142
次の日、仕事を終えて光と共に別宅にやって来た牧瀬は、屋敷を見て目を丸くしていた。
「…どこの王族?」
「いやー、やっと庶民仲間が来て心強いぜ」
「…?」
牧瀬の肩を叩く俺を、光は不思議そうに見つめる。
そこへ使用人が近づいて来て、そっと言葉を発した。
「失礼いたします。ご友人の倉持様がお見えになりました。」
「ありがとう。」
頷いて、玄関へ向かう光。顔を見合わせて笑い、その後に続く俺と牧瀬。倉持のやつ、絶対驚いてるはずだ。もしかしたら腰抜かしてるかも。
屋敷を出ると、玄関の前に倉持の車がちょうど乗りつけた。挙動不審になりながら車を降りる倉持に、使用人がサッと歩み寄る。
「倉持様、お待ちしておりました。お車のキーをお預かりいたします。」
「え、なんで?…っすか?」
ぶはっ、と思わず吹き出して、倉持に睨まれた。
「お車を車庫へ移動させていただきますので。」
「あ…そう、ですか。じゃあ…」
倉持は車の鍵を使用人に渡し、興奮を隠したような顔で俺たちの方へ歩いてきた。
「すみません、こんなところまで来ていただいて」
「いや、別に…」
周りの環境のせいだろうか、倉持はぎこちなく光に笑いかける。
「光臣の書斎に行きましょう。顧問弁護士の方ももう待ってますから。」
「お…おう。」
光に続いて光臣の書斎へ行くと、そこにはすでにお茶の用意がされていて、光臣と弁護士の男が待っていた。挨拶を済ませ、全員が席に着くと、光臣が口を開いた。
「では…話を始めよう。」
***
牧瀬と倉持から話を聞いて、今後の調査の説明を終えると、弁護士の男は帰っていった。
食事を済ませ、牧瀬と倉持が帰ると、光は部屋に戻るなり風呂を済ませ、沈んだ顔でベッドに座った。まだ…あの時のショックが抜けないのか、しきりに気を紛らわせるように静かに深呼吸するものの、思いつめるような影は晴れない。
「なあ、新しい部屋…探さないとな。」
「…え…あ、そうですね…」
他愛のない風を装ってそう声をかけると、光は少し口元に笑みを浮かべようとするようにひきつらせ、俯いた。
「…風呂、行ってくるよ。」
小さな頭に軽く触れ、浴室へ入る。いったいどうすればいいのかわからなかった。彼女に触れて…抱きしめたいけど、それも今の彼女にとっては…恐怖の対象なんじゃないかと、躊躇う。
男は女が思っている以上に深い欲望を女に対して抱いているものだし、その具体的なことを、光はほんの少しだけ、知っている。…俺が抱いた、あの日から。
彼女に触れれば抱きしめたくなるし、抱きしめればキスをしたくなるし、キスをすれば…それ以上のことも、したくなる。その想像はとても甘美で魅力的で、内からどんどん溢れだしてくる。だけど…それと同じ想像を、この犯人がしていると思うと――殺してやりたくなるほど憎い。
憎悪を流し去るようにシャワーを浴び、浴室を出て部屋に戻ると、そこに光の姿はなかった。
「…光?」
ベッドにも、クローゼットにもいない。もしやと思って部屋のドアを開けて廊下を窺い見る。右手に向かって長い廊下がどこまでも続いている。ゆっくりと廊下を歩いていくと、角に差し掛かった時、静かな声がした。
「…光、やっぱり…ここに戻ってこないか?」
「…もうやめてよ。」
光臣と…光。俺は壁に背をつけて息をひそめる。
「わかっている。お前が…御幸一也の元にいるほうが、この家にいるよりも…幸せであると。」
「……。」
「だけど…それでも俺は、お前はここにいるべきだと…思う。」
「…どうして?」
「…正直言って……お前は、美しすぎる。」
俺は目の前がちかちかして、頭がくらくらして…その場から動けなかった。
「ここでなら…お前を守ってやれる。」
「…おじい様が反対する。」
「おじい様もきっとわかってくれる。俺も説得するから…」
