休日の朝。今日は光とふたりきりの、静かな朝だ。
まだ夢の中にいる光を見つめて胸の奥が熱くなる。ぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られて、でも起こしてしまうだろうと思いとどまる。こっそりベッドから降りて、キッチンでコーヒーを淹れる。しばらくすると光が起きてきて、キッチンにやってくると、俺の首に腕を回して顎にキスをした。

「おはよ。」

あいさつで返すと光は満足そうににんまりと笑って洗面所へ向かう。
すっかり素直に甘えるのが板についてきて、最近ではこれが光の本当の姿なのかもしれないとすら思えてきた。昔は…高校生の頃は、あまり笑わなくて、人を遠ざけるような態度で、いつも気を張って警戒している野生動物みたいだったな。あの頃の自分に、数年後には毎朝キスをねだられるぞと教えたら、きっと信じてもらえないだろう…そう考えて少し笑みがこぼれた。

コーヒーを淹れてソファに運んでいると、インターフォンが鳴った。モニターには黒っぽい作業服の男。キャップを深くかぶり、眼鏡とマスクで顔はよく見えない。

「…どちらさま?」

なんとなく不審に思いながらマイクで応答すると、男はその容貌に似合わぬ明るいはつらつとした声で答えた。

「お世話になります。お届け物ですー。」
「…はい」

…届け物?何だろう。
開錠ボタンを押し、男がロビーに入るのを見届けてモニターを切る。

「誰か来たんですか?」

洗面所から出てきた光が寝室に向かいながら尋ねる。

「宅急便?だと思う」
「?ふうん…」

寝室のドアが閉まった後、部屋のインターフォンが鳴った。玄関に向かい、ドアを開けると、大柄な男が小包を持って、俯き気味に立っていた。

「すいません、お世話になりまーす。」

男は玄関に入ってくると、小さな紙を取り出して言う。

「判子お願いしまーす。」
「あ…サインでいいですか?」

靴箱の上に常備してあるペンを取って言うと、男はペコペコと何度か頷いて言った。

「すいません、判子で。」
「え?…じゃあ、ちょっと待っててください。」

判子じゃなきゃダメだなんて、変な奴…。訝しく思いながら三文判を引っ張り出し、玄関に戻る。判子を朱肉に押し付けながら歩いていくと、男が急にあっと声を上げた。

「あれ、すいません、ここって鈴木様のお宅で?」
「いえ、御幸ですけど…」
「あっ!!申し訳ございません、こちらお隣のお宅でした。申し訳ございません。」
「はあ…。」

半ば呆れながら、ペコペコと退散する男を見送る。ドアが閉まって、判子を拭きながらリビングに戻ると、チュニックにスキニーパンツ姿の光がコーヒーを飲んでいた。

「どうしたんですか?」
「間違いだったみたい。」
「へえ…?」

ふたりで首をかしげる。こんなことはこのマンションに住んで初めてのことだった。

「でもなんか怪しい奴だったよ。黒ずくめで帽子に眼鏡にマスクまでして。」
「花粉症なんじゃないですか?」
「サインはダメって言うし」
「それ、判子?」
「うん」

手を伸ばす光に判子を渡す。光は判子をまじまじと見つめて微笑みを浮かべた。

「私、御幸っていう苗字、好きなんです」
「そう?ガキの頃は相当からかわれたよ。」
「ふふふ。可愛いじゃないですか。それに綺麗だし…」
「玉城って苗字も綺麗じゃん」
「でも…おしあわせ、って書くんですよ。すごく素敵。」
「……。」

微笑む光が愛おしくなって、衝動のままに抱きしめる。それでも光は甘えるように俺に体を預けてくれた。

「俺お前のこと本当に好きだわ…」
「何ですか、急に」
「なんか…時々すげーそう実感する」

腕の中のぬくもりに身を委ねて、そのまま眠ってしまいそうなほどの安心感に包まれる。そんな俺の背中に光が腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返してくる。

