130
マンションに戻るなり、俺はスーツを引っ張り出した。倉持は寝室のドアに寄りかかって立ち、スーツに着替える俺を訝しむように眺める。
「…どこ行くんだよ?」
「光臣の所」
「……。」
倉持は何か考えるようにしばらく黙り、腕を組む。
「一人で平気かよ?」
俺はネクタイを締め、振り返った。
「当たり前だろ。」
それに、これは、俺がやらなきゃいけないことだ。
意外そうに俺を眺める倉持を放ったまま、俺はマンションを出る。エレベーターの中で玉城光臣の名を調べると、すぐに玉城グループの貿易会社・日本支社の代表取締役との情報が出てきた。やっぱとんでもねえ家だな…。
住所を見ると、ここから車で15分程度。本当に近いんだな。
エレベーターを降り、車に飛び乗る。運転中、じわじわと緊張がにじみ出た。光臣に会って…何を言う?何を言われる?あいつは…どういうつもりなんだ?光との婚約を目論んでいるくせに、夫である俺には一言も言わないで…。舐めやがって。黙って光を渡すと思ったら大間違いだ。結婚は…お前が、お前たちが考えているほど、薄っぺらくねーんだよ。
青空を映す巨大なビルの前に着き、路上駐車の列に加わって車を停める。ビル前の広々とした遊歩道と広場を、スーツやフォーマルファッションの偉そうな人間たちが闊歩している。うちのマンションにそこそこ近いけど…この辺りだけ別世界のようだ。
ビルに入り、受付に向かうと、俺を見た若い受付嬢たちが色めき立ってひそひそと悲鳴を上げた。
「…すみません。玉城光臣さんはいらっしゃいますか。」
「あ…アポをとっておられませんと、ご案内できません。」
きゃあきゃあにぎわいながらも、そこはきっちりと拒否する忠実ぶり。
「どうしても話がしたいんです。御幸一也が来たと伝えてください。」
「え…ですが…」
「何時間でも待ちますから。」
言い捨てて、有無を言わさずロビーのソファに座る。受付嬢は困った顔を見合わせた後、俺を窺いながら受話器を取り上げてどこかへ電話を始めた。
それから…俺はひたすら待った。ロビーを行き交う人たちを眺めながら。本当にこれが光のためになるのかもわからないまま…。
「御幸様」
何十分…何時間経っただろうか。日も暮れて夕焼けの赤い光がロビーに差し込み始めた頃、受付嬢がやってきて俺に声をかけた。
「社長がお待ちです。こちらへどうぞ。」
立ち上がり、彼女に連れられてエレベーターをひとつ乗り継ぎ、途中で案内が秘書の女性に受け継がれ、物々しい赤いじゅうたんの廊下を進む。
廊下の突き当りのドアの前で、秘書は恭しくノックをして呼びかけた。中から返事があると、丁寧にドアを開いて俺を中へと促した。
「社長。御幸一也様がいらっしゃいました。」
秘書は一礼し、部屋を出て行った。物々しい社長机に、光臣は座っていた。
「随分お待たせしてしまって、すみません。何せ就任したばかりで、色々とやることが多くて。」
「…いえ…」
光臣は立ち上がって、俺の前へ歩いてくる。
「それで…突然いらっしゃって、何の御用ですか?」
…白々しい。
「光のことです。」
「…光がどうかしましたか?」
「光に婚約しようと説得してるそうですね。」
「……。」
「どういうつもりですか?」
光臣は顔色一つ変えずに俺を見据えている。
「祖父母が望んでいることです。」
まるで他人事のように、光臣は言った。
「…認めるのかよ、人の嫁横取りしようとしてること」
「落ち着いてください。別に…本人の意思を無視するわけじゃありません。ちゃんと話をしてるんですから」
「ふざけるな。お前らが光の意思なんて考えたことがあるかよ。家族の中であいつの味方は…奥村と叔母さんだけだっただろ」
「何のことかはわかりませんが…奥村なんて…遠縁も遠縁、血のつながりなんてほとんどありませんよ。叔母だって…昔から祖父に反発してばかりの、一族のはじかれ者ですから。光のことなんて何もわかってない。彼らの言葉を信じるのは…浅はかですよ。」
光臣は…徐々に、その表情に笑みを浮かべていく。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ。とにかく光は俺ともう結婚してる。離婚するつもりはないし…あいつだって拒否してるだろ。それでこの話は終わりだ。ずるずる引き留めて説得なんかしてんじゃねーよ。もう関わらないでくれ。」
フン…、と光臣が小さく鼻で笑った。