「やめてよ。ここに戻りたいわけじゃない。」
「だが…お前も不安だろ。今までも何度か…こういうことがあったはずだ。」
「……。」
「…まあ、すぐに答えを、とは言わない。どうせしばらくはここにいなければいけないし…ゆっくり考えてくれ。」
足音がして、俺はこっそりと部屋に戻る。しばらくして光も部屋に戻ってきたが、先ほどの話を俺にする様子もなく、静かにベッドに入った。
***
翌朝目が覚めると、ベッドに光の姿がなかった。顔を洗って着替え、部屋を出ると、ちょうど通りかかった使用人の女性がわざわざ立ち止まって丁寧にお辞儀をする。
「おはようございます。」
「お…はようございます。あの…光は?」
「お庭にいらっしゃいます。」
「あ、そうですか…」
「お庭は、1階に降りていただきまして、客室の扉を過ぎて右側からお入りいただけます。」
「…どうも。」
「まもなく朝食の用意が整いますが、お部屋でお召し上がりになられますか?」
「…えーっと」
「光様とご一緒にいたしますか?」
「ああ…それで、お願いします。」
「かしこまりました。」
恭しい礼をして、俺が立ち去るのを待つ使用人。…行き届きすぎて落ち着かない。
光と二人であのマンションに住んでいたころの、適当に朝起きて、コーヒーを淹れてのんびり飲む生活が懐かしい…。
そんなことを考えながら、教えてもらった通り無事庭に出た。春の陽気を感じるまぶしい庭。若草の匂いと、薔薇かなにかの甘い花の香りが満ちている。その奥の花壇の前に…光が立っていた。薄手のカットソーにひらひら揺れるロングスカート。その横顔は本当に…妖精か、天使かのように神々しく美しい。だけどその美しい顔が、感情を乱して泣き、笑い、時に性欲に塗れるのを俺は知っている。
光は振り返って、俺を見た。ちょっと作ったような微笑みの後、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「…おはよう。」
微笑んで、立ち止まりかけて、俺に触れることなく、そのまま歩いて行く。
最近はあんなに、あいつから触れてきたのに――いや、でも、あんなことがあったら仕方ないだろ。
「光。」
低い声がして、俺も振り返った。屋敷から、光臣が歩いてきたのだった。
「…君もいたか。ちょうどいい。今日…帰りは何時になる?」
「…20時には。」
「俺も…そのくらいには帰る」
「わかった。その時、話がしたい。マンションを調べさせていた者から連絡があって、いろいろわかった。」
光臣の言葉に、俺と光は息を飲んで顔を見合わせた。
***
夜、光と俺が帰宅すると、早速光臣の書斎に呼ばれた。
使用人がお茶とお茶菓子を並べて部屋を出ると、光臣は物々しい封筒を取り出す。
「まず…マンションに仕掛けられていた盗聴器が見つかった。これだ。」
何の変哲もないプラグをゴトンとテーブルに置き、光臣が言った。
「もう送信機は外してある。調べさせたが、指紋等は拭き取られていた。」
「これは…どこに?」
「玄関のコンセント口だ。やはり宅配業者が怪しいだろう。それから…これも。」
次に取り出したのは、黒い小さな四角い機械。見慣れないそれを、俺は覗き込む。
「GPSだ。君の車に取り付けられていた。これももう調べて、機能は停止してある。」
「……。」
やっぱり…あの時の男。これを仕掛けていたのか…。
「それからマンションの者に聞き込みをして、例のウサギの置物について調べた。管理人は預かった置物はすべて破棄したらしいが、そのまま所持している住人がいたので借りた。君の所に入れられたのもこういうものか?」
光臣はそう言いながら猫の置物を取り出した。プラスチック製の安っぽい置物。種類は違えど、あのウサギの置物を似たような雰囲気だ。
