「…おはよう。」

階段を下りてきた光が、エントランスにいた光臣に気付いて声をかけた。

「おはよう。車の用意は整ってる。」
「ありがとう。行ってきます。」
「気を付けて。」

光は頷いて、運転手が待つ車へ歩いていく。

「おはよ。」

広間から顔を出してその横顔に声をかけた。しかし光は俺を一瞥すると、素っ気なく視線を逸らして行ってしまった。

「喧嘩でもしたのか?」

光臣がどこか面白がるように言う。

「俺に声をかけたのに君を無視するなんて、相当だぞ。」
「…別に…」

くそ、こいつに言われると面白くない。

「喧嘩くらいするよ。…夫婦なんだから。」
「ふうん…」

強がってみたものの…こんな風に喧嘩するのは初めてのことだ。
…いや、一度あったな。高校生の時…。俺がくだらない見栄を張って、俺に気のある女子に、光の前で連絡先を教えた。やきもちを焼かせたくて。今思うとあれは、俺の計画通りやきもちを焼かせられたんだろうけど…その計画は失敗だったな。あの頃はまだガキで、不器用だった。…いや、今もか。

「まあ…ベッドの次は家を別にされないよう、気を付けるんだな。」
「…え!?」
「新しい部屋を用意させただろう。この屋敷でのことは、すべて主人である俺に報告が来る。」
「……。」

くそ…この屋敷内ではさすがに不利だ。

「どこへ行く?」

踵を返した俺を、光臣が軽く呼び止める。

「ちょっと走ってくるよ。今日はオフだから。」
「そうか。…あ、そういえば…君に見せようと思っていたものがあるんだが。」
「え?」
「着いて来てくれ。」

ちょっと手招きして、颯爽と歩きだす光臣。俺はその背中を、不本意ながら追った。


***


「まさかトレーニングルームまであるとは。すげえなマジで。俺もここに住みてぇな〜」

倉持がストレッチをしながらぼやく。あのあと、光臣に案内されたのはこの地下のトレーニングルームだった。一通りのマシーンや道具が揃っていて、素振りをする十分な広さもある。滞在中はここを自由に使っていいし、牧瀬や倉持ならばいつでも屋敷に呼んでいい、と光臣は言った。

「俺は早く日常に戻りてーよ。」
「なんで?」
「使用人とかいっぱいいて落ち着かねーし…」
「いいじゃねーか。どうせ今だけなんだから、滅多にできない体験と思って楽しめよ。」

倉持にしてはずいぶん楽観的で優しい言葉だ。俺はすっきりしないままダンベルが入ったケースをあさる。

「それによ、仕方ねーだろ…光の為なんだから」
「それはそうだけど…」
「お前がしっかり支えてやれよ。」

倉持があまりに真剣な顔で呟くものだから、俺はふと、弱音を零してしまった。

「…今喧嘩中。」

倉持は豆鉄砲を食らった鳩のような顔で俺を見た。

「喧嘩!?なんで?」
「いやー、昨日さ…」

俺は昨日光臣から聞いた話と、その時の光の反応、そして部屋に戻ってからのことを話した。

「もー何考えてんのか全然わかんねーし…」
「そりゃ…お前の言うこともわかるけどよ。光はお前に傍に居てほしいんじゃねーの?」
「どーかなー…。なんか、俺も警戒されてるっぽいしさ。今は男に近寄んのも嫌なんじゃねーかって…」
「お前は別だろ、旦那だぞ?」
「…そうは思えねーよ。」

思わず深いため息を吐く。

「なんか…めんどくせー…」

倉持は何か考えるように少し俺を見つめて、前を向いた。

「なら…もらうぞ。」
「…は?」

歩き出し、バットを手に取る倉持を目で追う。

「もらうとか…やめろよー、すぐそういうこと言うの。」
「お前こそやめろよ。」
「…え?」
「光をテメーのもんにしたくせに…愚痴とか言ってんじゃねーよ。」
「…愚痴のひとつも吐くなっていうのかよ?」
「そうだよ。俺にはな。」

倉持はバットを肩にかけ、俺を睨む。

「幸せだっつーのろけならいくらでも聞いてやる。身を引いた甲斐があるってもんだ。でもな…めんどくせーだのやめてーだの…今度言ったら全力で奪いに行く。」
「……。」
「俺が…どれだけの男が…どれだけの思いで身を引いたか…考えろ。」

そう言うと、倉持は俺を無視するように素振りを始めた。
…そんなこと言われたって…無視されてんだから、しょうがねーだろ。これ以上…俺にどうしろって言うんだよ。
冷たいダンベルを握りしめ、俺は胸の奥にざらつきを感じた。