「私も…」

そう小さく呟いて、光は照れ臭そうに笑った。
その柔らかな髪を撫でながら、彼女の微笑みに見惚れる。

「光、あのさ…」
「?」
「新婚旅行…どこ行きたい?」

その言葉を聞いたとき、光はきょとんと俺を見上げて、はっとすると、だんだんと頬を赤くして俯いた。

「…昨日の質問って…」
「いやいや、いーのいーのそれは。結果オーライ」
「……。」

俯いて赤面する光の頭をくしゃくしゃと撫で、髪をかき乱す。

「…お互い忙しいけどさ、俺、オフシーズンなら何とかなると思うし…」
「私も…司に頼めば、1週間くらいなら予定空けてもらえると思います。」
「よし。」

彼女の頬を撫でて、はにかみ笑いを手のひらにおさめる。
光と旅行か…。初めてだな。

「じゃあ、今年のオフシーズンだな。」
「ですね。」
「覚えとけよ。」
「…忘れませんよ。」

呆れたように、でも可笑しそうにじろりと睨む光の額にキスをする。そうして朝食を作るために立ち上がった。

「どこがいい?」
「うーん…」
「海?山?」
「アバウト過ぎません?」
「じゃ、国内?海外?」
「海外!」
「へぇ。なんか意外」
「だって…外国でなら、人目を気にしないで外を歩けるし」
「あ、そうか…確かに。」

ふふふ、と光の笑う声が聞こえた。

「冬だからあったかいところにする?」
「景色が綺麗なところがいいな」
「食いもんが美味いってのは外せないよな」

そんなことを話しながら、簡単な朝食を二人で食べる。会話ははずみ、コーヒーを3杯もお替りしてしまった。


***


翌日、光は午後から夜通し仕事だというのでまだ眠っていた。俺はコーヒーを淹れながら、午前中に軽く走ってくるかな、などと考える。
その時インターフォンが鳴って、モニターに歩み寄る。気まずそうに少し視線を外して立っているその男は、光臣だった。
…家に上げたらたぶん、光怒るよな。
しばらく迷っていると、光臣はふっとモニターから姿を消した。…あきらめて帰ったか?まあ、いっか。
コーヒーを飲んで、Tシャツにスウェットのラフな部屋着のまま部屋を出て、郵便受けを見に行く。新聞と、チラシと、光熱費の請求明細と…それから分厚い旅行社の封筒が入っていた。…なんだろう?その場で封もされていない封筒の中を確認すると、新婚旅行ツアー特集の冊子が数冊入っていた。なんつータイムリーな…。昨日話したばっかだぞ。
変なこともあるもんだと苦笑しながら踵を返し、部屋に戻る途中、なんとなくエントランスの方を見た。そこには、階段に座り込む高そうなスーツを身に着けた細身の男の背中があった。

「…よお」

少し迷ったが、俺はエントランスに出てそう声をかける。その男――光臣は、俺を見上げて口を開けた。

「…おはようございます。」
「こんなとこ座ってたら通報されるぞ。」
「……。」

光臣は気分を害したのか無関心なのかわからない仏頂面で立ち上がり、埃を払った。

「で、何の用?」
「……留守かと…」
「いや、光が怒ると思って。まだ寝てるけど…あいつに用?」
「……。」

光臣はしばらく黙って、持っていた紙袋を差し出す。綺麗で高級感のある紙袋。洋菓子店の物だ。

「叔母に…光の好物を聞いて」
「…これを渡すために?」
「いや…俺は……、…謝りたくて」
「……。」
「いや…違うな。光はもう、許してくれたんだから…」

光臣は今気が付いたように呟いて、黙った。確かに言う通りだけど、今のしおらしいこの態度なら、光の反応も変わるんじゃないかと思えた。

「でも…このままじゃ、いけない気がして」
「縁を切ったことか?」
「そうだ。…光が俺を嫌っていることは、もう、わかってる…。どうしようもないことも…。」
「……。」
「だけど…何か、力になれないかと思って…」

なんだこいつ…本当にあの光臣か?

「…まぁ、光にはお前が来たこと、伝えておくよ。」
「……。」

光臣は、インターホンの隣に貼ってある不審者情報の貼り紙をぼんやりと眺めている。

「…頼む。」

絞り出すように呟くと、光臣は俺を見た。

「…旅行に行くのか?」
「え?…ああ、まだ先だけどな。」

俺の手元の封筒を見て光臣が言った。世間話を振ってくるとは珍しい。

「それなら何か力になれるかもしれない。プライベートジェットや現地での運転手…付き人も用意できるし、ホテルのスイートにも口がきくしプライベートビーチも…」
「い…いやいやいや!別にいいってそんなの。」
「だが…」

こ…コエ〜。やっぱ別世界の人間だわ。
唖然としていると、光臣の携帯が鳴った。光臣はちょっと俺に手を挙げて断ると、電話に応答する。それから早口で何言か喋り、スマートに電話を切った。今の…フランス語か?

