次の日、マンションに帰って駐車場からロビーに入ると、ちょうど光がエントランスから入ってきた。光は俺に気が付くとマスクを外して笑顔で駆け寄ってきて、腕を絡めてくる。

「ナイスタイミング。」

笑いながら言うと、光も楽しげに笑った。

「牧瀬に送ってもらったの?」
「はい。司はまだ仕事があるらしくて…事務所に戻りました。」
「そっか。大変だな」

エレベーターに乗り、目的のフロアに到着すると、光は鍵をポケットから取り出して先に歩いて行った。ドアの鍵を開け、俺を振り向きながらドアノブに手を伸ばす。

「今日、おいしいペペロンチーノの作り方を教えてもらったんですよ。なんと隠し味が…」

ドアノブをひねった光が、突然言葉を詰まらせて、驚いたようにドアノブを握る自分の手を見る。

「どした?」

ゆっくりとドアノブから手を離し、その手のひらを見つめる光に早歩きで近寄って、俺はその小さな愛らしい手を覗きこむ。その手のひらには…粘り気のある白濁した液体がべったりとついていた。ドアを見ると、ドアノブやドアの下半分に飛沫するように滴る半透明の液体。思い浮かんだその正体は…

「……っ」

光の腕を掴み、構わずドアノブを捻って部屋に踏み込む。洗面所に光を引っ張って行って、水を流してその手を洗った。何度も、何度も、気味の悪い液体を流し、その感触さえ忘れるほど。

「……。」

光は黙って人形のようにされるがままになっていたが、顔は青ざめていた。その顔を見ても、この液体の正体に光も気づいていることは明白だった。だけど…一体誰が、どうやって。
タオルを引っ張り出して、光の手を包み込んで、ぎゅっと握りしめる。忘れろ。…忘れろ。そう念じながら、ぎゅっと握りしめる…。だけど、光はとうとうそのふたつの宝石のような瞳から…ぽろ、と雫を零した。だんだんに目尻を赤くして、次々涙をあふれさせるその顔を見て、俺は苦しくなる胸に光を抱き寄せる。

「大丈夫だ。…大丈夫だから。」
「……っ」
「俺が…なんとかするから。」

背中を撫でてあやすように抱きしめる。この大切で、どうしようもなく愛おしい光を、あんな汚れたものに一度でも触れさせてしまったことに後悔が押し寄せた。もっと気を付けていれば――俺が先に、ドアを開けていれば…。
ぐるぐると後悔の念に苛まれていると、光がゆっくりと俺の胸を押し返した。

「だい…じょうぶ、です。ちょっと…びっくりしただけだから…。」

涙を拭いながら青白い顔で言う光。今まで何度も男の悪意に晒されて…汚い下心に塗れた視線を向けられて、きっとそれを知っているからこそ、こんな曝け出された男の欲望は余計に恐ろしく感じるに決まってる。こんなことをした犯人の欲望が…望んでいることが、肌に感じるほど理解できるだろうから。

「…光、無理は…」
「…でも、」

光は冷たい手で俺の手に触れた。

「もうちょっとだけ…手、繋いでて…ください」
「…ああ。」

その冷たさを溶かすように、俺はしっかりと小さな手を握り返す。それから左手でポケットを探り、スマホを取り出した。電話をかけ始める俺を、光はじっと見上げる。
数回の呼び出し音の後、その人物は電話に出た。

『…玉城だが。』

低い光臣の声。俺はもどかしく話し出す。

「光臣。…あの件はどうなった?何かわかったか?」

光臣、と聞いて、光は僅かにはっと息を飲む。

『ちょうどその件で電話しようと思っていた。』
「ってことは…何かわかったんだな?」
『ああ。…今どこにいる?』
「…マンションだけど」

かすかに息を飲む気配。光臣は電話越しだというのに声をひそめて言った。

『今から行く。』
「…え」

返事を待たずに切れる電話。どうしたんですか、と光が問う。

「光臣が…今から来るって」
「……。」

光は深刻そうに俯いて、だけど、異は唱えなかった。


***


20分ほどして、インターフォンが鳴った。開錠ボタンを押し、光をソファに座らせ、俺は玄関のドアを開けて光臣を待つ。数分後、エレベーターを降りてやって来た光臣は、ドアを開けて寄りかかって待つ俺を見て訝し気に眉を顰めた。

