132
夕方。風が冷たくなってきたころ、俺はまたスーツに身を包んで車を走らせていた。助手席には黒いフォーマルなワンピース姿の光。車をビルの前に停めると、ふたりで受付を目指す。
俺と光を見て、受付嬢たちはまたひそひそと盛り上がり始める。
「社長はいらっしゃいますか?」
光が声をかけると、受付嬢たちは目配せをするようにそわそわ視線を泳がせながら笑顔を作った。
「大変申し訳ございませんが、アポの無い方は…」
「アポならとってありますけど。」
「え?」
え?
アポなんてとってないよなあ…、と思いながら、困ったように視線を合わせる受付嬢たちと堂々と立っている光とを見比べる。
「社長にご確認ください。」
受付の内線電話を指示し、光は言った。受付嬢は窺うように光を見ながら内線の番号を押し、受話器を耳に当てる。
「…あ、お忙しいところ失礼しま……あっ」
受付嬢の手から、光が受話器を取り上げた。
「光臣?私だけど。」
す…すげえ。さすが光。敵に回したくない。
受付嬢たちは困惑したような、だけどどこか面白がるような視線を交わす。
「話があるの。…は?無理じゃないでしょ。今からそっちに行くから、警備員に伝えといて。…え?別宅?食事になんか行くわけないでしょ。早く警備員に伝えなさいよ。それともあなたがロビーに来る?」
それだけ言うと、光臣の返事を確認したようにしばらく黙ってから、光は受話器を受付嬢に返した。
「大丈夫です。行きましょう。」
「お…おう。」
彼女につれられるままエレベーターを乗り継ぎ、最上階を目指す。
赤いじゅうたんの廊下を、警備員に目もくれず歩いて行く光。いやー、格好良いな。
廊下の突き当りまで来て、重厚なドアを躊躇なく開けると、光はずかずかと社長室に入って行き、俺もその後に続いた。
そこにはさすがに戸惑ったような顔で、光臣が立っていた。
「…光。話を受けるから今日別宅に来るって…」
「言ってない。埒が明かないから改めて伺いますって言ったの。」
怯んで口を噤む光臣。な…なんだ。そうだったのか…。
「おじい様とおばあ様を味方につけて言いくるめようとするなんて卑怯じゃない?」
「…俺はただ、玉城家がそれを望んでるんだってことを教えたくて」
「そんなのどうでもいいし、関係ない。私はもう玉城家の人間じゃないし。」
「だから…言っただろ。お前が籍を戻せば…俺と結婚すれば…スイスの4つの別荘と日本の2つの別荘、フランスとアメリカの別宅…それからおばあ様の株式と財産、元父親名義の全ての不動産を譲渡するって。」
…え?な、ナニソレ?次元が違い過ぎて意味わかんねえ…
「いらない。」
光は一切の躊躇もなく首を横に振った。
…いいのかよ、本当に…それだけの財産を捨てても…
「…いらない?お前…馬鹿じゃないのか?お前が放棄する財産…どれだけの規模か、わかってるのか?」
「わかってる。」
「そんなに俺と結婚するのが嫌だっていうのか?どれだけ金を積まれても許さないって…当てつけのつもりかよ。」
「…違う。」
光はまた首を横に振って…俺を見上げて、手にそっと触れた。そして指を絡ませて、しっかりと握った。
「それを受け取ったら…一也さんを失うことになるから」
「…光」
「だから、いらない。」
光臣が愕然と光を見て、俺を睨んだ。
「…そいつが、傷のことを知ってるからだろ?」
「……。」
光臣の言葉に、光の手が冷たくなる。俺はその小さな手を、しっかりと握り返した。
「傷のことを受け入れてくれる男なら誰でも良かったんだろ。それなら俺だって、その傷のことはもう何も言わないよ。お前は美人だし…女優・玉城光は社交界の場でも自慢できる。もう誰も、お前をその傷のことで責めたりしないし…それに俺はそいつよりずっと前からお前を知ってる。母親の虐待も、父親の不干渉も。俺以上にお前を知ってる男はいないんだぞ。」
「…光臣…」
低い声に誘われて見下ろした、悲しそうで憐れむような光の横顔は、夕日を受けてきらきらと輝いていた。
「あなたは…私のことを知ってるけど……何も理解してない。」
「……。」
光臣は息をのんで言葉を詰まらせた。
「私は一也さんが好き。」
