀬司。
牧瀬は俺たちを見つけると、礼儀正しくお辞儀をした。
「休み時間にすみません。私、光と同じクラスの牧瀬といいます。光が先輩たちに話したいことがあるそうなんですけど、今、お時間よろしいですか?」
余りの礼儀正しさに圧倒されながら、俺たちは顔を見合わせて頷く。
「じゃあ、別棟まで一緒に来てください。すみませんが、話の内容もアレだし、光がいると人が集まっちゃうので…。」
「お…おう。」
それでこいつが呼びに来たのか。確かに、前に玉城が俺のクラスに来た時も、廊下はすごい騒ぎになっていた。モテすぎるのも苦労が多そうだな。
「こっちです。」
別棟の特別教室が並ぶ廊下の一番奥、ほとんど誰も使わない階段の、最上階の踊り場に俺たちは案内された。2年間この学校に通っていて、こんなところ来たことが無かった。放置されて少し埃が溜まった、誰も使わないらしい古い机他椅子の間を通り抜け、俺たちは行き止まりまで進む。そこに、玉城と哲さんが待っていた。
「来たか。」
哲さんは俺たちを見て、少し奥へ詰めた。狭い空間に、5人が輪を作るように立つ。
俺たちが揃うと、哲さんは優しい笑みを浮かべて、何かを促すように玉城の背中に手をやった。玉城は頷いて、俺と倉持を見る。
「あの…御幸先輩、倉持先輩。昨日は、本当にありがとうございました。」
少し涙ぐんだ声で言い、玉城は深く頭を下げた。
いや、と、俺も倉持も、少し動揺しつつ玉城を宥める。
「…昨日、あのあと交番へ行って、話をしてきたんだ。」
哲さんが口を開き、皆の視線がそちらへ向いた。
「今、警察が犯人を捜索している。車の特徴と凹みが有力な手掛かりになるそうだ。」
「ヒャハッ、じゃあ、結果オーライっすね」
「ああ。だが、これから秋大もあるのに、何かあったら困るだろう。犯人に蹴りを入れたのは、お前だという事は伏せておいた。」
「は…はい、すんません…」
しょぼくれる倉持を見ると、どうやら顔がにやけていたらしい。わき腹をどつかれた。
「とにかく、登下校時は俺が送ることにする。」
哲さんが言うと、牧瀬が頷く。
「先輩の都合が悪い日は、私が行くので、ご心配なく!」
「お前も女子だろう。あまり遅い時間に出歩くな。それに、牧瀬は逆方向だろう。」
「だーいじょうぶですよお。私、ジャージ着てれば男と間違われるんで!それに、柔道やってたし!」
「…まあ、俺の都合が悪い日は、まずないから大丈夫だ。」
「ごめんなさい…」
小さな声が薄暗い踊り場に響いた。
「皆に…迷惑かけて…」
涙声で、俯いた玉城が呟いていた。その肩は震えていて、玉城の足元に、ちらりと光る小さな粒が零れ落ちていった。
「も…もーっ!そんなこと気にしなくていいの!光が無事でよかったよ!それに、迷惑なんて思ってないんだから!」
牧瀬が玉城を抱きしめて、頭をわしゃわしゃと撫でながら言う。そのぬくもりで感情が溢れたのか、玉城の喉元から小さな嗚咽がこぼれた。
その震える小さな肩に、哲さんが優しい動作で手を置く。哲さんの大きな手が乗ると、玉城の小さな肩は、さらに華奢に見えた。
「そうだぞ。ほら、もう泣くな。」
牧瀬の肩口から顔を上げた玉城が、涙の滲む瞳で哲さんを見上げ、頷いた。
俺は、玉城の小さな手が牧瀬のセーターを心細げに掴んでいるのを、ぼんやりと見つめていた。
***
それから数日が過ぎ――
「お」
食堂前の自販機で、俺は玉城を見つけた。玉城は、ちょうど出てきたペットボトルを取り出したところで、俺を振り返った。驚いた――ような顔をしていた。あまり嬉しそうな顔ではなかった。どちらかというと、苦々しい、嫌そうな…。
「…こんにちは。」
玉城は小さく呟いて、そそくさと去って行った。まるで逃げるように。
ここ数日、ずっとこんな調子だ。あの騒ぎがあってからずっと。結局、メールの返事もないし。
…本格的に嫌われたかな。でも、原因は何だ――?