「何笑ってんだよ。」
「お前…、今、別居してるそうだな。」
「……。」
な、なんで知って…
「そんな奴に離婚するつもりはないと言われても…説得力がないな。」
「別居ってほどのことじゃ…ねーよ。それに…それ以前にお前は光から嫌われてるじゃねーか。何が結婚だよ。」
「さあ、どうだろうな。」
「…は?」
「昨日、祖父母と俺の父も交えて話をしたよ。光が俺と結婚し、玉城籍に戻った場合の相続、遺産、保障…。母を亡くし、父も勘当された光は実質、玉城家の恩寵を何も受けられない。だが…俺と結婚すれば、次期総取締役の妻だ。」
「……。」
「あの傷を負った時…光は闇を背負った。そんな女は俺の妻にはふさわしくないと思った。だが…あいつは自分の力で光を取り戻し、あの傷さえ武器にして、その美貌で人々を魅了した。今のあいつは…俺の妻に、玉城家の人間にふさわしくなった。」
「…ふざけんなよ」
「…?」
握った拳が震えた。こいつの顔面…ぶん殴りてぇ…。
「どこまであいつを貶めれば気が済むんだよ…」
「貶める?むしろ認めてる。それに…話を受けてくれるなら、明日、別宅に来てくれと伝えただけだ。そうしたら、あいつ…伺いますと言ったよ。」
「……え?」
にやり、と笑う光臣は…悪魔のような顔をしていた。
「それに比べてお前は…この婚約話も、玉城家のことも、何も知らないらしいじゃないか?光から何も聞いてないんだな。信頼されてないんじゃないのか?」
「……。」
「俺はあいつのことを何でも知ってるぞ。お前よりずっと。」
「……。」
「まあ…嫌でも明日になれば、話してくれるだろうね。短い結婚生活だったな。」
光臣は慣れた手つきで受話器を持ち上げると、「お引き取りだ」と言った。直後、部屋のドアが開き、警備服の男が3人入ってきて、俺を取り囲むようにして部屋の外へと促す。
無情にもドアが閉まり、廊下に放り出された俺は、立ち尽くした。
――伺いますって……どうして…
光…会いたい。話したい。今すぐに…。
それからどうやって帰ったのか、よく覚えていない。気づけば自分のマンションの寝室のベッドに座り込んでいた。
外は真っ暗だ。すっかり夜になっていた。
俺は窓の外を眺めながら――光と別れ話をした春の夜のことを思い出していた。
「…どこ行くんだよ?」
「光臣の所」
「……。」
倉持は何か考えるようにしばらく黙り、腕を組む。
「一人で平気かよ?」
俺はネクタイを締め、振り返った。
「当たり前だろ。」
それに、これは、俺がやらなきゃいけないことだ。
意外そうに俺を眺める倉持を放ったまま、俺はマンションを出る。エレベーターの中で玉城光臣の名を調べると、すぐに玉城グループの貿易会社・日本支社の代表取締役との情報が出てきた。やっぱとんでもねえ家だな…。
住所を見ると、ここから車で15分程度。本当に近いんだな。
エレベーターを降り、車に飛び乗る。運転中、じわじわと緊張がにじみ出た。光臣に会って…何を言う?何を言われる?あいつは…どういうつもりなんだ?光との婚約を目論んでいるくせに、夫である俺には一言も言わないで…。舐めやがって。黙って光を渡すと思ったら大間違いだ。結婚は…お前が、お前たちが考えているほど、薄っぺらくねーんだよ。
青空を映す巨大なビルの前に着き、路上駐車の列に加わって車を停める。ビル前の広々とした遊歩道と広場を、スーツやフォーマルファッションの偉そうな人間たちが闊歩している。うちのマンションにそこそこ近いけど…この辺りだけ別世界のようだ。
ビルに入り、受付に向かうと、俺を見た若い受付嬢たちが色めき立ってひそひそと悲鳴を上げた。
「…すみません。玉城光臣さんはいらっしゃいますか。」
「あ…アポをとっておられませんと、ご案内できません。」
きゃあきゃあにぎわいながらも、そこはきっちりと拒否する忠実ぶり。
「どうしても話がしたいんです。御幸一也が来たと伝えてください。」
「え…ですが…」
「何時間でも待ちますから。」
言い捨てて、有無を言わさずロビーのソファに座る。受付嬢は困った顔を見合わせた後、俺を窺いながら受話器を取り上げてどこかへ電話を始めた。
それから…俺はひたすら待った。ロビーを行き交う人たちを眺めながら。本当にこれが光のためになるのかもわからないまま…。
「御幸様」
何十分…何時間経っただろうか。日も暮れて夕焼けの赤い光がロビーに差し込み始めた頃、受付嬢がやってきて俺に声をかけた。
