136
昨日は倉持と飲んで、倉持はそのまま泊まることになり、朝を迎えた。
ぼんやりと覚醒していると、唇に柔らかい感触。撫でるような、咥えるような…はむ、と唇を挟んでは、ちゅ、と音を立てて離す。
「…光」
手探りで手をあげると、細い腕に当たる。その腕を掴んで、やんわりと押し倒し、俺が上になる。組み敷かれた光はいたずらが成功したような子猫みたいに目をキラキラさせて俺を見上げる。…寝起きとは思えないご機嫌さ。
「最近すげーキス魔だね。」
「…好きなんだもん」
ねだるような甘い声をこぼす赤い唇を、ちゅっ、と舐めて、起き上がる。
光も起き上って伸びをすると、クローゼットの前に立った。
「…あ、冷蔵庫何もねーんだった」
「何か買ってきますか?」
「そうだな。それか、外食でもいいし…倉持もう起きてるかな。」
リビングを覗くと、ソファに寝ころがり寝息を立てる倉持が見える。
「…寝てるわ。何か買ってくるか」
「はい。」
光はどこか嬉しそうに服を選び始める。一緒に出掛けるのなんて久々だもんな…。つってもただ朝飯買いに行くだけだけど。それにずっと気になってることがある。…新婚旅行、まだ行けてねーんだよな〜…。お互いの予定がなかなか合わなくて。俺も光も長期の休みをとるのは厳しいし…。
光はやっぱりなにも言わないけど…気にしてんじゃねーかなー。やっぱ何か…どうにかするべきだよな。
顔を洗って着替えを済まし、倉持に書置きをして鍵を取る。
「行きますか?」
「うん。あ…ちょっと待って」
ふと思い出して、テーブルに置いてあったウサギの置物を手に取る。手の中に納まってしまうほど小さな置物。プラスチックのチープな見た目だが、案外置物としての機能を重視されているのか少し重みを感じる。
「行こう。」
声をかけて、光とふたり、部屋を出る。エレベーターでロビーまで降り、駐車場入り口へ向かう前に、エントランス側の管理人室のインターフォンを押した。ややあって、窓口のシャッターが上がり、中から中年の男が顔を出す。
「おっ、御幸さん。おはようございます。ご夫婦でお出かけ?」
「はは……はい。」
仲良いねえ、羨ましいよと管理人の男は人の良い笑みを浮かべる。
「あの、コレ…昨日うちの郵便受けに入ってたんですけど…」
ウサギの置物を差し出してそこまで言いかけると、管理人の目がまん丸くなった。
「あれ、御幸さんのところにもですか。」
「え?…もしかして他の部屋も?」
「そうなんですよ。先週…くらいからかな。急に1階にお住いの方々が、これと似たようなのを持ってきて。次の日は2階、その次が3階…、って上がってきてる気がするんですわ。」
「え…」
ホラー映画かよ。
「そうなんですか…気味が悪いですね。」
「ほんとにねえ。…ま、これはうちで預かっておきます。すいませんね、お手数かけて。」
「いえ。それじゃ。」
なんだかすっきりしないものの、それが手元から離れたことで安堵して、俺は気味悪さを頭の片隅に追いやった。
車に乗り、駐車場の出口へ向かう。
「あれ…ここ駐車禁止だぞ」
駐車場の入り口を少し邪魔するような場所に停められた黒い軽自動車。避けながら駐車場を出て、少し呆れる。まあ…あの辺は警備員もうろついてるし、すぐに退かされるだろう。
俺たちは結局スーパーまで行って食材を買い出し、パン屋にも寄ってパンを買い、数日分の食材を確保した。その帰り道、ご機嫌な光は窓の外を眺め、あっと声を上げる。
「すごい桜…」
「ほんとだ。満開だな。」
川沿いの遊歩道を彩る満開の桜。まだ朝早いからか、あまり人もいない。車のハザードを焚いて路肩に車を寄せると、光は不思議そうに俺を見た。
「せっかくだし、ちょっと見ていこうぜ」
そう提案すると、光は満面に笑みを咲かせた。
満開の桜を見上げながら川沿いを歩き、ふと立ち止まる。
「なんか…交際発表したときを思い出すな」
「あっ、やっぱりそう思いました?」
ふたりして笑って、向かい合って手を繋いだ。あれから大変なことがたくさんあったけど…今こうしてこいつと手を繋いでいられるのがうれしい。
「…なあ」
「? はい」
「お前さ…どこか、行きたいところとか…ある?」
きょとん、と目を瞬いて、光は俺を見上げる。
「行きたいところ?」
「それか、やりたいことでもいいけど」
「……。」
海に行きたい、とかだったら南国…。美味しいものを食べたい、とかだったら…イタリアあたりか?のんびりしたいって言ったら…うーん…どこがいいかな。俺、海外あんま詳しくねーしなぁ。
「……。」
光はずいぶん長いこと悩んでいる。…質問の意図に気付いたかな?新婚旅行…女が気にしねーとは考えにくいし…。
光は少しうつ向いて、考え込んで、ほわりと頬を赤くした。…え、なんで照れてるんだろう?