「あ…あぁ。」
「そうか。…これも盗聴器だった。ただ、コンセント口に差し込まず独立したタイプで、あまり長持ちはしないものだそうだ。更に無差別に投函されたところから考えると、おそらく、君たちの部屋番号を割り出すためのものだったと考えられる。」
「……。」
「つまり…犯人は俺の車にGPSを取り付けてマンションを割り出し、置物に仕込んだ盗聴器で部屋を特定して、部屋に盗聴器を仕掛けて会話を盗み聞きしてた…ってことか」
「その可能性が高い。」
光臣は頷いて、封筒から書類を取り出す。
「それから犯人についてだが…この人物である可能性が高いとみて、今捜索中だ。」
テーブルの上に並べられた証明写真。中年の小太りの男が写っている。
「この人…。」
光が愕然と青ざめて口元を抑えた。
「知ってるのか?」
訊ねると、光臣が答えた。
「光が高校生の頃付きまとわれていた…ストーカーだ。」
「…それって、あの時の?」
光は頷く。
「家に残っていた形跡と近隣の住人の目撃情報から、家への侵入者はこいつで間違いないとみられている。今は、こっちのストーカー行為との関連を調べているところだ。」
「……。」
「ただ、本人の居所が掴めていなくて…7年前の事件のあと実家に引き取られたが、両親は高齢で監督は不十分で1年と持たず実家を離れたらしい。それからは、どこで何をしているかも両親すらわからない有様だ。」
「そんな…」
「だがその点から見ても、今回の犯人と同一人物である可能性は高まった。今の手掛かりは、マンションの管理人が記録していた不審車両の特徴と、近隣で目撃されていた不審者の特徴、それから…マンションのドアに付着された…体液のDNA鑑定の結果だ。」
「……。」
――体液。
その言葉で青ざめる光を見て、胸の奥がざわつく。
「…大丈夫か?」
そう声をかけると、光は口元を押さえ、息苦しそうに立ち上がった。
「ごめんなさい…」
言葉を選ぶように、だけど困惑を隠しきれない様子で、逃げるように俯き、踵を返す。
「…光?」
「…ちょっと…気持ち悪い…」
駆け足で部屋から出て行く光。光臣は動じた様子もなく、傍に使用人を呼び、小声で話す。
「誰か…女性の使用人を付き添わせろ。」
「すぐに。」
使用人は音もなく部屋から出て行った。
部屋には俺と光臣が残り、沈黙がおりる。光臣は涼しい顔で紅茶に口をつける。
「追いかけないのか?」
「…え?」
光臣の低い声で、俺は顔を上げた。
「夫だろう。」
「……。」
俺はティーカップに伸ばしかけた手を引いた。
「今は…女性が付き添った方が良いだろ。」
そう答えると、光臣はじっと俺を見つめ、挑戦的に言った。
「俺なら追いかける。」
「……。」
挑発に乗るな、と自分に言い聞かせる。
「怖いのか?拒絶されるのが。」
「…は?」
「お前、自分の欲を…彼女に覚られるのが、こわいんだろ。」
「……。」
何を言い出すんだ。俺は呆然と光臣を見つめる。
「男なら、好きな女に欲望を抱くのは当たり前のことだ。だけど…女にとってそれは、時々恐怖となる。」
「……。」
「今回の犯人のように。お前、犯人の気持ちが少し、わかるんだろう。」
「…何言ってんの?」
「彼女に好意を抱いているのは同じだ。犯人も、お前も、…俺も。」
「……。」
「ただ、犯人のそれが行き過ぎて…彼女にとって、害となった。それだけの違いだ。」
カチャン、と冷たい音がして、カップがソーサーに戻される。
「だがお前は…夫だろう。彼女にとって、安心できる存在でなければならない。」
「……。」
そんなこと…わかってるっつーの…。
光臣は俺の反応など窺わずに書類をまとめると、封筒に仕舞った。
「とにかく…、今の所、調べはそこまでだ。また進捗があったら話す。」