考えてみても、これだと思うものはない。となると、もう、「生理的に無理」ってやつなのか、と凹む。
あの日、俺に抱き着いてわんわん泣いていた玉城を思い出すと、正直、もしかして――なんて思ったんだけど。
現実はそう甘くないみたいだ。
俺は麦茶を買って、自販機を後にする。階段を下りていくと、下の踊り場から声が響いてきた。
「――理由を教えてくれないか?」
怒りの滲んだ声だった。俺は思わず足音をひそめ、上から踊り場を覗き込む。
そこには、玉城と、見知らぬ1年の男がいた。見た限り、男が玉城を詰問しているように見えた。
「メールも電話も出てくれないし…俺、何かした?」
「…だから……メールも、電話も、もう無理だって…言ったでしょ」
「だから、それはなんでなんだよッ!?」
男の怒声に、玉城の肩が大きく跳ねる。おいおい…やりすぎだろ。何なんだよ、あの男。
「…今は誰とも付き合ってないんだろ!?じゃあ、いいじゃねーか!メールくらいしてくれたってよ!!」
この恫喝で、玉城が振り向くとでも思っているんだろうか。だとしたら、馬鹿だな。糞野郎だ。
「…ごめん…なさい。」
「ハァ!?」
田中、とやらが、勢いよく玉城の腕を掴んだ。玉城は肩を竦め、一歩後ずさりした。おい…、これ、やべぇんじゃねーの?
「は…離して。」
玉城が震える声で言うと、田中はわざと腕を掴む手に力を込めた。玉城が抵抗する。
「い…痛い…!」
俺は階段を駆け下りた。
「おい!」
一声上げると、田中は心底驚いた顔で青ざめ、玉城から手を離した。
「何してんだよ。」
「え…。いや…」
田中は目を泳がせ、後ずさりしていく。
「1年の田中?お前、覚えとけよ。」
「え……あ……」
「チッ…さっさと行けよ。」
「は…はいっ…」
田中がちょろちょろと逃げていき、俺は玉城を振り返る。
「お前、よく変な奴に絡まれんのな。」
「……。」
玉城は青白い顔で震え、自分の腕を擦っていた。
「腕、痛めたのか?」
「…いえ…」
「見せろよ。」
先程のこともあるし、躊躇ったが、俺はできるだけ優しく玉城の腕に触れた。少し頑なだったその細い腕は、優しく引くと、ふっと力が抜けたように仰向けに伸びた。そしてその真っ白な手首に、赤黒い痣が浮かんでいた。
「……。」
「……。」
俺たちはしばらく痣を見て黙っていた。俺は手首をつかんだまま、親指でその痣をなぞった。
「…冷やすぞ。」
「え…」
俺は玉城の手を引き、歩き出した。玉城は抵抗もなく、しずかに手を引かれたまま、俺のあとを歩いた。
***
医務室には誰もいなかった。だが、何がどこにあるか、大体のことは把握している。
ビニール袋に氷と水を入れて縛り、玉城をベッドに座らせ、その向かいに椅子を持って来て座り、ポケットからハンカチを出した。
「腕出せ。」
「…はい」
大人しく従う玉城の腕にハンカチを載せ、その上から氷水で痣を冷やす。
玉城は口を噤んでいたが、そわそわと俺を見上げた。
「何?」
「あ…いえ…」
一度はそう答えたものの、玉城はまた俺をちらりと見上げ、口を開いた。
「…あの…部活は…?」
「今日は主力はオフ。」
「…そ…うなんですか…」
また黙り込む。手の中の玉城の細い腕が冷たくなっていく。
か弱くて柔らかい、消えてしまいそうな腕。腕だけじゃない。消え入りそうな震える声も。今放っておいたら、玉城はきっとどこかへ行って、もう二度と会えないような気がした。
沈黙が流れる。トク、トク、と玉城の鼓動が腕を伝って指先に響いてくる。辺りは静かだった。玉城も俺も黙ったまま、氷水の入ったビニールの擦れる音を聞いていた。
冷やしとけよ、とだけ言ってあとは玉城を置いていくこともできたのに、俺は、そうする気が起きなかった。
力の抜けた玉城の白い手を眺める。細くて、しなやかで、指先はほんのり桃色で…
「…綺麗だな」
思わず、呟いていた。
しまった、と思った時にはもう遅く、玉城がぽかんとした顔で俺を見ていた。
「あっ、いや、手が…」
慌てて言い訳したものの、全く意味をなしていない。却って恥ずかしくなって、俺は言葉を失った。
玉城は視線を落として、眉を寄せて呟いた。
「……きも。」
…凹む。だが、いつもの生意気な玉城を久しぶりに見た気がして、安堵のようなものを感じてしまうあたり、更に凹む。やっぱり俺、嫌われてんじゃねーのか?