「……あの…」
「ん?」
光は俺をちらりと見つめ、目を逸らす。
「………いえ…。」
「なんだよ、あるなら言えよ。」
「んん……。」
右手をゆっくりと解いて、口元にあて、赤面をごまかしている。な…なんだ!?そんなに恥ずかしがるような行きたいところって…。
「なあ」
「…な、なんでもないです…」
「そーゆーのナシ。言えって。」
「ほんとになんでもないですから…」
「光。お願いだから言って。」
両肩を掴んで顔を覗き込むと、光はおずおずと…小さく口を開いた。
「……ベッ、ド……」
「……え」
「……とか…。」
「ちょっと待って」
やばい。思いがけぬ爆弾投下で俺の顔も熱い。咄嗟に深くうつ向いて顔を隠す。つーか、行きたいとこどこ?って聞いて、ベッド、って…。色々反則だろ…!よく思いついたな…!
「…俺、今すぐ行きたい…」
「……。」
絞り出すようにつぶやくと、光が息を飲んだのが分かった。ほんとにもう、こいつは…どこまで可愛いんだよ。
「あ〜…でも倉持いるんだよな…追い出してぇ〜…」
「…ふふ」
「でもそういうのあいつ鋭いから逆に居座りそうだし」
「あはは。そうですね」
「…じゃ、今夜」
「……。」
「…と、いうことで」
「…はい…。」
深く息を吐いて心を落ち着かせ、顔を上げる。光は赤い顔で俺を見つめている。その赤い唇にキスしたくなって…思いとどまった。
「…早く車乗ろう。」
「え?」
「…せめてキスしたい。」
恥を忍んで打ち明けると、光は微笑んで、はいと頷いた。
車に乗り込み、さっそくキスをする。ちゅっ、と音を立てて、光の吐息を聞く。光はうっとりと目を瞑ってキスに夢中になっている。…可愛いな。押し倒したい。
「…またマスコミに撮られるかな。」
「…やだ」
そういいつつも光はキスをやめない。
「…光。」
「ん……」
「もう俺、…口が溶けそう」
「…んふふ」
光は小さく笑って、ようやく唇を離した。その小さな顔の、柔らかな頬を撫でて、俺は口元を緩める。
「…帰るか。」
「はい。」
エンジンをかけ、サイドミラーを覗く。後ろには黒い車が停まっていて、運転席には人影が見えた。特に気にも留めず車を出す。すると、その黒い車もゆっくりと動き出した。
川沿いを逸れ、住宅街の入り組んだ道を進み、大通りに出る。黒い車はゆっくりと、車間距離を保ったまま後ろを走っている。
「…どうしたんですか?」
ルームミラーを気にする俺に気付いて、光が尋ねた。
「いや…後ろの車、着いて来てね?」
「え…。」
光はサイドミラーに視線を移す。
「…マスコミ…ですかね?」
「…かもな。」
大通りを右折し、右車線に入る。速度を上げて車を追い抜き、黄色信号に滑り込み、左折して住宅街に入る。それから大回りして国道まで出て、さすがに撒けただろうと橋を越えてマンションの付近まで戻ってきた。後ろを確認し、あやしい車がないことを確かめてマンションの駐車場に入庫する。
マンション内の通路を通ってロビーに入ると、管理人と駐車場の警備員がエントランスの方を覗きながら話をしていた。
「あ、おかえりなさい。」
管理人が俺たちに気付いて声をかける。
「何かあったんですか?」
そう尋ねると、警備員が外を指しながら言った。
「いや、あそこにさ、黒い軽があるでしょう?朝、駐車場の入り口前に路駐してたのを注意したんだけどね、また戻ってきたのよ。」
…黒い軽自動車?