その言葉を受けて、俺は立ち上がった。
部屋に戻ると、ドアの前には若い女性の使用人がいた。使用人は俺を見ると待っていたかのように話し始めた。
「御幸様、光様は体調が優れないようですので、何かございましたらお部屋のベルをお使いください。すぐに参りますから。」
「…はい。どうも…」
…そんなに酷いのか?立ち去る使用人を見送り、部屋に入る。
光はベッドの上で膝を抱えて座っていた。ドアの音に気付いて俺を見上げ、ふっと目を伏せる。
「大丈夫か?」
「…はい」
なら、どうしてそんな顔をしてるんだよ…。
彼女の沈んだ様子を見て、俺はベッドに腰掛けることすら躊躇う。
「…光。」
――お前、自分の欲を…彼女に覚られるのが、こわいんだろ。
光臣の声が頭の奥に蘇る。
「俺…別の部屋で寝ようか。」
「え…?」
光は驚いたように俺を見つめて――睨み付けた。
直後、眼前にクッションが飛んでくる。突然のことでそれを思い切り顔面に受けて、俺は呆然と立ち尽くした。
「…私が別の部屋に行く。」
気付けば光が立ち上がってドアに駆け寄り、ドアノブを捻っていた。
「おい、なんだよいきなり…」
こっちは気を使って――
そう思いながら、咄嗟に細い腕を掴む。そして直後、しまったと思って、その腕を離した。だけど光はドアの前で立ち止まったまま動かなかった。
「…おい…光。」
声をかけると、光はゆっくりと、その涙に濡れた瞳を見せつけるように、振り向いた。
…なんで泣く!?俺また何かしたっけ…?
「……。」
「お…おい!」
光はなにも言わず、ドアノブを捻って部屋を出て行った。
…あーもう、またかよ。難しい…。あいつの考えてること、全然わかんねー。俺が何をしたっつーんだよ…。俺は…今は男に触れられるのも、嫌かと思って…。……。
俺…あいつのこと、全然わからない。夫婦…なのに。
静かな部屋に一人立ちつくし、俺は深いため息を吐いた。
「…どこの王族?」
「いやー、やっと庶民仲間が来て心強いぜ」
「…?」
牧瀬の肩を叩く俺を、光は不思議そうに見つめる。
そこへ使用人が近づいて来て、そっと言葉を発した。
「失礼いたします。ご友人の倉持様がお見えになりました。」
「ありがとう。」
頷いて、玄関へ向かう光。顔を見合わせて笑い、その後に続く俺と牧瀬。倉持のやつ、絶対驚いてるはずだ。もしかしたら腰抜かしてるかも。
屋敷を出ると、玄関の前に倉持の車がちょうど乗りつけた。挙動不審になりながら車を降りる倉持に、使用人がサッと歩み寄る。
「倉持様、お待ちしておりました。お車のキーをお預かりいたします。」
「え、なんで?…っすか?」
ぶはっ、と思わず吹き出して、倉持に睨まれた。
「お車を車庫へ移動させていただきますので。」
「あ…そう、ですか。じゃあ…」
倉持は車の鍵を使用人に渡し、興奮を隠したような顔で俺たちの方へ歩いてきた。
「すみません、こんなところまで来ていただいて」
「いや、別に…」
周りの環境のせいだろうか、倉持はぎこちなく光に笑いかける。
「光臣の書斎に行きましょう。顧問弁護士の方ももう待ってますから。」
「お…おう。」
光に続いて光臣の書斎へ行くと、そこにはすでにお茶の用意がされていて、光臣と弁護士の男が待っていた。挨拶を済ませ、全員が席に着くと、光臣が口を開いた。
「では…話を始めよう。」
***
牧瀬と倉持から話を聞いて、今後の調査の説明を終えると、弁護士の男は帰っていった。
食事を済ませ、牧瀬と倉持が帰ると、光は部屋に戻るなり風呂を済ませ、沈んだ顔でベッドに座った。まだ…あの時のショックが抜けないのか、しきりに気を紛らわせるように静かに深呼吸するものの、思いつめるような影は晴れない。
「なあ、新しい部屋…探さないとな。」