「社長がお待ちです。こちらへどうぞ。」
立ち上がり、彼女に連れられてエレベーターをひとつ乗り継ぎ、途中で案内が秘書の女性に受け継がれ、物々しい赤いじゅうたんの廊下を進む。
廊下の突き当りのドアの前で、秘書は恭しくノックをして呼びかけた。中から返事があると、丁寧にドアを開いて俺を中へと促した。
「社長。御幸一也様がいらっしゃいました。」
秘書は一礼し、部屋を出て行った。物々しい社長机に、光臣は座っていた。
「随分お待たせしてしまって、すみません。何せ就任したばかりで、色々とやることが多くて。」
「…いえ…」
光臣は立ち上がって、俺の前へ歩いてくる。
「それで…突然いらっしゃって、何の御用ですか?」
…白々しい。
「光のことです。」
「…光がどうかしましたか?」
「光に婚約しようと説得してるそうですね。」
「……。」
「どういうつもりですか?」
光臣は顔色一つ変えずに俺を見据えている。
「祖父母が望んでいることです。」
まるで他人事のように、光臣は言った。
「…認めるのかよ、人の嫁横取りしようとしてること」
「落ち着いてください。別に…本人の意思を無視するわけじゃありません。ちゃんと話をしてるんですから」
「ふざけるな。お前らが光の意思なんて考えたことがあるかよ。家族の中であいつの味方は…奥村と叔母さんだけだっただろ」
「何のことかはわかりませんが…奥村なんて…遠縁も遠縁、血のつながりなんてほとんどありませんよ。叔母だって…昔から祖父に反発してばかりの、一族のはじかれ者ですから。光のことなんて何もわかってない。彼らの言葉を信じるのは…浅はかですよ。」
光臣は…徐々に、その表情に笑みを浮かべていく。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ。とにかく光は俺ともう結婚してる。離婚するつもりはないし…あいつだって拒否してるだろ。それでこの話は終わりだ。ずるずる引き留めて説得なんかしてんじゃねーよ。もう関わらないでくれ。」
フン…、と光臣が小さく鼻で笑った。
「何笑ってんだよ。」
「お前…、今、別居してるそうだな。」
「……。」
な、なんで知って…
「そんな奴に離婚するつもりはないと言われても…説得力がないな。」
「別居ってほどのことじゃ…ねーよ。それに…それ以前にお前は光から嫌われてるじゃねーか。何が結婚だよ。」
「さあ、どうだろうな。」
「…は?」
「昨日、祖父母と俺の父も交えて話をしたよ。光が俺と結婚し、玉城籍に戻った場合の相続、遺産、保障…。母を亡くし、父も勘当された光は実質、玉城家の恩寵を何も受けられない。だが…俺と結婚すれば、次期総取締役の妻だ。」
「……。」
「あの傷を負った時…光は闇を背負った。そんな女は俺の妻にはふさわしくないと思った。だが…あいつは自分の力で光を取り戻し、あの傷さえ武器にして、その美貌で人々を魅了した。今のあいつは…俺の妻に、玉城家の人間にふさわしくなった。」
「…ふざけんなよ」
「…?」
握った拳が震えた。こいつの顔面…ぶん殴りてぇ…。
「どこまであいつを貶めれば気が済むんだよ…」
「貶める?むしろ認めてる。それに…話を受けてくれるなら、明日、別宅に来てくれと伝えただけだ。そうしたら、あいつ…伺いますと言ったよ。」
「……え?」
にやり、と笑う光臣は…悪魔のような顔をしていた。
「それに比べてお前は…この婚約話も、玉城家のことも、何も知らないらしいじゃないか?光から何も聞いてないんだな。信頼されてないんじゃないのか?」
「……。」
「俺はあいつのことを何でも知ってるぞ。お前よりずっと。」
「……。」
「まあ…嫌でも明日になれば、話してくれるだろうね。短い結婚生活だったな。」
光臣は慣れた手つきで受話器を持ち上げると、「お引き取りだ」と言った。直後、部屋のドアが開き、警備服の男が3人入ってきて、俺を取り囲むようにして部屋の外へと促す。
無情にもドアが閉まり、廊下に放り出された俺は、立ち尽くした。
――伺いますって……どうして…
光…会いたい。話したい。今すぐに…。
それからどうやって帰ったのか、よく覚えていない。気づけば自分のマンションの寝室のベッドに座り込んでいた。
外は真っ暗だ。すっかり夜になっていた。
俺は窓の外を眺めながら――光と別れ話をした春の夜のことを思い出していた。