にわかにモヤモヤと胸騒ぎがして、マンションの外を覗く。警備員の言う通り、そこにはこれといった特徴のない黒の軽自動車が停まっていた。道の反対側の、ちょうどマンション内を覗けるような位置に。
「なんか怪しいけど、道の向こう側だから注意するのもねぇ。」
「一応、不審車両として記録取っておきます。」
「お願いします。」
管理人と警備員が受付の所でそう話し始めたのをきっかけに、俺は光の手を握った。
「…行こう。」
そう言って、光の手を引く。
なんだかとても、不穏な空気を肌に感じた。
ぼんやりと覚醒していると、唇に柔らかい感触。撫でるような、咥えるような…はむ、と唇を挟んでは、ちゅ、と音を立てて離す。
「…光」
手探りで手をあげると、細い腕に当たる。その腕を掴んで、やんわりと押し倒し、俺が上になる。組み敷かれた光はいたずらが成功したような子猫みたいに目をキラキラさせて俺を見上げる。…寝起きとは思えないご機嫌さ。
「最近すげーキス魔だね。」
「…好きなんだもん」
ねだるような甘い声をこぼす赤い唇を、ちゅっ、と舐めて、起き上がる。
光も起き上って伸びをすると、クローゼットの前に立った。
「…あ、冷蔵庫何もねーんだった」
「何か買ってきますか?」
「そうだな。それか、外食でもいいし…倉持もう起きてるかな。」
リビングを覗くと、ソファに寝ころがり寝息を立てる倉持が見える。
「…寝てるわ。何か買ってくるか」
「はい。」
光はどこか嬉しそうに服を選び始める。一緒に出掛けるのなんて久々だもんな…。つってもただ朝飯買いに行くだけだけど。それにずっと気になってることがある。…新婚旅行、まだ行けてねーんだよな〜…。お互いの予定がなかなか合わなくて。俺も光も長期の休みをとるのは厳しいし…。
光はやっぱりなにも言わないけど…気にしてんじゃねーかなー。やっぱ何か…どうにかするべきだよな。
顔を洗って着替えを済まし、倉持に書置きをして鍵を取る。
「行きますか?」
「うん。あ…ちょっと待って」
ふと思い出して、テーブルに置いてあったウサギの置物を手に取る。手の中に納まってしまうほど小さな置物。プラスチックのチープな見た目だが、案外置物としての機能を重視されているのか少し重みを感じる。
「行こう。」
声をかけて、光とふたり、部屋を出る。エレベーターでロビーまで降り、駐車場入り口へ向かう前に、エントランス側の管理人室のインターフォンを押した。ややあって、窓口のシャッターが上がり、中から中年の男が顔を出す。
「おっ、御幸さん。おはようございます。ご夫婦でお出かけ?」
「はは……はい。」
仲良いねえ、羨ましいよと管理人の男は人の良い笑みを浮かべる。
「あの、コレ…昨日うちの郵便受けに入ってたんですけど…」
ウサギの置物を差し出してそこまで言いかけると、管理人の目がまん丸くなった。
「あれ、御幸さんのところにもですか。」
「え?…もしかして他の部屋も?」
「そうなんですよ。先週…くらいからかな。急に1階にお住いの方々が、これと似たようなのを持ってきて。次の日は2階、その次が3階…、って上がってきてる気がするんですわ。」
「え…」
ホラー映画かよ。
「そうなんですか…気味が悪いですね。」
「ほんとにねえ。…ま、これはうちで預かっておきます。すいませんね、お手数かけて。」
「いえ。それじゃ。」
なんだかすっきりしないものの、それが手元から離れたことで安堵して、俺は気味悪さを頭の片隅に追いやった。
車に乗り、駐車場の出口へ向かう。
「あれ…ここ駐車禁止だぞ」
駐車場の入り口を少し邪魔するような場所に停められた黒い軽自動車。避けながら駐車場を出て、少し呆れる。まあ…あの辺は警備員もうろついてるし、すぐに退かされるだろう。
俺たちは結局スーパーまで行って食材を買い出し、パン屋にも寄ってパンを買い、数日分の食材を確保した。その帰り道、ご機嫌な光は窓の外を眺め、あっと声を上げる。
「すごい桜…」
「ほんとだ。満開だな。」
川沿いの遊歩道を彩る満開の桜。まだ朝早いからか、あまり人もいない。車のハザードを焚いて路肩に車を寄せると、光は不思議そうに俺を見た。
「せっかくだし、ちょっと見ていこうぜ」
そう提案すると、光は満面に笑みを咲かせた。
満開の桜を見上げながら川沿いを歩き、ふと立ち止まる。
「なんか…交際発表したときを思い出すな」
「あっ、やっぱりそう思いました?」
ふたりして笑って、向かい合って手を繋いだ。あれから大変なことがたくさんあったけど…今こうしてこいつと手を繋いでいられるのがうれしい。
「…なあ」
「? はい」
「お前さ…どこか、行きたいところとか…ある?」
きょとん、と目を瞬いて、光は俺を見上げる。
「行きたいところ?」
「それか、やりたいことでもいいけど」
「……。」
海に行きたい、とかだったら南国…。美味しいものを食べたい、とかだったら…イタリアあたりか?のんびりしたいって言ったら…うーん…どこがいいかな。俺、海外あんま詳しくねーしなぁ。
「……。」
光はずいぶん長いこと悩んでいる。…質問の意図に気付いたかな?新婚旅行…女が気にしねーとは考えにくいし…。
光は少しうつ向いて、考え込んで、ほわりと頬を赤くした。…え、なんで照れてるんだろう?