「…え…あ、そうですね…」
他愛のない風を装ってそう声をかけると、光は少し口元に笑みを浮かべようとするようにひきつらせ、俯いた。
「…風呂、行ってくるよ。」
小さな頭に軽く触れ、浴室へ入る。いったいどうすればいいのかわからなかった。彼女に触れて…抱きしめたいけど、それも今の彼女にとっては…恐怖の対象なんじゃないかと、躊躇う。
男は女が思っている以上に深い欲望を女に対して抱いているものだし、その具体的なことを、光はほんの少しだけ、知っている。…俺が抱いた、あの日から。
彼女に触れれば抱きしめたくなるし、抱きしめればキスをしたくなるし、キスをすれば…それ以上のことも、したくなる。その想像はとても甘美で魅力的で、内からどんどん溢れだしてくる。だけど…それと同じ想像を、この犯人がしていると思うと――殺してやりたくなるほど憎い。
憎悪を流し去るようにシャワーを浴び、浴室を出て部屋に戻ると、そこに光の姿はなかった。
「…光?」
ベッドにも、クローゼットにもいない。もしやと思って部屋のドアを開けて廊下を窺い見る。右手に向かって長い廊下がどこまでも続いている。ゆっくりと廊下を歩いていくと、角に差し掛かった時、静かな声がした。
「…光、やっぱり…ここに戻ってこないか?」
「…もうやめてよ。」
光臣と…光。俺は壁に背をつけて息をひそめる。
「わかっている。お前が…御幸一也の元にいるほうが、この家にいるよりも…幸せであると。」
「……。」
「だけど…それでも俺は、お前はここにいるべきだと…思う。」
「…どうして?」
「…正直言って……お前は、美しすぎる。」
俺は目の前がちかちかして、頭がくらくらして…その場から動けなかった。
「ここでなら…お前を守ってやれる。」
「…おじい様が反対する。」
「おじい様もきっとわかってくれる。俺も説得するから…」
「やめてよ。ここに戻りたいわけじゃない。」
「だが…お前も不安だろ。今までも何度か…こういうことがあったはずだ。」
「……。」
「…まあ、すぐに答えを、とは言わない。どうせしばらくはここにいなければいけないし…ゆっくり考えてくれ。」
足音がして、俺はこっそりと部屋に戻る。しばらくして光も部屋に戻ってきたが、先ほどの話を俺にする様子もなく、静かにベッドに入った。
***
翌朝目が覚めると、ベッドに光の姿がなかった。顔を洗って着替え、部屋を出ると、ちょうど通りかかった使用人の女性がわざわざ立ち止まって丁寧にお辞儀をする。
「おはようございます。」
「お…はようございます。あの…光は?」
「お庭にいらっしゃいます。」
「あ、そうですか…」
「お庭は、1階に降りていただきまして、客室の扉を過ぎて右側からお入りいただけます。」
「…どうも。」
「まもなく朝食の用意が整いますが、お部屋でお召し上がりになられますか?」
「…えーっと」
「光様とご一緒にいたしますか?」
「ああ…それで、お願いします。」
「かしこまりました。」
恭しい礼をして、俺が立ち去るのを待つ使用人。…行き届きすぎて落ち着かない。
光と二人であのマンションに住んでいたころの、適当に朝起きて、コーヒーを淹れてのんびり飲む生活が懐かしい…。
そんなことを考えながら、教えてもらった通り無事庭に出た。春の陽気を感じるまぶしい庭。若草の匂いと、薔薇かなにかの甘い花の香りが満ちている。その奥の花壇の前に…光が立っていた。薄手のカットソーにひらひら揺れるロングスカート。その横顔は本当に…妖精か、天使かのように神々しく美しい。だけどその美しい顔が、感情を乱して泣き、笑い、時に性欲に塗れるのを俺は知っている。
光は振り返って、俺を見た。ちょっと作ったような微笑みの後、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「…おはよう。」