「……。」
「一也さんがいれば…なんでもできる。」
俺をちょっと見上げた光は微笑んでいて、俺も気づかず口元に微笑みを浮かべた。
「…じゃあ…どうすればいいんだよ。」
光臣はわなわなと呟いた。
「どうすれば許してくれるんだよ。」
「…何を?」
「……。」
光臣は答えず、ただ唇を噛んでいる。
「俺を…許せないから、結婚を断るんだろ。」
はあ、と光のため息が響いた。
「…違うよ。私は別に、光臣のことを恨んでなんかない。」
「じゃあどうして…」
「嫌いなの。」
きっぱりと、光が言った。呆然とする光臣、居たたまれない俺。
「…な…なんで?」
「冷たい人だから。」
「…え?」
「残酷で、人に酷いことを平気で言って、人を傷つけて、簡単に許せなんて言う冷たい人だから。」
「……。」
言葉を失う光臣。…つーか、無自覚だったのかよ…。
「…じゃあ…それを直せばいいのか?」
「…何が?」
「俺のことを嫌いじゃなくなるのか?」
…なんだこれ。何の話だよ。
「それはわからない。」
「…じゃあどうすれば」
「光臣。逆に聞くけど、どうすれば光臣は私のことを諦めてくれるの?」
「……。」
「過去の暴言を許して、婚約の申し込みも断った。何度も。なのに、どうしてまだしつこくするの?」
「……。……俺は」
光臣は俯き、そして…ぽろぽろと涙をこぼした。
「……光のことを…愛してる…」
……え…ええー……泣いちゃったよ…。どうすんだよこれ…
「光臣…それなら、もう…答えは出てるよね。」
「……。」
「私はこの人のことを愛してる。もう結婚したの。光臣とは一緒になれない。…これからもずっと。」
「……。」
俺はただ、大の男がぽろぽろと涙を流すのを、どこか非現実的な気持ちで眺めた。
「今日、これから…おじい様とおばあ様と叔母様にも話をしに行くから」
「……。」
「光臣からも、ちゃんと話してね。あと…叔父様にも。」
「……。」
それだけ言うと、光は繋いでいた俺の手を軽く引っ張った。いいのか?と目で問うと、行きましょう、と小さく声が返ってきた。静かに涙を流す光臣を残して、俺たちは社長室を後にした。
***
「次の信号を左です。」
「はいよ」
光の案内で、現在光の祖父母と叔母、光臣が住んでいるという玉城家の日本の別宅に向かう。あー…すげえ緊張する…。
「…会社から5分かからないって言ってたけど…まだ?」
もう10分くらいは運転している。道が混んでるわけでも、迷ったわけでもないのに…。
「もう着いてますけど、車両用の門が反対側なので…」
「……ん?ちょっと待って、何の話?」
「えっと、だから…」
光は窓の外のレンガ造りの外壁を指さした。
「ここがその別宅です。」
「…え!?」
「徒歩なら裏門から入れるんですけど、車だと正面から入らなくちゃいけなくて。でももうすぐ見えてきますよ。」
この外壁…5分くらいずっと続いてるんですけど…
「あ…あそこです。車係の者がいるので」
「え?あそこ?」
黒い鉄格子の重厚な門構え。両側に黒いスーツを着た男が立っていて、物々しい雰囲気だ。
「本当に?大丈夫?俺殺されない?」
「何言ってるんですか……」
「いやだってあんなの…映画でしか見たことねーよ」
それでも光の指示通り、門に向かって左折する。門の前で停止すると、両側の男があるいてきて窓から車内を窺ってきた。そして光の顔を確認するやいなや、目線を交わし門を開く。
「うおお…」
「行きましょう。」
「おう…」
現実味がないまま車を発進させる。門を通過すると両側は雑木林で、今の状況を忘れられたら軽井沢にドライブにでも来たような気分だ。…忘れられないのだけど。
暫く林道を進むと、急にひらけた場所に出て、大きなレンガ造りの洋館があらわれた。
「……。」
もう言葉も出ない。なんか使用人みたいな人が待ってるし。
「建物の前に停めちゃっていいですよ。」
「おう…」
光の言う通り玄関前に車を停めると、控えていた使用人らしき男が近寄ってくる。意を決して車から降りると、その男は恭しくお辞儀をして手を差し出してきた。
「お車のキーをお預かりいたします。」
「え?」
なんで?