「……あの…」
「ん?」
光は俺をちらりと見つめ、目を逸らす。
「………いえ…。」
「なんだよ、あるなら言えよ。」
「んん……。」
右手をゆっくりと解いて、口元にあて、赤面をごまかしている。な…なんだ!?そんなに恥ずかしがるような行きたいところって…。
「なあ」
「…な、なんでもないです…」
「そーゆーのナシ。言えって。」
「ほんとになんでもないですから…」
「光。お願いだから言って。」
両肩を掴んで顔を覗き込むと、光はおずおずと…小さく口を開いた。
「……ベッ、ド……」
「……え」
「……とか…。」
「ちょっと待って」
やばい。思いがけぬ爆弾投下で俺の顔も熱い。咄嗟に深くうつ向いて顔を隠す。つーか、行きたいとこどこ?って聞いて、ベッド、って…。色々反則だろ…!よく思いついたな…!
「…俺、今すぐ行きたい…」
「……。」
絞り出すようにつぶやくと、光が息を飲んだのが分かった。ほんとにもう、こいつは…どこまで可愛いんだよ。
「あ〜…でも倉持いるんだよな…追い出してぇ〜…」
「…ふふ」
「でもそういうのあいつ鋭いから逆に居座りそうだし」
「あはは。そうですね」
「…じゃ、今夜」
「……。」
「…と、いうことで」
「…はい…。」
深く息を吐いて心を落ち着かせ、顔を上げる。光は赤い顔で俺を見つめている。その赤い唇にキスしたくなって…思いとどまった。
「…早く車乗ろう。」
「え?」
「…せめてキスしたい。」
恥を忍んで打ち明けると、光は微笑んで、はいと頷いた。
車に乗り込み、さっそくキスをする。ちゅっ、と音を立てて、光の吐息を聞く。光はうっとりと目を瞑ってキスに夢中になっている。…可愛いな。押し倒したい。
「…またマスコミに撮られるかな。」
「…やだ」
そういいつつも光はキスをやめない。
「…光。」
「ん……」
「もう俺、…口が溶けそう」
「…んふふ」
光は小さく笑って、ようやく唇を離した。その小さな顔の、柔らかな頬を撫でて、俺は口元を緩める。
「…帰るか。」
「はい。」
エンジンをかけ、サイドミラーを覗く。後ろには黒い車が停まっていて、運転席には人影が見えた。特に気にも留めず車を出す。すると、その黒い車もゆっくりと動き出した。
川沿いを逸れ、住宅街の入り組んだ道を進み、大通りに出る。黒い車はゆっくりと、車間距離を保ったまま後ろを走っている。
「…どうしたんですか?」
ルームミラーを気にする俺に気付いて、光が尋ねた。
「いや…後ろの車、着いて来てね?」
「え…。」
光はサイドミラーに視線を移す。
「…マスコミ…ですかね?」
「…かもな。」
大通りを右折し、右車線に入る。速度を上げて車を追い抜き、黄色信号に滑り込み、左折して住宅街に入る。それから大回りして国道まで出て、さすがに撒けただろうと橋を越えてマンションの付近まで戻ってきた。後ろを確認し、あやしい車がないことを確かめてマンションの駐車場に入庫する。
マンション内の通路を通ってロビーに入ると、管理人と駐車場の警備員がエントランスの方を覗きながら話をしていた。
「あ、おかえりなさい。」
管理人が俺たちに気付いて声をかける。
「何かあったんですか?」
そう尋ねると、警備員が外を指しながら言った。
「いや、あそこにさ、黒い軽があるでしょう?朝、駐車場の入り口前に路駐してたのを注意したんだけどね、また戻ってきたのよ。」
…黒い軽自動車?
にわかにモヤモヤと胸騒ぎがして、マンションの外を覗く。警備員の言う通り、そこにはこれといった特徴のない黒の軽自動車が停まっていた。道の反対側の、ちょうどマンション内を覗けるような位置に。
「なんか怪しいけど、道の向こう側だから注意するのもねぇ。」
「一応、不審車両として記録取っておきます。」
「お願いします。」
管理人と警備員が受付の所でそう話し始めたのをきっかけに、俺は光の手を握った。
「…行こう。」
そう言って、光の手を引く。
なんだかとても、不穏な空気を肌に感じた。