微笑んで、立ち止まりかけて、俺に触れることなく、そのまま歩いて行く。
最近はあんなに、あいつから触れてきたのに――いや、でも、あんなことがあったら仕方ないだろ。
「光。」
低い声がして、俺も振り返った。屋敷から、光臣が歩いてきたのだった。
「…君もいたか。ちょうどいい。今日…帰りは何時になる?」
「…20時には。」
「俺も…そのくらいには帰る」
「わかった。その時、話がしたい。マンションを調べさせていた者から連絡があって、いろいろわかった。」
光臣の言葉に、俺と光は息を飲んで顔を見合わせた。
***
夜、光と俺が帰宅すると、早速光臣の書斎に呼ばれた。
使用人がお茶とお茶菓子を並べて部屋を出ると、光臣は物々しい封筒を取り出す。
「まず…マンションに仕掛けられていた盗聴器が見つかった。これだ。」
何の変哲もないプラグをゴトンとテーブルに置き、光臣が言った。
「もう送信機は外してある。調べさせたが、指紋等は拭き取られていた。」
「これは…どこに?」
「玄関のコンセント口だ。やはり宅配業者が怪しいだろう。それから…これも。」
次に取り出したのは、黒い小さな四角い機械。見慣れないそれを、俺は覗き込む。
「GPSだ。君の車に取り付けられていた。これももう調べて、機能は停止してある。」
「……。」
やっぱり…あの時の男。これを仕掛けていたのか…。
「それからマンションの者に聞き込みをして、例のウサギの置物について調べた。管理人は預かった置物はすべて破棄したらしいが、そのまま所持している住人がいたので借りた。君の所に入れられたのもこういうものか?」
光臣はそう言いながら猫の置物を取り出した。プラスチック製の安っぽい置物。種類は違えど、あのウサギの置物を似たような雰囲気だ。
「あ…あぁ。」
「そうか。…これも盗聴器だった。ただ、コンセント口に差し込まず独立したタイプで、あまり長持ちはしないものだそうだ。更に無差別に投函されたところから考えると、おそらく、君たちの部屋番号を割り出すためのものだったと考えられる。」
「……。」
「つまり…犯人は俺の車にGPSを取り付けてマンションを割り出し、置物に仕込んだ盗聴器で部屋を特定して、部屋に盗聴器を仕掛けて会話を盗み聞きしてた…ってことか」
「その可能性が高い。」
光臣は頷いて、封筒から書類を取り出す。
「それから犯人についてだが…この人物である可能性が高いとみて、今捜索中だ。」
テーブルの上に並べられた証明写真。中年の小太りの男が写っている。
「この人…。」
光が愕然と青ざめて口元を抑えた。
「知ってるのか?」
訊ねると、光臣が答えた。
「光が高校生の頃付きまとわれていた…ストーカーだ。」
「…それって、あの時の?」
光は頷く。
「家に残っていた形跡と近隣の住人の目撃情報から、家への侵入者はこいつで間違いないとみられている。今は、こっちのストーカー行為との関連を調べているところだ。」
「……。」
「ただ、本人の居所が掴めていなくて…7年前の事件のあと実家に引き取られたが、両親は高齢で監督は不十分で1年と持たず実家を離れたらしい。それからは、どこで何をしているかも両親すらわからない有様だ。」
「そんな…」
「だがその点から見ても、今回の犯人と同一人物である可能性は高まった。今の手掛かりは、マンションの管理人が記録していた不審車両の特徴と、近隣で目撃されていた不審者の特徴、それから…マンションのドアに付着された…体液のDNA鑑定の結果だ。」
「……。」
――体液。
その言葉で青ざめる光を見て、胸の奥がざわつく。
「…大丈夫か?」
そう声をかけると、光は口元を押さえ、息苦しそうに立ち上がった。