…そろそろ、十分冷やせたし、切り上げよう。
そう思うのに、俺はだらだらとこの時を引き延ばす言葉を考えている。
「…先輩の」
玉城がぼそりと呟いたのは、そんなときだった。
「先輩の…手も、見せて下さい」
「え?」
何を言い出したかと思えば。
俺は動揺しながら、氷嚢を置いて、反射的に手を出した。
「いいけど…。」
そう言ったものの、玉城が手に触れてくると、さすがに緊張した。
玉城は両手で俺の手を広げ、親指でなぞった。くすぐったくて、ぞくぞくする。
「…でかい。」
とってつけたように玉城は呟いて、どこか遠くを見るように、俺の手を見つめている。
…なんだ、この沈黙は。玉城が何を考えているか、全く分からない。でも…嫌いな奴に、手を見せろ、なんて言わないよな?
「…どうしたんだよ?」
沈黙に耐え切れず、俺は問う。玉城はしばらく黙っていたが、俺の手を持つ両手に、わずかに力がこもった。
これは…。…いいのか?たとえば、その…抱きしめたり、しても…。
俺がゆっくりと立ち上がると、玉城は手を握ったままじっとしていた。それを振りほどかないように、一歩、玉城に近づいてみる。玉城は動かない。恐る恐る、隣に座ってみる。わずかに、ベッドが沈んだせいかもしれないけど、ほんのわずかに――玉城がこちらに体を傾けてきた、気がした。
捕まれている手を、拒絶ではないと言い聞かせるように、そっと、ゆっくりと、慎重に引き抜き、そして――玉城の頬に手の甲を近づけた。玉城は何も言わず、受け入れるように目を伏せた。指の背が、ほんのわずかに頬を撫でる。柔らかく滑らかな感触を覚える。そのまま肩に手を置くと、玉城は、簡単に俺に体を預けてきた。
信じられないことに、俺は玉城と抱きしめあっていた。俺の肩口に玉城の小さな頭があって、俺の背中には玉城の両腕が回されていて、俺の手は、玉城の小さな背中を包んでいる。
…拒絶しないのか。どうして?俺以外でも、そうだった?いや、そんなはず…。でも、だとしたら…。
玉城も…俺のこと、好きなのか?
何も聞けず、ただ玉城を抱きしめる。
驚くほど細くて、柔らかくて、いいにおいで、夢みたいな心地で。
玉城も何も言わない。でも、受け入れているってことは、たぶん、嫌ではない…はず。
ああ、でも、なんなんだ、このいいにおい。甘くて、さわやかで、清潔で、なんというか…ムズムズする。なんでこんないいにおいなんだ、こいつ。…これ、軽く拷問だな。
背中がくすぐったい。かと思えば、玉城がだんだん抱き着く力を強めてるのだとわかった。
「おい、苦しいって…いてててて」
半分冗談で声を上げると、玉城はそれまでが嘘のようにパッと身を離した。息苦しさからの解放感と、少しの残念さを感じながら、俺は玉城を見る。ふたりの間に入った空気は少し涼しく感じて、まだ体に残る玉城の感触を強くはっきりと感じさせた。
「…真壁先輩とは」
ん?…真壁?
なぜ今その名前が出てくるのか。少し不穏さを感じながら、俺は黙って玉城の言葉を待った。
「まだ…続いてるんですか。」
…何の話だ?メールの話か?
「…たまにメールは来るけど」
最近の憂鬱なことの一つだ。俺が答えると、玉城はわかりやすく嫌そうな顔をした。
それが珍しくて、予想外で、俺は目を丸くする。
これはもう、確定なんじゃないだろうか。玉城は、俺のことを…。
ここで、やきもち?なんてからかいたくなるのをぐっとこらえる。そんなことをしたら、意地っ張りなこいつのことだから、きっと反発して、しばらく口もきいてもらえなくなりそうだ。せっかく今、心を開きかけてくれているようだし、それは避けたい。玉城の…本音を聞くチャンスかもしれないのだから。
「…それより。お前は何で返事も寄越さねーんだよ。俺、待ってるんですけどー。」
玉城が面食らったような顔で俺を見た。突然茶化されて毒気が抜けた様子だ。
「…だ、だって」
玉城は取り繕うように口を開く。
「なんて送ろうか、考えてるうちに、何日も経っちゃって、もう、遅いかなって…」
「なんだそれ。かわいいな」
玉城は固まった。…あ、赤くなった。
こいつ、意外と直球に弱いのかも?