困惑する俺の後ろから、光が答えた。
「すぐ帰るので必要ありません。」
「かしこまりました。」
男はまた恭しくお辞儀をし、玄関へ向かっていった。俺たちも玄関に向かうと、男は目を伏せたまま扉を開く。
そこは…玄関、というよりエントランス、というべきだろうか。木造の床と柱、石の壁。奥には幅の広い階段があり、青い絨毯が敷かれている。至る所に高価そうな花瓶や調度品が鎮座し、エントランスの中央の台にも大きな花瓶にたくさんの花が飾られていた。こ…これで別宅かよ。本家は一体どんな豪邸…いや、城だろもう。
「叔母さん。」
光が少し足を速めた。見ると、奥の扉から光の叔母がやってきたのだった。
「あ…、よかった。一也君と話せたのね。」
「うん…。」
叔母を前に少し表情を和らげる光を見て、俺も安堵する。
「一也君。」
叔母は真剣な顔をして俺の前へ歩いてきた。俺は会釈をし、心なしか姿勢を正す。
「今回のこと…光臣が勝手なことをしてごめんなさい。」
「いえ、俺は…」
言いかけた時、右側の大きな扉が開かれた。一同話をやめて振り向くと、光の祖父母がやって来たのだった。こうしてみると、やはり貫禄と威厳がある。
「…実家に食事に来たわけではなさそうだね。」
祖父は光と俺を見て言った。光は俺の隣にやってきて、並んで立った。
「でも、せっかくだから食事でもしながら話さないか?」
そう言って屋敷の奥を指す祖父に、光は首を振った。
「おじい様、今日は言いたいことがあって来ただけなの。」
「そうか。…何かな?」
「……。」
光が緊張したように息を飲んで、俺はそれを庇うように思わず口を開いた。
「…光さんは俺の妻です。誰にも渡すつもりはありません。」
ちらり、と祖父の目が動いた。ふー…、と深く息を吐くのが聞こえた。
「光臣は何と言ってるんだ?」
光の顔が青ざめる。俺は咄嗟に…彼女の手を掴んだ。
「光臣が何て言ってるかなんて…関係ありません。」
「……。」
「俺たちは夫婦で…別れるつもりはない。それでこの話は終わるはずです。」
手の中の光の小さな手に力が篭った。
「…君は…」
祖父は鋭い眼光で俺を見上げた。
「君と一緒になることで、光が失うことになる莫大な財産のことをわかっているのかね?」
「……。」
ごくり、と俺の喉が鳴った。
「そんなもの…」
隣の光が震える声で言った。怯えるように祖父を見て、俺の手を握り返して。
「一也さんと別れるくらいなら…いらない」
「……。」
祖父はしばらく黙ってから、一切の微笑みを消した顔で、光を見た。
「…わかった。」
「……。」
「ならば…お前に遺すものは何もない。それでいいんだな。」
「はい。」
光は迷いなく頷いて――俺の手を引いた。
「ここにももう来ません。」
「光ちゃん…」
叔母が引き留めるように足を踏み出したのを、光は微笑んで止めた。
「…さようなら。」
祖父母の返事を待たず、光は俺の手を引いて歩きだす。使用人の男が玄関のドアを開き、そこに停めてあった車に乗り込んで、もと来た道を戻る。
帰りの車内で光は、延々と続く並木道を、ただ目に焼き付けるように…黙ったまま眺めていた。
俺と光を見て、受付嬢たちはまたひそひそと盛り上がり始める。
「社長はいらっしゃいますか?」
光が声をかけると、受付嬢たちは目配せをするようにそわそわ視線を泳がせながら笑顔を作った。
「大変申し訳ございませんが、アポの無い方は…」
「アポならとってありますけど。」
「え?」
え?