「ごめんなさい…」
言葉を選ぶように、だけど困惑を隠しきれない様子で、逃げるように俯き、踵を返す。
「…光?」
「…ちょっと…気持ち悪い…」
駆け足で部屋から出て行く光。光臣は動じた様子もなく、傍に使用人を呼び、小声で話す。
「誰か…女性の使用人を付き添わせろ。」
「すぐに。」
使用人は音もなく部屋から出て行った。
部屋には俺と光臣が残り、沈黙がおりる。光臣は涼しい顔で紅茶に口をつける。
「追いかけないのか?」
「…え?」
光臣の低い声で、俺は顔を上げた。
「夫だろう。」
「……。」
俺はティーカップに伸ばしかけた手を引いた。
「今は…女性が付き添った方が良いだろ。」
そう答えると、光臣はじっと俺を見つめ、挑戦的に言った。
「俺なら追いかける。」
「……。」
挑発に乗るな、と自分に言い聞かせる。
「怖いのか?拒絶されるのが。」
「…は?」
「お前、自分の欲を…彼女に覚られるのが、こわいんだろ。」
「……。」
何を言い出すんだ。俺は呆然と光臣を見つめる。
「男なら、好きな女に欲望を抱くのは当たり前のことだ。だけど…女にとってそれは、時々恐怖となる。」
「……。」
「今回の犯人のように。お前、犯人の気持ちが少し、わかるんだろう。」
「…何言ってんの?」
「彼女に好意を抱いているのは同じだ。犯人も、お前も、…俺も。」
「……。」
「ただ、犯人のそれが行き過ぎて…彼女にとって、害となった。それだけの違いだ。」
カチャン、と冷たい音がして、カップがソーサーに戻される。
「だがお前は…夫だろう。彼女にとって、安心できる存在でなければならない。」
「……。」
そんなこと…わかってるっつーの…。
光臣は俺の反応など窺わずに書類をまとめると、封筒に仕舞った。
「とにかく…、今の所、調べはそこまでだ。また進捗があったら話す。」
その言葉を受けて、俺は立ち上がった。
部屋に戻ると、ドアの前には若い女性の使用人がいた。使用人は俺を見ると待っていたかのように話し始めた。
「御幸様、光様は体調が優れないようですので、何かございましたらお部屋のベルをお使いください。すぐに参りますから。」
「…はい。どうも…」
…そんなに酷いのか?立ち去る使用人を見送り、部屋に入る。
光はベッドの上で膝を抱えて座っていた。ドアの音に気付いて俺を見上げ、ふっと目を伏せる。
「大丈夫か?」
「…はい」
なら、どうしてそんな顔をしてるんだよ…。
彼女の沈んだ様子を見て、俺はベッドに腰掛けることすら躊躇う。
「…光。」
――お前、自分の欲を…彼女に覚られるのが、こわいんだろ。
光臣の声が頭の奥に蘇る。
「俺…別の部屋で寝ようか。」
「え…?」
光は驚いたように俺を見つめて――睨み付けた。
直後、眼前にクッションが飛んでくる。突然のことでそれを思い切り顔面に受けて、俺は呆然と立ち尽くした。
「…私が別の部屋に行く。」
気付けば光が立ち上がってドアに駆け寄り、ドアノブを捻っていた。
「おい、なんだよいきなり…」
こっちは気を使って――
そう思いながら、咄嗟に細い腕を掴む。そして直後、しまったと思って、その腕を離した。だけど光はドアの前で立ち止まったまま動かなかった。
「…おい…光。」
声をかけると、光はゆっくりと、その涙に濡れた瞳を見せつけるように、振り向いた。
…なんで泣く!?俺また何かしたっけ…?
「……。」
「お…おい!」
光はなにも言わず、ドアノブを捻って部屋を出て行った。
…あーもう、またかよ。難しい…。あいつの考えてること、全然わかんねー。俺が何をしたっつーんだよ…。俺は…今は男に触れられるのも、嫌かと思って…。……。
俺…あいつのこと、全然わからない。夫婦…なのに。
静かな部屋に一人立ちつくし、俺は深いため息を吐いた。