「何でもいいから、返事くれよ。俺はお前と話がしてぇの!」
「な、な、なん、なんで…」
面白いくらい狼狽えている。こんな玉城は初めてだ。いつも俺ばかり弄ばれていたからな…少し仕返しだ。
「なんでって…わかんねぇの?」
「え……。」
「じゃあ、お前はなんで、さっき俺を振り払わなかったんだよ。」
玉城の顔がみるみる赤くなる。さすがにこっちも恥ずかしくなってきたな…。
でも、おかげで確信した。俺たちは、お互いに…。
「し…知らない!」
ああ、そうだよ…こいつが自分から言うわけねーよな…。
こいつは、こんなに美人で、可愛くて、いじらしくて、健気で、ちょっと生意気で…なのに、おかしいほど、自分に自信が無くて。だから、こんなに不器用な方法でしか、俺の気を引けない。お前に告られて、嫌な男なんていねーのに…俺がお前を好きなことなんて、丸わかりなのに。変な奴だよ、お前は…
「好きだよ。」
「…えっ?」
「だから、俺はお前のことが好きなんだよ。…はずいから、早く返事してくれねぇ?」
「……。」
玉城は息詰まったように口を引き結んで俺を見た。顔は真っ赤だ。手はシーツを握りしめている。…ほっせぇ腕。腰。脚…。目の前にいる玉城が、ものすごく色っぽく見える。
「…わ…わたしも…」
僅かに開いた唇。胸がぎゅうっと苦しくなる。
「……すき…」
次の瞬間、俺は玉城を抱きしめていた。遠慮がちに、しかし応えるように、背中に腕が回される。
「…じゃあ、付き合って」
「付き合う…って」
俺は少し離れて、玉城の顔を見た。その瞳はうるんでいて、とても綺麗で、俺は夢でも見ているのかと思うほどだった。
「彼氏と彼女になんの。俺に遠慮しねぇで、好きにしていいってこと。」
「…好きに?」
「そーだよ。お前の彼氏なんだから。」
玉城は少し考えて、突然、俺の胸に顔を埋めた。そして、くぐもった声で呟いた。
「…うん……付き合う」
ぶわっ、と熱い何かが腹の底から込み上げてきて、俺はたまらず玉城を抱きしめる。小さくて、柔らかくて、あたたかい玉城。俺の彼女。ものすごく遠回りした気がする。
夏のあの日、校舎裏で出会った時から…きっと、ずっとこうなりたかったんだ。
「……あ!!」
突然、玉城が身を離した。
「…なんだよ、いいところで…」
「てっちゃんが待ってるの忘れてた!行かなきゃ…」
「…待て待て。てっちゃんて誰だよ!」
付き合った傍から他の男の名前を、しかも親しげな呼び方で出す玉城に怒りを覚える。しかし玉城はきょとんとした大きな瞳で俺をまっすぐ見つめ返した。
「え…哲也さんですよ。結城哲也先輩。知ってますよね?」
「…お前哲さんのことてっちゃんて呼んでんの!?」
「そうですけど…」
なんだそれ。衝撃的過ぎるんだけど…。
「俺のことは?」
「はぁ?」
「…いやいやそんな冷たい目で見るなって。彼氏だろ?」
「何なんですか?面倒臭いんですけど…」
「おい、遠慮すんなとは言ったけど、遠慮なくなりすぎだろ。」
「…も〜。はいはい。で、俺が何ですか?」
「だーかーら。俺のことは何て呼んでんの、って。」
「…御幸先輩は御幸先輩でしょ?」
俺はわざとらしくため息をぶつける。
「…はっきり言ってくれません?」
「あぁわかった。じゃ、俺のことも名前で呼んで。……何だよその目!」
解りやすく鬱陶しげな目で睨んでくる玉城に抗議する。
「あ〜悲しいなぁ〜せっかく勇気出して告白したのに、名前すら呼んでもらえないなんて…」
「……。」
玉城は大きなため息を吐き、わかりました、と呟いた。
「じゃあ、一也先輩って呼びます」
「うん、光。」
「……先輩も名前で呼ぶんですか?」
「当たり前だろ!哲さんもお前のこと名前で呼んでたじゃん」
光は面倒臭そうに視線を逸らした。
「結構面倒くさい人ですね…」
面倒臭かろうがどうでもいいさ。やっと、やっと両思いになれたんだから。しかも、恋人になれたんだから。かっこなんてつけてられるかっつーの。
「じゃあ、私行きますね。」
「俺も寮戻るわ」
ふたりで立ち上がって、片づけをし、医務室の入り口に立つ。扉に手をかけたところで、後ろの玉城を振り返る。
「? どうしたんですか…」
言い終える前に、光をまた抱きしめた。こんなふうに二人きりになれることなんて、きっとほとんどないもんな。今のうちに堪能しておこう。
「……い、いきなりやめてください…」