アポなんてとってないよなあ…、と思いながら、困ったように視線を合わせる受付嬢たちと堂々と立っている光とを見比べる。
「社長にご確認ください。」
受付の内線電話を指示し、光は言った。受付嬢は窺うように光を見ながら内線の番号を押し、受話器を耳に当てる。
「…あ、お忙しいところ失礼しま……あっ」
受付嬢の手から、光が受話器を取り上げた。
「光臣?私だけど。」
す…すげえ。さすが光。敵に回したくない。
受付嬢たちは困惑したような、だけどどこか面白がるような視線を交わす。
「話があるの。…は?無理じゃないでしょ。今からそっちに行くから、警備員に伝えといて。…え?別宅?食事になんか行くわけないでしょ。早く警備員に伝えなさいよ。それともあなたがロビーに来る?」
それだけ言うと、光臣の返事を確認したようにしばらく黙ってから、光は受話器を受付嬢に返した。
「大丈夫です。行きましょう。」
「お…おう。」
彼女につれられるままエレベーターを乗り継ぎ、最上階を目指す。
赤いじゅうたんの廊下を、警備員に目もくれず歩いて行く光。いやー、格好良いな。
廊下の突き当りまで来て、重厚なドアを躊躇なく開けると、光はずかずかと社長室に入って行き、俺もその後に続いた。
そこにはさすがに戸惑ったような顔で、光臣が立っていた。
「…光。話を受けるから今日別宅に来るって…」
「言ってない。埒が明かないから改めて伺いますって言ったの。」
怯んで口を噤む光臣。な…なんだ。そうだったのか…。
「おじい様とおばあ様を味方につけて言いくるめようとするなんて卑怯じゃない?」
「…俺はただ、玉城家がそれを望んでるんだってことを教えたくて」
「そんなのどうでもいいし、関係ない。私はもう玉城家の人間じゃないし。」
「だから…言っただろ。お前が籍を戻せば…俺と結婚すれば…スイスの4つの別荘と日本の2つの別荘、フランスとアメリカの別宅…それからおばあ様の株式と財産、元父親名義の全ての不動産を譲渡するって。」
…え?な、ナニソレ?次元が違い過ぎて意味わかんねえ…
「いらない。」
光は一切の躊躇もなく首を横に振った。
…いいのかよ、本当に…それだけの財産を捨てても…
「…いらない?お前…馬鹿じゃないのか?お前が放棄する財産…どれだけの規模か、わかってるのか?」
「わかってる。」
「そんなに俺と結婚するのが嫌だっていうのか?どれだけ金を積まれても許さないって…当てつけのつもりかよ。」
「…違う。」
光はまた首を横に振って…俺を見上げて、手にそっと触れた。そして指を絡ませて、しっかりと握った。
「それを受け取ったら…一也さんを失うことになるから」
「…光」
「だから、いらない。」
光臣が愕然と光を見て、俺を睨んだ。
「…そいつが、傷のことを知ってるからだろ?」
「……。」
光臣の言葉に、光の手が冷たくなる。俺はその小さな手を、しっかりと握り返した。
「傷のことを受け入れてくれる男なら誰でも良かったんだろ。それなら俺だって、その傷のことはもう何も言わないよ。お前は美人だし…女優・玉城光は社交界の場でも自慢できる。もう誰も、お前をその傷のことで責めたりしないし…それに俺はそいつよりずっと前からお前を知ってる。母親の虐待も、父親の不干渉も。俺以上にお前を知ってる男はいないんだぞ。」
「…光臣…」
低い声に誘われて見下ろした、悲しそうで憐れむような光の横顔は、夕日を受けてきらきらと輝いていた。
「あなたは…私のことを知ってるけど……何も理解してない。」
「……。」
光臣は息をのんで言葉を詰まらせた。
「私は一也さんが好き。」
「……。」
「一也さんがいれば…なんでもできる。」
俺をちょっと見上げた光は微笑んでいて、俺も気づかず口元に微笑みを浮かべた。
「…じゃあ…どうすればいいんだよ。」
光臣はわなわなと呟いた。
「どうすれば許してくれるんだよ。」