「すまない、仕事だ。今日は失礼する。」
「あ、ああ…。」

光臣は歩いて行って、マンション前に停まっていた黒塗りの車に乗り込み、去っていった。やっぱあいつ、すげー奴なんだなぁ。コネとはいえ、あんなに若いのに大手会社の社長を任されてるわけだし…。
そんなことを考えながら、おれはのんびりと部屋へ戻った。


***


その夜、珍しい来客があった。

「……。」
「……。」

ソファで哲さんとふたり、顔を突き合わせる。この人が突然来るなんて珍しいな…しかも一人で。

「光は留守か?」
「はい、仕事で…」
「そうか。」

哲さんは頷いて、少し茶を飲んだ。

「…光に何か話があったんですか?」
「話というか…少し気になる事があったんでな。」
「気になる事?」
「先日、久しぶりに実家に帰省したんだが…」

哲さんの話によると、哲さんの実家の向かいの家…光が高校生のころ住んでいた家の前を、最近、不審者がうろついているらしい。哲さんもご両親から聞いただけで、実際に見たわけではないらしいが、近所ではすでに噂になっていて、付近の警察は見回りを強化しているらしい。

「近所の人が散歩中に見たらしいが、黒い服で大柄な男が、家の中を窓から覗こうとしたり、門の中に入ろうとしていたらしい。」
「…それで、その人は?」
「声をかけたら逃げて行った、と聞いた。まあ、あの家は光が高校を卒業してから誰も住んでいないし、引っ越すときに家財も全部引き上げて、完全に空き家になっているが…」
「……。」
「昔、変な男に付きまとわれたことがあっただろう。気を付けるに越したことはないと思ってな。こっちではどうだ?何か、変わったことはないか?」
「変わったこと…。」

頭にふと過ぎったのは、先日の宅配業者の男。だが、特に何もせず帰って行ったし、光とも顔を合わせていない。

「……特には…」

なんだか釈然としないままそう呟く。

「そうか、それならいいんだが。」
「わざわざ、ありがとうございます。」

話題が途切れると、哲さんは部屋の中を見渡した。

「この家…碁盤はないのか?」
「え?…ありませんよ。」
「そうか…。」
「……。」

残念そうに呟く哲さん。それからまた俺を見て言う。

「目隠し将棋でもいいぞ。」
「……勘弁してください」



***


――数日後。
練習が終わり、外へ出ると、一斉に俺を取り囲むマスコミのカメラ。マスコミに追いかけられんのはいつものことだけど…なんか今日、やけに多くねーか?

「御幸選手!玉城さんの写真集はご覧になりましたか?」
「奥さんとは順調ですかー?」
「今回の写真集は妊活を控えて発売を決めたとの噂がありますが、本当ですか?」
「玉城さんがすでに妊娠されているとの噂についてはいかがですか〜?」

あ…そうか、写真集か。ったく、また勝手な憶測で下世話な噂ばらまきやがって…。

「はっはっは、子供ですか〜。まだまだ考えてませんよ。」
「では噂は事実ではないと?」
「ないですないです。」
「御幸選手としては欲しいとお考えですか?」
「そういうのは授かりもんですから。」

マスコミをかき分けて車に乗り込み、エンジンをかける。ゆっくりと駐車場を抜けて車道に出ると、ようやく周りから人が見えなくなって安堵した。…ったく、下世話なことをずけずけと。…光にも同じことしてねーだろうな…。

…でも、子供…か。
まあ…いつかは欲しい…けど…。

でもやっぱりまだまだ、ただ2人で毎日を過ごしていたい。

…でも…光似の子供、めちゃくちゃ可愛いだろうな〜〜。…あ、でも男だと奥村とか光臣に似るのかな。それはそれで面白いかもしれないけど。

思わずニヤつきながら、俺はマンションまで車を走らせた。

 


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