「さっきの電話だけど…」
「…?」

俺は切り出して、開いていたドアを少し引き、表を見せた。

「今日帰ってきたら、こうなってた。それで電話したんだよ」
「……これは…」

光臣は嫌悪感をあらわにして呟く。

「…精液、だろうな。」
「……。」

誰の、とは聞かなくても例の不審者だろうとわかるし、その不審者が誰なのかはわからないことも知っている。光臣は何も言わず、事務的に手帳を開いて何かメモを取った。

「中に光もいる。入れよ」
「…お邪魔します」

光臣を招き入れると、光はソファから立ち上がってこちらを振り向いた。

「……。」
「……。」

ふたりは黙って視線を交わす。部屋の中に少しの緊張が流れた。光臣は視線を逸らすようにテーブルを見つめた。

「これが…その、郵便受けに入っていた下着か?」

テーブルには封筒と、くしゃくしゃの白い下着を置いていた。

「ああ。」

頷くと、光臣はまたメモを取って、手帳を閉じた。

「ベランダで話せるか?」
「いいけど…」

不思議な申し出だと思いながら、断る理由もないので3人でベランダへ出る。ドアを閉めて部屋から離れ、手すりに近寄ると、光臣はようやく話し始めた。

「まず…顧問弁護士の見解だが、マンションに盗聴器の類が仕掛けられている可能性が高い、とのことだ。」
「え…。」

さっと血の気が引き、しかし冷静になれと頭の中で言い聞かせる。

「…それで外に?」
「そうだ。おそらく、例の宅配業者がその犯人だ。」
「……。」
「それから…黒い不審車両。あれは、宅配業者とグルか、もしくは同一人物だろう。」
「…嘘だろ…」

愕然として光を見る。光は心もとなげに自分の腕を抱えている。

「おそらく君の車にも、GPSか盗聴器か…何かが仕掛けられているとみていい、と言っていた。」
「そんな…一体いつ…」

そう言いかけて、数週間前、倉持の家に行った時のことを思い出す。そういえばあのときのあいつ…あいつも黒い服を着た大柄な男だった。

「何か心当たりがあるのか?」
「…何週間か前に…俺の車のそばで何かしてたっぽい奴がいたかもしれない。それに…」

蘇る、さまざまな不審点。それが今、驚くほど次々につながっていく。

「考えてみれば…それからだ。郵便受けに変なものが入れられるようになったのは…。最初はウサギの置物、次は……思えばあれも怪しい。旅行会社のツアー冊子…。ちょうど前の日に光と旅行の話をしてたから、タイミングが合いすぎてて…変だと思った。次がコンドーム…その少し前に、マスコミから取材で子供の予定を聞かれて…ニュースで流されてた。その次が下着…で、さっきの…ドアの…」
「……。」
「…犯人は…光に歪んだ好意を抱いてるようだな。」

光臣が呟いて、沈黙が流れる。

「…とにかく、俺はできる限りの協力をする。今日のことも顧問弁護士に話すし…二人が良ければ、ここに専門家を呼んで盗聴器や不審点を調べさせる。それから…」
「……。」
「…犯人はドアの前まで自由に来られることがわかった。部屋の中に侵入するのも時間の問題だろうし…もしかしたらもう入ってるかもしれない。」
「……。」

光が震えて息を飲む。それを見つめて、光臣はつづけた。

「ここに住むのも不安だろう。…しばらく、俺のところに来ないか?」
「…え?」
「お前の所…って」
「この近くの別宅だ。部屋はたくさん空いてるし…もちろん、二人とも歓迎する。」
「だけど…」

俺と光は顔を見合わせた。あそこにはもう二度と行かないと宣言したし、そう思っていたからだ。

「心配しなくても、おじい様とおばあ様は先日イタリアへ発たれたし、叔母も今日アメリカへ発った。屋敷には俺一人だ」

いや…使用人はいっぱいいるだろ…。それはノーカウントなのかよ。

「……でも…」

光は迷うように俯く。

「光。複雑なのはわかる。俺のことが嫌いなのも。だけど…今は緊急事態だ。あそこなら警備も心配ないし…お願いだ。俺に…君を助けさせてくれ。」
「……。」

頭を下げた光臣を、光は少し驚いたように見つめて、俺を見た。微笑みを浮かべて頷くと、光は唇を舐めて息を飲み、口を開いた。

「…別宅に…行きます。」

その言葉を聞いて、光臣ははっと顔を上げて、安堵したように微笑んだ。

 


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