離れた光は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。ああ、可愛い。なんて幸せなんだろう。
「じゃーな。」
ぽんと頭を撫でて、光と反対方向の昇降口に向かう。ひんやりとした日陰の廊下を歩きながら、胸の奥が熱いほど喜びが込み上げていた。
翌日、昼休みにクラスメイトからそう声をかけられ、廊下へ出てみると、そこにいた意外な人物に俺たちは目を丸くした。
すらりとした長身の、ショートカットが似合うスポーティーな女子。確か、名前は…牧瀬司。
牧瀬は俺たちを見つけると、礼儀正しくお辞儀をした。
「休み時間にすみません。私、光と同じクラスの牧瀬といいます。光が先輩たちに話したいことがあるそうなんですけど、今、お時間よろしいですか?」
余りの礼儀正しさに圧倒されながら、俺たちは顔を見合わせて頷く。
「じゃあ、別棟まで一緒に来てください。すみませんが、話の内容もアレだし、光がいると人が集まっちゃうので…。」
「お…おう。」
それでこいつが呼びに来たのか。確かに、前に玉城が俺のクラスに来た時も、廊下はすごい騒ぎになっていた。モテすぎるのも苦労が多そうだな。
「こっちです。」
別棟の特別教室が並ぶ廊下の一番奥、ほとんど誰も使わない階段の、最上階の踊り場に俺たちは案内された。2年間この学校に通っていて、こんなところ来たことが無かった。放置されて少し埃が溜まった、誰も使わないらしい古い机他椅子の間を通り抜け、俺たちは行き止まりまで進む。そこに、玉城と哲さんが待っていた。
「来たか。」
哲さんは俺たちを見て、少し奥へ詰めた。狭い空間に、5人が輪を作るように立つ。
俺たちが揃うと、哲さんは優しい笑みを浮かべて、何かを促すように玉城の背中に手をやった。玉城は頷いて、俺と倉持を見る。
「あの…御幸先輩、倉持先輩。昨日は、本当にありがとうございました。」
少し涙ぐんだ声で言い、玉城は深く頭を下げた。
いや、と、俺も倉持も、少し動揺しつつ玉城を宥める。
「…昨日、あのあと交番へ行って、話をしてきたんだ。」
哲さんが口を開き、皆の視線がそちらへ向いた。
「今、警察が犯人を捜索している。車の特徴と凹みが有力な手掛かりになるそうだ。」
「ヒャハッ、じゃあ、結果オーライっすね」
「ああ。だが、これから秋大もあるのに、何かあったら困るだろう。犯人に蹴りを入れたのは、お前だという事は伏せておいた。」
「は…はい、すんません…」
しょぼくれる倉持を見ると、どうやら顔がにやけていたらしい。わき腹をどつかれた。
「とにかく、登下校時は俺が送ることにする。」
哲さんが言うと、牧瀬が頷く。
「先輩の都合が悪い日は、私が行くので、ご心配なく!」
「お前も女子だろう。あまり遅い時間に出歩くな。それに、牧瀬は逆方向だろう。」
「だーいじょうぶですよお。私、ジャージ着てれば男と間違われるんで!それに、柔道やってたし!」
「…まあ、俺の都合が悪い日は、まずないから大丈夫だ。」
「ごめんなさい…」
小さな声が薄暗い踊り場に響いた。
「皆に…迷惑かけて…」
涙声で、俯いた玉城が呟いていた。その肩は震えていて、玉城の足元に、ちらりと光る小さな粒が零れ落ちていった。
「も…もーっ!そんなこと気にしなくていいの!光が無事でよかったよ!それに、迷惑なんて思ってないんだから!」
牧瀬が玉城を抱きしめて、頭をわしゃわしゃと撫でながら言う。そのぬくもりで感情が溢れたのか、玉城の喉元から小さな嗚咽がこぼれた。
その震える小さな肩に、哲さんが優しい動作で手を置く。哲さんの大きな手が乗ると、玉城の小さな肩は、さらに華奢に見えた。
「そうだぞ。ほら、もう泣くな。」
牧瀬の肩口から顔を上げた玉城が、涙の滲む瞳で哲さんを見上げ、頷いた。
俺は、玉城の小さな手が牧瀬のセーターを心細げに掴んでいるのを、ぼんやりと見つめていた。
***
それから数日が過ぎ――
「お」
食堂前の自販機で、俺は玉城を見つけた。玉城は、ちょうど出てきたペットボトルを取り出したところで、俺を振り返った。驚いた――ような顔をしていた。あまり嬉しそうな顔ではなかった。どちらかというと、苦々しい、嫌そうな…。
「…こんにちは。」
玉城は小さく呟いて、そそくさと去って行った。まるで逃げるように。
ここ数日、ずっとこんな調子だ。あの騒ぎがあってからずっと。結局、メールの返事もないし。
…本格的に嫌われたかな。でも、原因は何だ――?