***


夕方まだ日が暮れる前、光が帰ってきた。すぐ後には別の車で牧瀬がやってきて、俺と倉持は使用人にそれを聞き、玄関へと急いだ。
車から降りた光は、駆け寄ってきた女の使用人に付き添われて屋敷へ入っていく。俺を少し振り返ったけど、すぐに目を伏せて、疲れた様子で部屋へ向かった。
それを横目に、ちょうど車から降りてきた牧瀬を振り向く。

「牧瀬、ずいぶん早かったけど…」

予定では夜に帰ると聞いていた。だけど今はまだ16時を少し回ったところだ。

「変な手紙が届いて…午後はあと打ち合わせだけだったので、キャンセルして早めに帰って来たんです。念のため私とは別々の車で…」
「そうか…ありがとう。」
「それで、これがその手紙なんですけど…」

牧瀬は手袋をして紙袋から白い紙を取り出した。

「触らない方がいいですよ。」

そう言って牧瀬が広げて見せた紙を、倉持と覗き込む。

「うわっ…なんだこれ」

倉持が嫌悪感をあらわにして零した。そこに書いてあったのは…

『すぐに助けに行くよ。今夜君を抱くからね。』

「…あと、これは光には見せてないんですけど…これも一緒に」

牧瀬は紙袋の中を広げて俺と倉持に見せた。そして…言葉を失った。
見たこともないもの…性器を模した玩具、拘束具、ほとんど布地のない下着…しかもそのどれもが乾いた白い液体跡のような汚れに塗れている。

「何かあったのか?」
「あ、光臣さん…」

光臣がやってきて、牧瀬は持ってきたものを見せて同じことを説明した。

「…わかった。光を連れて来てくれてありがとう。これは預かる。」

光臣は紙袋を受け取ると、使用人を振り向いた。使用人がすぐに歩み寄ると、口早に指示する。

「光は部屋か?」
「はい。使用人を付き添わせております。」
「わかった。今日からは部屋の前にひとりつけておけ。光が部屋から出た時も誰か付き添わせて、絶対に目を離すな。」
「承知いたしました。」

使用人はすぐに屋敷へ入っていく。

「例の電話はあれからどうなった?」

光臣はまた牧瀬を振り返って聞いた。

「光がマンションを出てから…あの一言を喋ったあとは一度も。」
「そうか。やはりそれも同一人物だな。明日の光の予定は?」
「衣装合わせと打ち合わせが2件…だけど、状況によってはキャンセルしようと…」
「それがいい。」

光臣が頷くと牧瀬も頷いて、どこかへ電話をかけ始める。

「光臣様!」

そのとき、屋敷から慌てた様子で使用人が飛び出してきた。ただならぬその様子に緊張で強張った顔で俺たちは振り返る。

「光様が…」
「どうした。」
「ど…どこにもいらっしゃいません。」

はっ、と乾いた息のような声がこぼれた。

「どういうことだ!?」
「お…お部屋へお連れしたはずが、いつの間にかお姿が…」
「付き添っていた使用人はどうした!」
「お、お召替えのあいだ廊下でお待ちしていましたが、お声掛けしたところ、なかなかお返事がないので中を拝見しましたら…いつの間にか…」

聞いているのももどかしく駆け出した。階段を駆け上がって、光が使っていた部屋に駆け付ける。使用人たちが顔面蒼白で光を探しているなか、部屋をうろついて、バスルームを開け、ベッドの布団をめくり、どこにも光がいないとわかって、立ち尽くした。そして気付いた。部屋の窓は開け放たれていて、バルコニーから自由に出入りできるようになっていた。バルコニーに飛び出し、身を乗り出して外を見る。眼下には広い庭。それを囲む木々とレンガの外壁。その影に――黒い車。

「おい!」

部屋を振り返って叫ぶ。

「すぐ車を出せ!あの車を追ってくれ!!」

蜘蛛の子を散らすように部屋から飛び出していく使用人たち。俺も階段を駆け下りて、屋敷前の車に駆け寄る。

「どけ!!」

運転手を押しのけて運転席に座り、そのまま車を発進させる。並木道をすり抜け、慌てて使用人が空ける門を抜けて、黒い軽自動車がいた方へ車を走らせる。たしか…こっちに…。
角を曲がると、今まさに黒い軽自動車が発信したところだった。アクセルを踏み込み、黒い車を追う。

「――おい!!待て!!!」

窓を開け放って怒鳴りつけ、聞いたことがないほどの唸りを上げるエンジン音を耳に、黒い軽自動車だけを睨みつけてハンドルを握りしめた。

 


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