「…何を?」
「……。」
光臣は答えず、ただ唇を噛んでいる。
「俺を…許せないから、結婚を断るんだろ。」
はあ、と光のため息が響いた。
「…違うよ。私は別に、光臣のことを恨んでなんかない。」
「じゃあどうして…」
「嫌いなの。」
きっぱりと、光が言った。呆然とする光臣、居たたまれない俺。
「…な…なんで?」
「冷たい人だから。」
「…え?」
「残酷で、人に酷いことを平気で言って、人を傷つけて、簡単に許せなんて言う冷たい人だから。」
「……。」
言葉を失う光臣。…つーか、無自覚だったのかよ…。
「…じゃあ…それを直せばいいのか?」
「…何が?」
「俺のことを嫌いじゃなくなるのか?」
…なんだこれ。何の話だよ。
「それはわからない。」
「…じゃあどうすれば」
「光臣。逆に聞くけど、どうすれば光臣は私のことを諦めてくれるの?」
「……。」
「過去の暴言を許して、婚約の申し込みも断った。何度も。なのに、どうしてまだしつこくするの?」
「……。……俺は」
光臣は俯き、そして…ぽろぽろと涙をこぼした。
「……光のことを…愛してる…」
……え…ええー……泣いちゃったよ…。どうすんだよこれ…
「光臣…それなら、もう…答えは出てるよね。」
「……。」
「私はこの人のことを愛してる。もう結婚したの。光臣とは一緒になれない。…これからもずっと。」
「……。」
俺はただ、大の男がぽろぽろと涙を流すのを、どこか非現実的な気持ちで眺めた。
「今日、これから…おじい様とおばあ様と叔母様にも話をしに行くから」
「……。」
「光臣からも、ちゃんと話してね。あと…叔父様にも。」
「……。」
それだけ言うと、光は繋いでいた俺の手を軽く引っ張った。いいのか?と目で問うと、行きましょう、と小さく声が返ってきた。静かに涙を流す光臣を残して、俺たちは社長室を後にした。
***
「次の信号を左です。」
「はいよ」
光の案内で、現在光の祖父母と叔母、光臣が住んでいるという玉城家の日本の別宅に向かう。あー…すげえ緊張する…。
「…会社から5分かからないって言ってたけど…まだ?」
もう10分くらいは運転している。道が混んでるわけでも、迷ったわけでもないのに…。
「もう着いてますけど、車両用の門が反対側なので…」
「……ん?ちょっと待って、何の話?」
「えっと、だから…」
光は窓の外のレンガ造りの外壁を指さした。
「ここがその別宅です。」
「…え!?」
「徒歩なら裏門から入れるんですけど、車だと正面から入らなくちゃいけなくて。でももうすぐ見えてきますよ。」
この外壁…5分くらいずっと続いてるんですけど…
「あ…あそこです。車係の者がいるので」
「え?あそこ?」
黒い鉄格子の重厚な門構え。両側に黒いスーツを着た男が立っていて、物々しい雰囲気だ。
「本当に?大丈夫?俺殺されない?」
「何言ってるんですか……」
「いやだってあんなの…映画でしか見たことねーよ」
それでも光の指示通り、門に向かって左折する。門の前で停止すると、両側の男があるいてきて窓から車内を窺ってきた。そして光の顔を確認するやいなや、目線を交わし門を開く。
「うおお…」
「行きましょう。」
「おう…」
現実味がないまま車を発進させる。門を通過すると両側は雑木林で、今の状況を忘れられたら軽井沢にドライブにでも来たような気分だ。…忘れられないのだけど。
暫く林道を進むと、急にひらけた場所に出て、大きなレンガ造りの洋館があらわれた。
「……。」
もう言葉も出ない。なんか使用人みたいな人が待ってるし。
「建物の前に停めちゃっていいですよ。」
「おう…」
光の言う通り玄関前に車を停めると、控えていた使用人らしき男が近寄ってくる。意を決して車から降りると、その男は恭しくお辞儀をして手を差し出してきた。
「お車のキーをお預かりいたします。」
「え?」
なんで?