考えてみても、これだと思うものはない。となると、もう、「生理的に無理」ってやつなのか、と凹む。
あの日、俺に抱き着いてわんわん泣いていた玉城を思い出すと、正直、もしかして――なんて思ったんだけど。
現実はそう甘くないみたいだ。
俺は麦茶を買って、自販機を後にする。階段を下りていくと、下の踊り場から声が響いてきた。
「――理由を教えてくれないか?」
怒りの滲んだ声だった。俺は思わず足音をひそめ、上から踊り場を覗き込む。
そこには、玉城と、見知らぬ1年の男がいた。見た限り、男が玉城を詰問しているように見えた。
「メールも電話も出てくれないし…俺、何かした?」
「…だから……メールも、電話も、もう無理だって…言ったでしょ」
「だから、それはなんでなんだよッ!?」
男の怒声に、玉城の肩が大きく跳ねる。おいおい…やりすぎだろ。何なんだよ、あの男。
「…今は誰とも付き合ってないんだろ!?じゃあ、いいじゃねーか!メールくらいしてくれたってよ!!」
この恫喝で、玉城が振り向くとでも思っているんだろうか。だとしたら、馬鹿だな。糞野郎だ。
「…ごめん…なさい。」
「ハァ!?」
田中、とやらが、勢いよく玉城の腕を掴んだ。玉城は肩を竦め、一歩後ずさりした。おい…、これ、やべぇんじゃねーの?
「は…離して。」
玉城が震える声で言うと、田中はわざと腕を掴む手に力を込めた。玉城が抵抗する。
「い…痛い…!」
俺は階段を駆け下りた。
「おい!」
一声上げると、田中は心底驚いた顔で青ざめ、玉城から手を離した。
「何してんだよ。」
「え…。いや…」
田中は目を泳がせ、後ずさりしていく。
「1年の田中?お前、覚えとけよ。」
「え……あ……」
「チッ…さっさと行けよ。」
「は…はいっ…」
田中がちょろちょろと逃げていき、俺は玉城を振り返る。
「お前、よく変な奴に絡まれんのな。」
「……。」
玉城は青白い顔で震え、自分の腕を擦っていた。
「腕、痛めたのか?」
「…いえ…」
「見せろよ。」
先程のこともあるし、躊躇ったが、俺はできるだけ優しく玉城の腕に触れた。少し頑なだったその細い腕は、優しく引くと、ふっと力が抜けたように仰向けに伸びた。そしてその真っ白な手首に、赤黒い痣が浮かんでいた。
「……。」
「……。」
俺たちはしばらく痣を見て黙っていた。俺は手首をつかんだまま、親指でその痣をなぞった。
「…冷やすぞ。」
「え…」
俺は玉城の手を引き、歩き出した。玉城は抵抗もなく、しずかに手を引かれたまま、俺のあとを歩いた。
***
医務室には誰もいなかった。だが、何がどこにあるか、大体のことは把握している。
ビニール袋に氷と水を入れて縛り、玉城をベッドに座らせ、その向かいに椅子を持って来て座り、ポケットからハンカチを出した。
「腕出せ。」
「…はい」
大人しく従う玉城の腕にハンカチを載せ、その上から氷水で痣を冷やす。
玉城は口を噤んでいたが、そわそわと俺を見上げた。
「何?」
「あ…いえ…」
一度はそう答えたものの、玉城はまた俺をちらりと見上げ、口を開いた。
「…あの…部活は…?」
「今日は主力はオフ。」
「…そ…うなんですか…」
また黙り込む。手の中の玉城の細い腕が冷たくなっていく。
か弱くて柔らかい、消えてしまいそうな腕。腕だけじゃない。消え入りそうな震える声も。今放っておいたら、玉城はきっとどこかへ行って、もう二度と会えないような気がした。
沈黙が流れる。トク、トク、と玉城の鼓動が腕を伝って指先に響いてくる。辺りは静かだった。玉城も俺も黙ったまま、氷水の入ったビニールの擦れる音を聞いていた。
冷やしとけよ、とだけ言ってあとは玉城を置いていくこともできたのに、俺は、そうする気が起きなかった。
力の抜けた玉城の白い手を眺める。細くて、しなやかで、指先はほんのり桃色で…
「…綺麗だな」
思わず、呟いていた。
しまった、と思った時にはもう遅く、玉城がぽかんとした顔で俺を見ていた。
「あっ、いや、手が…」
慌てて言い訳したものの、全く意味をなしていない。却って恥ずかしくなって、俺は言葉を失った。
玉城は視線を落として、眉を寄せて呟いた。
「……きも。」
…凹む。だが、いつもの生意気な玉城を久しぶりに見た気がして、安堵のようなものを感じてしまうあたり、更に凹む。やっぱり俺、嫌われてんじゃねーのか?
…そろそろ、十分冷やせたし、切り上げよう。
そう思うのに、俺はだらだらとこの時を引き延ばす言葉を考えている。
「…先輩の」
玉城がぼそりと呟いたのは、そんなときだった。
「先輩の…手も、見せて下さい」
「え?」
何を言い出したかと思えば。
俺は動揺しながら、氷嚢を置いて、反射的に手を出した。
「いいけど…。」
そう言ったものの、玉城が手に触れてくると、さすがに緊張した。
玉城は両手で俺の手を広げ、親指でなぞった。くすぐったくて、ぞくぞくする。
「…でかい。」
とってつけたように玉城は呟いて、どこか遠くを見るように、俺の手を見つめている。
…なんだ、この沈黙は。玉城が何を考えているか、全く分からない。でも…嫌いな奴に、手を見せろ、なんて言わないよな?
「…どうしたんだよ?」
沈黙に耐え切れず、俺は問う。玉城はしばらく黙っていたが、俺の手を持つ両手に、わずかに力がこもった。
これは…。…いいのか?たとえば、その…抱きしめたり、しても…。
俺がゆっくりと立ち上がると、玉城は手を握ったままじっとしていた。それを振りほどかないように、一歩、玉城に近づいてみる。玉城は動かない。恐る恐る、隣に座ってみる。わずかに、ベッドが沈んだせいかもしれないけど、ほんのわずかに――玉城がこちらに体を傾けてきた、気がした。
捕まれている手を、拒絶ではないと言い聞かせるように、そっと、ゆっくりと、慎重に引き抜き、そして――玉城の頬に手の甲を近づけた。玉城は何も言わず、受け入れるように目を伏せた。指の背が、ほんのわずかに頬を撫でる。柔らかく滑らかな感触を覚える。そのまま肩に手を置くと、玉城は、簡単に俺に体を預けてきた。
信じられないことに、俺は玉城と抱きしめあっていた。俺の肩口に玉城の小さな頭があって、俺の背中には玉城の両腕が回されていて、俺の手は、玉城の小さな背中を包んでいる。
…拒絶しないのか。どうして?俺以外でも、そうだった?いや、そんなはず…。でも、だとしたら…。
玉城も…俺のこと、好きなのか?
何も聞けず、ただ玉城を抱きしめる。
驚くほど細くて、柔らかくて、いいにおいで、夢みたいな心地で。
玉城も何も言わない。でも、受け入れているってことは、たぶん、嫌ではない…はず。
ああ、でも、なんなんだ、このいいにおい。甘くて、さわやかで、清潔で、なんというか…ムズムズする。なんでこんないいにおいなんだ、こいつ。…これ、軽く拷問だな。
背中がくすぐったい。かと思えば、玉城がだんだん抱き着く力を強めてるのだとわかった。
「おい、苦しいって…いてててて」
半分冗談で声を上げると、玉城はそれまでが嘘のようにパッと身を離した。息苦しさからの解放感と、少しの残念さを感じながら、俺は玉城を見る。ふたりの間に入った空気は少し涼しく感じて、まだ体に残る玉城の感触を強くはっきりと感じさせた。
「…真壁先輩とは」
ん?…真壁?
なぜ今その名前が出てくるのか。少し不穏さを感じながら、俺は黙って玉城の言葉を待った。
「まだ…続いてるんですか。」
…何の話だ?メールの話か?
「…たまにメールは来るけど」
最近の憂鬱なことの一つだ。俺が答えると、玉城はわかりやすく嫌そうな顔をした。
それが珍しくて、予想外で、俺は目を丸くする。
これはもう、確定なんじゃないだろうか。玉城は、俺のことを…。
ここで、やきもち?なんてからかいたくなるのをぐっとこらえる。そんなことをしたら、意地っ張りなこいつのことだから、きっと反発して、しばらく口もきいてもらえなくなりそうだ。せっかく今、心を開きかけてくれているようだし、それは避けたい。玉城の…本音を聞くチャンスかもしれないのだから。
「…それより。お前は何で返事も寄越さねーんだよ。俺、待ってるんですけどー。」
玉城が面食らったような顔で俺を見た。突然茶化されて毒気が抜けた様子だ。
「…だ、だって」
玉城は取り繕うように口を開く。
「なんて送ろうか、考えてるうちに、何日も経っちゃって、もう、遅いかなって…」
「なんだそれ。かわいいな」
玉城は固まった。…あ、赤くなった。
こいつ、意外と直球に弱いのかも?