困惑する俺の後ろから、光が答えた。
「すぐ帰るので必要ありません。」
「かしこまりました。」
男はまた恭しくお辞儀をし、玄関へ向かっていった。俺たちも玄関に向かうと、男は目を伏せたまま扉を開く。
そこは…玄関、というよりエントランス、というべきだろうか。木造の床と柱、石の壁。奥には幅の広い階段があり、青い絨毯が敷かれている。至る所に高価そうな花瓶や調度品が鎮座し、エントランスの中央の台にも大きな花瓶にたくさんの花が飾られていた。こ…これで別宅かよ。本家は一体どんな豪邸…いや、城だろもう。
「叔母さん。」
光が少し足を速めた。見ると、奥の扉から光の叔母がやってきたのだった。
「あ…、よかった。一也君と話せたのね。」
「うん…。」
叔母を前に少し表情を和らげる光を見て、俺も安堵する。
「一也君。」
叔母は真剣な顔をして俺の前へ歩いてきた。俺は会釈をし、心なしか姿勢を正す。
「今回のこと…光臣が勝手なことをしてごめんなさい。」
「いえ、俺は…」
言いかけた時、右側の大きな扉が開かれた。一同話をやめて振り向くと、光の祖父母がやって来たのだった。こうしてみると、やはり貫禄と威厳がある。
「…実家に食事に来たわけではなさそうだね。」
祖父は光と俺を見て言った。光は俺の隣にやってきて、並んで立った。
「でも、せっかくだから食事でもしながら話さないか?」
そう言って屋敷の奥を指す祖父に、光は首を振った。
「おじい様、今日は言いたいことがあって来ただけなの。」
「そうか。…何かな?」
「……。」
光が緊張したように息を飲んで、俺はそれを庇うように思わず口を開いた。
「…光さんは俺の妻です。誰にも渡すつもりはありません。」
ちらり、と祖父の目が動いた。ふー…、と深く息を吐くのが聞こえた。
「光臣は何と言ってるんだ?」
光の顔が青ざめる。俺は咄嗟に…彼女の手を掴んだ。
「光臣が何て言ってるかなんて…関係ありません。」
「……。」
「俺たちは夫婦で…別れるつもりはない。それでこの話は終わるはずです。」
手の中の光の小さな手に力が篭った。
「…君は…」
祖父は鋭い眼光で俺を見上げた。
「君と一緒になることで、光が失うことになる莫大な財産のことをわかっているのかね?」
「……。」
ごくり、と俺の喉が鳴った。
「そんなもの…」
隣の光が震える声で言った。怯えるように祖父を見て、俺の手を握り返して。
「一也さんと別れるくらいなら…いらない」
「……。」
祖父はしばらく黙ってから、一切の微笑みを消した顔で、光を見た。
「…わかった。」
「……。」
「ならば…お前に遺すものは何もない。それでいいんだな。」
「はい。」
光は迷いなく頷いて――俺の手を引いた。
「ここにももう来ません。」
「光ちゃん…」
叔母が引き留めるように足を踏み出したのを、光は微笑んで止めた。
「…さようなら。」
祖父母の返事を待たず、光は俺の手を引いて歩きだす。使用人の男が玄関のドアを開き、そこに停めてあった車に乗り込んで、もと来た道を戻る。
帰りの車内で光は、延々と続く並木道を、ただ目に焼き付けるように…黙ったまま眺めていた。