「何でもいいから、返事くれよ。俺はお前と話がしてぇの!」
「な、な、なん、なんで…」
面白いくらい狼狽えている。こんな玉城は初めてだ。いつも俺ばかり弄ばれていたからな…少し仕返しだ。
「なんでって…わかんねぇの?」
「え……。」
「じゃあ、お前はなんで、さっき俺を振り払わなかったんだよ。」
玉城の顔がみるみる赤くなる。さすがにこっちも恥ずかしくなってきたな…。
でも、おかげで確信した。俺たちは、お互いに…。
「し…知らない!」
ああ、そうだよ…こいつが自分から言うわけねーよな…。
こいつは、こんなに美人で、可愛くて、いじらしくて、健気で、ちょっと生意気で…なのに、おかしいほど、自分に自信が無くて。だから、こんなに不器用な方法でしか、俺の気を引けない。お前に告られて、嫌な男なんていねーのに…俺がお前を好きなことなんて、丸わかりなのに。変な奴だよ、お前は…
「好きだよ。」
「…えっ?」
「だから、俺はお前のことが好きなんだよ。…はずいから、早く返事してくれねぇ?」
「……。」
玉城は息詰まったように口を引き結んで俺を見た。顔は真っ赤だ。手はシーツを握りしめている。…ほっせぇ腕。腰。脚…。目の前にいる玉城が、ものすごく色っぽく見える。
「…わ…わたしも…」
僅かに開いた唇。胸がぎゅうっと苦しくなる。
「……すき…」
次の瞬間、俺は玉城を抱きしめていた。遠慮がちに、しかし応えるように、背中に腕が回される。
「…じゃあ、付き合って」
「付き合う…って」
俺は少し離れて、玉城の顔を見た。その瞳はうるんでいて、とても綺麗で、俺は夢でも見ているのかと思うほどだった。
「彼氏と彼女になんの。俺に遠慮しねぇで、好きにしていいってこと。」
「…好きに?」
「そーだよ。お前の彼氏なんだから。」
玉城は少し考えて、突然、俺の胸に顔を埋めた。そして、くぐもった声で呟いた。
「…うん……付き合う」
ぶわっ、と熱い何かが腹の底から込み上げてきて、俺はたまらず玉城を抱きしめる。小さくて、柔らかくて、あたたかい玉城。俺の彼女。ものすごく遠回りした気がする。
夏のあの日、校舎裏で出会った時から…きっと、ずっとこうなりたかったんだ。
「……あ!!」
突然、玉城が身を離した。
「…なんだよ、いいところで…」
「てっちゃんが待ってるの忘れてた!行かなきゃ…」
「…待て待て。てっちゃんて誰だよ!」
付き合った傍から他の男の名前を、しかも親しげな呼び方で出す玉城に怒りを覚える。しかし玉城はきょとんとした大きな瞳で俺をまっすぐ見つめ返した。
「え…哲也さんですよ。結城哲也先輩。知ってますよね?」
「…お前哲さんのことてっちゃんて呼んでんの!?」
「そうですけど…」
なんだそれ。衝撃的過ぎるんだけど…。
「俺のことは?」
「はぁ?」
「…いやいやそんな冷たい目で見るなって。彼氏だろ?」
「何なんですか?面倒臭いんですけど…」
「おい、遠慮すんなとは言ったけど、遠慮なくなりすぎだろ。」
「…も〜。はいはい。で、俺が何ですか?」
「だーかーら。俺のことは何て呼んでんの、って。」
「…御幸先輩は御幸先輩でしょ?」
俺はわざとらしくため息をぶつける。
「…はっきり言ってくれません?」
「あぁわかった。じゃ、俺のことも名前で呼んで。……何だよその目!」
解りやすく鬱陶しげな目で睨んでくる玉城に抗議する。
「あ〜悲しいなぁ〜せっかく勇気出して告白したのに、名前すら呼んでもらえないなんて…」
「……。」
玉城は大きなため息を吐き、わかりました、と呟いた。
「じゃあ、一也先輩って呼びます」
「うん、光。」
「……先輩も名前で呼ぶんですか?」
「当たり前だろ!哲さんもお前のこと名前で呼んでたじゃん」
光は面倒臭そうに視線を逸らした。
「結構面倒くさい人ですね…」
面倒臭かろうがどうでもいいさ。やっと、やっと両思いになれたんだから。しかも、恋人になれたんだから。かっこなんてつけてられるかっつーの。
「じゃあ、私行きますね。」
「俺も寮戻るわ」
ふたりで立ち上がって、片づけをし、医務室の入り口に立つ。扉に手をかけたところで、後ろの玉城を振り返る。
「? どうしたんですか…」
言い終える前に、光をまた抱きしめた。こんなふうに二人きりになれることなんて、きっとほとんどないもんな。今のうちに堪能しておこう。
「……い、いきなりやめてください…」
離れた光は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。ああ、可愛い。なんて幸せなんだろう。
「じゃーな。」
ぽんと頭を撫でて、光と反対方向の昇降口に向かう。ひんやりとした日陰の廊下を歩きながら、胸の奥が熱いほど喜びが込み上げていた。